可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会 大久保如彌個展『不確かな家、透明なからだ』

展覧会『大久保如彌「不確かな家、透明なからだ」』を鑑賞しての備忘録
GALLERY MoMo Ryogokuにて、2023年10月14日~11月18日。

家に囚われた女性をテーマとした絵画と立体作品とで構成される、大久保如彌の個展。

《Living in the Closely Glazed Space》(1303mm×194mm)は、植物と植物をモティーフとした壁紙、器などに囲まれた女性の姿を異時同図的に表わした作品。パッチワークのワンピースを身につけた女性が椅子に腰掛けてパッチワークをし、積み上げられたキルトを背凭れにして横になり、キルトの詰まった棚の前で布を畳んでいる。キルトは窓台にも窓を覆い隠すほど積み上がり、壁際に掛けられている。生地のストックもたくさんある。植物文様の壁紙やカーテンや染付の皿、自然景観の絵画(あるいは写真)が部屋を飾る。鉢植えの観葉植物もある。そして、床には人形の家や女の子の人形、鳥籠が置かれている。女性のいる空間は恰もテレビの撮影セットのように天井がない。壁が2方にしかない。人形の家のアナロジーとなっている。

 ゴットフリート・コルフは『人形の家、ブルジョワジーの住居の鏡』というエッセイのなかで、人形の家は、少なくとも17世紀にはすでに住居の正確な再現ではなく、教育的な目的をもっていたとのべている。(略)
 (略)
 コルフはごく初期の人形の家がつくられた時代、17世紀のニュルンベルクで出版されていたアンナ・ゴヘルラインの教訓詩を引用しながら、すべての子供たちは「この真面目な、しかもあらかじめ固定された遊びという代理物をとおして〈家庭の世界〉の規則や技術、大人の世界の形式や規範を学んだ」ことを説明している。コフェルラインは幼児教育に身を捧げた婦人で、人形の家を展示したり、パンフレットを出して人形の家から家政について学ぶことをはじめて主張した人である。コルフによればそれは、「家政の特別な現実における美徳と義務のカタログ」のようなものであった。ドイツにおいてはようやく19世紀になって、家のなかでの公/私の分離が家を変えるところまで達していた。家は私的な生活で充たされたものになる。こうした変化が忽ち人形の家にあらわれる。このような状況への即応は人形の家が、過ぎ去った世界へのノスタルジーではなく、現実の世界での教育を目指すものにほかならなかったからだ、とコルフはのべている。実際、世代がかわるときに伝来の人形の家が「改修」されることさえあった。人形の家は過去の追憶ではなく現在に生きていたのである。またかつては家の生活は男のものでもあれば女のものでもあった。家庭の成立は家政を専ら女性の義務とするようになる。そのとき以来人形の家は女の子のための玩具になり、女の子はそこで家庭における女の役割を学ぶことになる。(略)
 コルフの考えでは人形の家は玩具のかたちをとりながら、既存の社会秩序を維持していく役割を絶えず担い、いわばそれは快楽原則をとおして人びとを現実原則に従わせるという、ブルジョワジーの社会固有のメカニスムからあらわれたひとつの支配の道具だというわけである。人形の家はつねに時代の「進歩」を刻みこんでもいた。人形の家の台所は早くから電化され、つねに幸福の記号のように子供たちのまえにあらわれた。と同時にそれはやはり想像力によってもぐりこむミニアチュールの世界だった。だからそれはいつでも夢みる可能性に開かれていた。だがそこで出くわすものは、不条理にみちたイメージではなく、現実の世界で女に割当てた役割であった。人形の家は典型的に教化の道具になった玩具であった。(多木浩二『目の隠喩 視線の現象学筑摩書房ちくま学芸文庫〕/2008/p.61-64)

そして、「人形の家」=「撮影セット」の周囲には植物園の温室が拡がっている。植物が繁茂する明るい空間は「ガラスの天井」がもたらしたものであり、ガラスの天井や壁面を支える鉄製の格子が覗く。温室は鳥籠のアナロジーであり、女性に対する支配を象徴する。鳥の絵を手にしている女性を描いた《A Syndrome of Wishing to Fly》(180mm×140mm)はタイトル通り鳥籠から飛び立つこと、支配からの解放に対する冀求を暗示する。
本展出品には、パッチワークなど縫い物をする女性の手を始め、手が繰り返し登場する。とりわけ、《Uncertain Home》(275mm×310mm)や《Home Decoration -Coener》に登場するガラス製の手が象徴的である。パッチワークないし運針と手のイメージは、繋ぎ合わせる作用を連想させる。

 他者と繋がりうる存在は女性であるという先入観もまた、現代社会においていわゆる依存しないマッチョで強い自己像を構築するのを下支えしてきた。わかりやすい例をあげれば、こういう自己は、レイチェル・ギーザが『ボーイズ 男の子はなぜ「男らしく」育つのか』のなかで言及する「マン・ボックス」に似ている。男らしさが、柔らかい・優しい・感情的・フェミニンといった印象を与えるものをすべて排除することによって成立しているのだ。ケア実践を担うのが圧倒的に女性の方が多いのには、このような古くから蔓延するステレオタイプの影響があるだろう。しかし、中村佑子によれば、『実用介護事典』では他者に開かれた性質、つまり「母性」はすでにジェンダー二元論を超える「人間が本来持っている性質」として定義されている。そして中村はこう続ける。「地縁も、人とのつながりも希薄な現代社会において、他者へのセンシティビティに「母」という言葉を使うなら、それはもはや生物学的な女性や、子どもを産んだ人だけではなく、多くの人がもつべき力のようなものとして、とらえられるだろう」。(小川公代『ケアする惑星』講談社/2023/p.95-96)

他者と繋がることを暗示するパッチワークをする女性の手が糸で引っ張られ、カーテンに現われた手の影によって操られている《Tied》(273mm×410mm)は、「他者と繋がりうる存在は女性であるという先入観」を表現した作品と言えよう。
《Put a Fire to Set Me Free》(1620mm×1303mm)では、女性が家に火を放つ。人形の家=鳥籠からの脱出を遂げる。それは降り注ぐ不自然な直線、あるいは女性が浅い池に水に浸している(地に足を付けていない)ことから、今だ脳裡に浮かぶ夢想である。だがその夢想は現実化されようとしている。現実化のための計画書が《A Plan -to a mountain》(318mm×410mm)である。そこでは家に火を点け、山へ向かう構想が描かれる。道すがら、牢獄としての家に替えて、シェルターとしてのテントが張られる。反乱の旗印《Patchwork -Mountain》(645mm×250mm)には、山が描かれる。山頂へ到達し、自らが眺める主体となることで、被支配状態からの脱却が図られるのだ。