可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

映画『月』

映画『月』を鑑賞しての備忘録
2023年製作の日本映画。
144分。
監督・脚本は、石井裕也
原作は、辺見庸の小説『月』。
企画は、河村光庸。
撮影は、鎌苅洋一。
照明は、長田達也。
録音は、高須賀健吾。
美術は、原田満生。
装飾は、石上淳一。
衣装は、宮本まさ江
ヘアメイクは、豊川京子と千葉友子。
特殊メイクスーパーバイザーは、江川悦子。
編集は、早野亮。
音響効果は、柴崎憲治。
音楽は、岩代太郎

 

言葉を使えない一部の障害者は声を上げることができない。ゆえに障害者施設では、深刻な問題が隠蔽されるケースがある。

かつてあったことは、これからもあり
かつて起こったことは、これからも起こる。
太陽の下、新しいものは何ひとつない。
見よ、これこそ新しい、と言ってみても
それもまた、永遠の昔からあり
この時代の前にもあった。
昔のことに心を留めるものはない。
これから先にあることも
その後の世にはだれも心に留めはしまい。
(『コレヘトの言葉』第1章第9節~第11節)

2011年。東日本大震災津波被害を受けた地域。夜、小説家の堂島洋子(宮沢りえ)が懐中電灯を手に瓦礫が散らばる線路を辿っている。遠くサイレンの音が響く。高台に出ると、雷鳴が轟き、稲光で一面に拡がる瓦礫が照らし出された。
ヘアサロン。床に長い髪が切り落とされていく。洋子はベリーショートにカットしてもらった。
朝。洋子の自宅。リヴィングには引っ越ししたかのように段ボールの箱が積まれている。洋子と昌平(オダギリジョー)が並んで朝食をとる。クロワッサンを口にする洋子。昇平が洋子の向かいの椅子に移る。浮かない表情の洋子を見て、昇平が隣に戻る。たまにはいいかなと思って。じゃあ、ウィンナーあげる。じゃあ、タマゴをどうぞ。卵焼き食べないの? …食べるけど。
2人がアパルトマンの螺旋階段を降りる。近くのゴミごみ集積所に置かれた三輪車に洋子が目を惹かれる。昌平が慌てて洋子の前に立ち、洋子の視界から三輪車を隠す。2人は並んで歩き出す。
洋子は森の中の、舗装されていない道を歩く。しばらく歩くと、森の中に突然鉄筋国リートの建物が姿を表わす。県立の知的障害者福祉施設。園長(モロ師岡)が洋子を出迎える。解錠して扉を開け、扉を閉めるとすぐに施錠する。園長が洋子を伴って廊下を抜け、ホールへ案内する。パーテーションでところどころ仕切られた中、身体の一部を震わせる人、擬音のような言葉を繰り返す人、唸る人、自分の顔を叩く人などがいる。入所者の世話をする制服姿のスタッフたち。園長が洋子を1人の若い女性(二階堂ふみ)に任せると、彼女は笑顔を見せた。よろしくお願いします。
洋子は笑顔の女性に連れられて、窓が塞がれ、卓上ランプだけが点された部屋に向かった。ベッドの上に女性が横になっている。きーちゃんは話せません。立てないし歩けません。目も見えないし、音も聞こえません。意思疎通できないのに何で目が見えないって分かるんですか? 光に反応しないからです。ベッドに記された生年月日で洋子はきーちゃんが全く同じ誕生日だと知った。ここではあり得ないことがあるんです。初日から面喰らってるんじゃないですか? 笑顔が溢れる職場ですよ。
初日の勤務を終えた洋子がロッカーで私服に着替え、鏡を見ていると、施設と仕事を案内してくれた女性から声をかけられる。堂島洋子さんなんですね。有名な作家さんじゃないですか。自分も小説描いてるんです。綺麗事じゃない現実を書きたくて、取材のためにここで働いてるんです。もう書けないの。あんなに売れたじゃないですか? 書けなくなったから、ここで働くことにしたの。ここを下に見てるとかそういうことじゃなくて。私もヨウコです。私は太陽の「陽」だから字は違いますけど。洋子さんと私、ものすごく似てると思ったんです。
オレンジ色の明るいワンピース姿の陽子が園を出て森の中を歩いて行く。その表情は暗い。
洋子がゴミ箱の袋を交換していると、ハーモニカの音が聞こえる。音のする方へ向かうと、建物の外でに絵を手にした若い男性スタッフ(磯村勇斗)がいた。さあ、さあ、さとくんが来ましたよ。はじまり、はじまり…。あの、すいません。洋子が男に声をかける。今度入りました堂島洋子です。よろしくお願いします。ここではさとくんと呼ばれています。今度の日曜日紙芝居をやろうと練習してるんです。自分が描いたから下手ですけど。『花咲か爺さん』です。どんな話でしたっけ? さとくんが紙芝居を演じてみせる。…ここ掘れ、ワンワン。正直爺さんが鍬を入れると、小判が出てきました。隣の欲張り爺さんが聞きつけて…。そのとき施設内で叫び声がした。夜は危ないから早く帰った方がいいです。僕はこれから夜勤なんで。お疲れ様でした。
さとくんが1人紙芝居の練習をしているのに、2人の男性職員(大塚ヒロタ、笠原秀幸)が気付く。あいつ、また意味ねえことやってるよ。本当ですね。
スーパーマーケット。半額のシールが貼られた食品を前に思案する洋子。見切り品をカゴに入れてレジに向かったところで、師匠、師匠と喜色満面の昌平が跳び込んできた。その呼び方、外では止めてよ。師匠、師匠、やりました、仕事見つかりました! マンションの管理人。これで食いっぱぐれることなくなる、かな。
自宅に戻った2人。これからは俺が何とかするから。でも頑張って意味ある? テーブルの上には消防車とパトカーの玩具が置かれている。昇平はベランダに出て、夜空を見上げる。洋子も夫の隣に立って上を見上げる。上がっていきましょう。上へ、上へ! 頑張ろう! 昌平は洋子を寝室へ連れて行き、ベッドに押し倒して覆い被さると、洋子の胸に顔を押し付ける。昌平が洋子に掌を差し出すと、洋子が昌平に掌を合わせる。

