可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会 佐藤T個展『窓の外』

展覧会『佐藤T個展「窓の外」』を鑑賞しての備忘録
八犬堂ギャラリーにて、2023年4月22日~30日。

アクリル絵具による作品10点、ペンによる作品1点、鉛筆による作品3点、フェルトによる作品3点で構成される、佐藤Tの絵画展。

表題作《窓の外》(530mm×455mm)は、黄やピンクを帯びた光を受け輝く雲が浮かぶ空の画面の前に坐る、白い半袖Tシャツの女性の肖像画。女性の顔や服に背後の画面(右上と右下に角が見えるので壁ではなく画面と分かる)と同じような色味が映り、なおかつ彼女の背に濃い影ができていることから、空の映像をプロジェクターでスクリーンに投影している状況と分かる。画面の四周(女性の周囲)にはピンクや紫や青の絵具の飛沫が散っていることから、「スクリーン」は木枠に張った画布を思わせる。だが、絵具は「画布」を越えて――女性のパンツ(太腿)にまで――飛び散り垂れている。作品自体が画面=絵画であるという当然の前提が強調される。

約600年の昔、イタリア・ルネサンス人文主義者、レオン・バッティスタ・アルベルティは、著書『絵画論』(1436)の中で、絵画と窓について次のように述べました。
「私は自分が描きたいと思うだけの大きさの四角のわく〔方形〕を引く。これをわたしは、描こうとするものを通して見るために開いた窓であるとみなそう」
窓は、室内にいるわたしたちに、四角い枠に囲われた外の世界の眺めをもたらしてくれるもの。絵画もまた、「今ここ」にいるわたしたちに、四角い枠に囲われた「ここではない世界」の眺めをもたらしてくれるもの。アルベルティが「絵画=窓」と簡潔に定義して以来、数えきれない画家たちが窓にインスピレーションを受けて作品を制作してきました。(東京国立近代美術館編『窓展:窓をめぐるアートと建築のたび』平凡社/2019/p.10〔蔵屋美香執筆〕)

空の映像が映るスクリーン(あるいは空が描かれる画布)は「窓」であり、その手前に坐る女性は「『窓』の外」に位置する。そして、その彼女の座る姿が絵具の飛沫によって絵画という画面=窓の中であり、鑑賞者は「窓」の外側に立つことが示される。二重の「窓の外」、すなわち「窓の外」の反復が《窓の外》という作品である。この「反復」によって鑑賞者はさらなる「窓の外」を想像せざるを得ない。画中の女性(作品)を見詰めているはずの鑑賞者が実は他者から見詰められているという「窓の外」からの視線に対する意識を浮上させる。この点、海を背に岸壁に坐る女性の背後にをUFO(空飛ぶ円盤)を描いた《何も見なかった》(410mm×318mm)が、外部からの視線を意識しないことを明示して対照的である。また、安野光雅『もりのえほん』よろしくカラスの姿が茂みに紛れている《カラス》(455mm×380mm)は、《何も見なかった》の女性同様、「何も見な」い鑑賞者の姿をやはり俯瞰して(窓の外」からの視線で)浮き彫りにするのである。
鑑賞者に向けられる架空の外部(「窓の外」)からの視線は、画中の女性からの眼差しに重ね合わされる。彼女は、作家が本展ステートメントで述べるように「見る人を見つめ返している」のである。同様の構造は、例えば、小売店のバックヤードと思しき場所でフードを被り佇む女性を描く《警告》(410mm×318mm)において、彼女の背後のブルーシートに他者の視線を表わす赤い矢印が3本描き込まれ、また、書割のようなブロック塀の蔭で夕陽を避ける女性を描く《夕日に見られていた》(727mm×606mm)では、まさに夕陽が他者の視線であることが題名に宣言されていることからも明らかである。
また、スナップショットのようなイメージは作品画面をPCやスマートフォンの液晶画面と捉えさせる。あらゆるものを窓(=液晶画面)越しに見ている平素の環境の再認識を鑑賞者に迫り、今、窓(=液晶画面)の外で、現実に作品を目の当たりにしているとの実感を生む。