 

堂島洋子(宮沢りえ)は、かつて東日本大震災を描いた作品で有名な文学賞を受賞した。コマ撮りアニメーション作家の夫・昌平(オダギリジョー)との間に翔一を授かったが、難病を抱えた息子は手術時の低酸素脳症により言葉が話せないまま3歳で亡くなった。執筆出来なくなった洋子は、県の運営する知的障害者福祉施設でパートタイマーとして働くことにした。園長(モロ師岡)が洋子の指導係にしたのは坪内陽子(二階堂ふみ)という若い女性職員だった。笑顔を絶やさない陽子は作家志望で取材のために働いていると言う。洋子から執筆のアドヴァイスを求められた洋子は、小説のために生きると言葉が噓になる気がすると窘める。陽子は、誰もが噓をついていると反発する。敬虔なクリスチャンの家庭に育った陽子は、父親(鶴見辰吾)からは暴力を受け、母親(原日出子)からは見て見ぬ振りをされてきた。さとくんと呼ばれている職員(磯村勇斗)は自らの発案で『花咲か爺さん』の紙芝居を入所者に向けて演じる。無意味な行動で職場を掻き乱していると腹を立てた2人の男性職員(大塚ヒロタ、笠原秀幸)はさとくんに紙芝居を廃棄させる。2人から入所者と同じだと言われたさとくんは「心の無い」入所者と自分と断じて違うとの思いを抱く。耳の聞こえない恋人(長井恵里)は優しいさとくんの変化とそこはかとない不安とを感じ取る。友人の産婦人科医(板谷由夏)の診察を受けた洋子は、妊娠5週だと告げられた。42歳になる洋子は、翔一との3年間を思い出し、高齢出産に伴うリスクを考えざるを得ない。無理して明るく振る舞う昌平に妊娠の事実を告げることはさらなる心理的負担をかけることになると、洋子は夫に黙って堕ろそうとする。

(以下では、冒頭以外の内容についても言及する。)

相模原障害者施設殺傷事件をモティーフとした作品。映画=小説はフィクションであり、虚構=噓である。噓だからこそ描けることがあるが、噓でも描かれないことがある。本作品は、避けられているテーマを果敢に俎上に載せてみせた。それだけでも敬服に値するが、作品として見応えがある。

さとくんは画家志望の青年。自らの絵の才能を活かし、入所者を楽しませようとする。だが他の職員はさとくんの独断専行が気に食わない。物語を理解しない入所者に対して紙芝居など意味が無いと、さとくんに紙芝居を廃棄させる。その際、さとくんは、意味の分からない行動を繰り返す点で入所者と同じだと言われる。さとくんは「心の無い」入所者とは絶対に違うとの思いを強く抱く。その後さとくんは「心の無い」入所者を抹殺する計画を構想する。その構想は手紙にして政治家に届けたことでさとくんは措置入院となる。さとくんは、画家になれず優生思想に走ったアドルフ・ヒトラーに重ね合わされる。
陽子は父親から暴力を受け、母親に見て見ぬ振りをされてきた。敬虔なクリスチャンの両親の言動に矛盾を感じてきた陽子は、人々の欺瞞を嫌悪する一方、皆が噓をついていることを理由に自らも噓を重ねる。小説家志望の陽子は、綺麗事じゃ無い現実を描こうと取材のために知的障害者福祉施設で働き始めた。だが文学賞に応募した作品は落選する。自らの才能の無さに打ち拉がれる。
洋子は東日本大震災の被災地に足を運び、小説を書いた。編集者に提出したリアルな作品は却下され、読者を励ますような内容を求められる。編集者の意に沿った小説は、文学賞を受賞し、広く人々に読まれることになった。さとくんから受賞作には綺麗事しか書かれていないと言い当てられる。

冒頭、洋子と昌平がとる朝食はクロワッサン(croissant)すなわち三日月であった。三日月の鋭利な形は、ルナティック(lunatic)=狂人・狂気を介し、後に鎌の刃となって姿を現わすことになる。
洋子が、月を見上げ、鏡を見る。月は太陽の光を反射ひて輝く点で鏡に等しい。反射(reflection)が内省(reflection)であることを踏まえれば、月を見ることと鏡を見ることとは、ともに自らを見ることであることは歴然である。
本作の佳境は、さとくんと洋子との対峙であり、そこでも月=鏡が重要な役割を演じている。「心の無い」入所者を殲滅する使命に燃えるさとくんは優生思想的発想だと非難する洋子。だが洋子は、高齢出産に伴う疾患の「リスク」を考慮して出生前診断――出生前診断を受けたカップルの96%が疾患リスクで中絶を選んだとのデータもあるという――を受けるか、そもそも中絶するか、洋子は翔一を病気で失ったこともあって悩んでいた。洋子の発想に優生思想と何が違うのか。重度の障害を持つ子を持つことを本当に望むのかと、さとくんに詰問される。ルナティックなさとくんはいつしか鏡のように洋子の姿に入れ替わる。入所者の支援を行う職員たちは、興奮した入所者から叩かれたり噛まれたりと暴力を振われたり、糞尿をなすりつけられることさえある。そのような役割を社会と隔絶した障害者施設の職員に押し付けて優生思想を非難すること――文字通りの綺麗事――の不条理。無臭のユートピアは、臭い物に蓋をして成り立っているに過ぎない。洋子へ/からの鋭い糾問に、観客も無傷ではいられない。

洋子と昌平とが結婚することになったのは、回転寿司で一緒にギョク(厚焼き玉子の握り)の皿に手を伸ばしたことであった。ギョクは2人が自分たちの子を求めていることのメタファーなのだ。だからこそ、冒頭の朝食のシーンで、昌平が厚焼き玉子を食べなかったことが、翔一の亡き後、もはや子を求めていないと昌平の気持ちを洋子は推察する。

 かつては宗教的感動が文学的感動を包含していた。祭りを考えるだけでそれは分かる。ある段階から逆になった。宗教が個人的問題に縮小したからである。いまでは宗教的感動は文学的あるいは芸術的感動に包含されているように見える。
 美術館の収蔵品のかなりの部分は特定の宗教のもとに制作されたものだが、いまでは誰もその宗教を問題にしない。美として扱うのである。美は感動の別名である。この事情が、変化がどのようなものであったか如実に示している。美術館という近代的制度のもとでは、宗教的感動は芸術的感動に包含されているのだ。文学全集という近代的制度においても事情は同じである。宗教的感動と芸術的感動のどちらがどちらを包含するか、かつてといまでは逆転している。
 逆転したのはいずれも感動であることに違いはないからである。宗教と芸術は感動において通底している。共感覚は、この感動のからくりの要の一にあると思える。それは言語操作にかかわる生理的かつ精神的な現象、つまるところ言語現象なのだ。
 私は共感覚とは言語現象であるとしか思えない。
 共感覚の問題は、言語の獲得とともに人間が直面しなければならなくなったさまざまな問題、すなわち社会的・政治的・宗教的問題の基層に潜んでいる。共感覚すなわち感覚の転移にこそ、人間の基層を解く鍵が潜んでいる、と私には思える。(三浦雅士「孤独の発明 または言語の政治学講談社/2018/p.447-448)

言葉=思考が常にシニフィエと乖離する、すなわち本質的に言葉は虚構である。言葉が人を動かすなら、およそ人は虚構によって動かされると言える。だからフィクション=映画・文学・アニメ・ゲームによって人は動かされる。

かつてアニメ『ポケットモンスター』の主人公はサトシであった。現実の位置情報を利用してスマートフォンにインストールされた拡張現実機能で現われるモンスターを捕まえる『Pokémon GO』の発売日は、2016年7月22日。相模原障害者施設殺傷事件が発生したのは2016年7月26日未明のことであった。「さとくん」は『Pokémon GO』によって「GO」と背中を押された。現実が虚構により構築されていることを端無くも示している。

菊地成孔が、かつて深夜のラジオ番組において、音楽の力が諸刃の剣であることを指摘していた。言葉=フィクションは共感覚を生む。だが共感覚は善にも悪にも転がる可能性がある。