可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

映画『正欲』

映画『正欲』を鑑賞しての備忘録
2023年製作の日本映画。
134分。
監督・編集は、岸善幸。
原作は、朝井リョウの小説『正欲』。
脚本は、港岳彦。
撮影は、夏海光造。
照明は、高坂俊秀。
録音は、森英司。
音響効果は、大塚智子。
美術は、井上心平。
衣装は、宮本まさ江
ヘアメイクは、新井はるかと金田順子。
装飾は、中村三五。
音楽は、岩代太郎

 

横浜市。社員食堂。佐々木佳道(磯村勇斗)が給水機で水を汲んでいてコップから水を溢れさせてしまう。食事を終えた上司から草野球に誘われる。佐々木が固まる。…行かないよな。上司は佐々木が断ることは織り込み済みだった。お誘いありがとうございます。上司は部下たちと立ち去る。佐々木は給水機の傍のラックに置かれた結婚相談所のチラシが目に入る。トレイにサンドイッチとコップを載せ、佐々木は誰もいないランチテーブルに1人で坐る。この世界には情報が溢れている。明日死にたくない人、あるいは死なない人のためのものだ。明日生きていたくない人、死んでもいい人のためのものではない。流れに乗れる人が社会の一員だということだ。放っておかれるにはそれが一番なんだ。佐々木のスマートフォンが鳴る。意外にも電話は広島県警察交通部からで、両親の交通事故死の連絡だった。
福山市。佐々木がタクシーで火葬場から実家へ向かう。隣には両親の遺骨。座席のモニターでは英会話教室の宣伝が流れている。
福山市。ロードサイドの回転寿司店。仕事帰りの桐生夏月(新垣結衣)が、カウンター席に1人坐っている。テーブル席では若い女性が鰤の皿を手に取り、食レポしていこうと思いますなどと言って、向かいの席の恋人に撮影させている。桐生はスマートフォンで天気予報を確認していると、注文した寿司が差し出される。黙々と寿司を頬張る。店を出て、軽自動車に乗り込んだ桐生は、夜の国道を走る。ラジオからは結婚相談所のCMが流れる。街灯以外に灯りのない細い道を抜け、実家の狭い駐車スペースにバックで車を入れる。両親は既に眠り込んでいて、家は真っ暗だ。2階の自室の灯りを付け、バッグからスマートフォンを取り出すと、ベッドに倒れ込む。川のせせらぎの動画を再生する。動画に寄せられたSATORU FUJIWARAのコメントにタップして、関連動画を見る。姿見に自分の姿が映っているのに気付き、鏡に布をかける。灯りを消し、ベッドに仰向けになって、スマートフォンの動画を眺める。目を閉じて、自らが水に浸されていく姿をイメージする。いつしかスマートフォンを落とし、桐生は水に浸っている妄想に囚われる。体中を水に犯されていると興奮した桐生は下腹部に手を伸ばして弄り、果てる。
横浜市。朝、食卓に着いた寺井啓喜(稲垣吾郎)は、不登校の10歳の息子・泰希(潤浩)から「ミワにこチャンネル」という動画を見せられる。少女ミワ(白鳥玉季)が、不登校の子どもたちと繋がろうと開設した番組で、学校以外にも図書館や博物館など学びの場はいくらでもあり、大好きなアライグマについて研究していると訴えていた。泰希が父に言う。僕もやりたいことがあるんだ。やりたいことって? 由美(山田真歩)がおかゆを食べるよう促すが、泰希はお父さんと大事な話があると取り合わない。この娘はいくつだ? 10歳。まだ子どもだよ、社会を知らない。ミワちゃんは自分で勉強してるよ。ミワちゃんについて知ってるのか? 世間ではこういうのを詐欺というんだ。この娘は沢山稼いでる。父さんは詐欺師をいっぱい見てきたから分かるんだ。泰希は父親を説得できず項垂れて自室に引き上げる。ちゃんと白飯食わせた方がいいぞ。おかゆじゃないとお腹を壊すのよ。
由美の運転で寺井は最寄りの市営地下鉄の駅へ向かう。由美は、勇気を出して父親を説得しようとした泰希に対する夫の対応が不満だった。取調みたい、ちょっと怖かった。道を外れた行き方なんてさせられないだろ? 普通じゃなきゃ。普通って無理矢理学校に通わせること? あの子は公園の砂場で遊んでて、乱暴な子に砂山を壊されちゃって、可哀想だからって作り直す優しい子なの。学校が全てじゃ無いって動画の娘に励まされたんだよ。車が駅に到着し、寺井が降りる。今日、不登校の子どもたちを支援しているNPOの人と会って来る。日曜はあなたも来てよね。
千葉市。モノレール。蹊成大商学部の学生・神戸八重子(東野絢香)が扉の脇で縮こまっている。駅で降車した際、同時に降りたスーツの男にぶつかられて転んだ。乗車しようとした男性が親切に助けようとしてくれたが、男性恐怖症の神戸は激しく拒むんでしまう。大教室の講義。神戸は目の前に男子学生が来ると、すぐさま席を移動する。おはよう。2人組の女子学生に挨拶され、挨拶を返す。
桐生が自宅で両親と朝食をとる。テレビの情報番組ではプライド・パレードを取り上げ、LGBTQについての解説が行われている。結婚して子ども産んだりしないのかね、子どもはますます減るばかりだ。母親が溢す。桐生は納豆を載せたご飯を掻き込むと、軽自動車で職場に向かう。
広島県下の大規模なショッピングセンター。開店1分前です。今日も明るくお客様をお迎えしましょう。従業員向けの館内放送が流れる。桐生は寝具売り場の担当だ。…復元性が高く、押し返す力が強いので、熟睡をサポートします。蒸れにくいので1年を通して快適にお休み頂けます。ありがとう、検討するわ。桐生の説明を受けた熟年夫婦が売り場を後にする。マットレス買おうか? 冗談を言いながら、大きなお腹を抱えた同僚の那須沙保里(徳永えり)が油を売りに来る。若い子は入ってもすぐ止めるから妊娠中なのに借り出されちゃうの。那須が愚痴る。ストレス溜まったらどうするの? 彼氏は? いないです。何で? いつからいないの? 30過ぎたらお産大変だよ。1人は自由で気楽かも知れないけど、段々キツくなる一方だから。那須の言葉を、桐生は黙って聞く他にない。
横浜地方検察庁。検察官の寺井が検察事務官の越川秀己(宇野祥平)とともに、窃盗の被疑者の取調を行っている。万引き4回目。店主も3回目までは我慢してたけど、堪忍袋の緒が切れたんだろうね。個人商店、潰れていくでしょ。店長は踏ん張って、家族総出で頑張ってたんだよ。被疑者はすいませんを繰り返す。取調が終了し、被疑者が警察官に連行される。寺井は公園の水道の蛇口を盗んだ事件の調書に目を通していると、越川から藤井悟が起こした類似事件について報告を受ける。

 

寺井啓喜(稲垣吾郎)は横浜地検の検事。10歳になる息子の泰希(潤浩)が学校に通えないことに気を揉んでいた。泰希は不登校のユーチューバー・ミワ(白鳥玉季)の動画に影響されて、自分もミワのようにやりたいことをやってみたいと言う。由美(山田真歩)は少しでも前向きになってくれたと息子の希望を後押ししようとするが、寺井は幼稚で騙されているだけだと突き放す。由美は不登校児の支援をするNPO接触し、スタッフの右近一将(鈴木康介)の助けを借りて、泰希が親しくなったあきらとともに動画配信に挑戦させる。
広島県下の大規模なショッピングセンターに勤める桐生夏月(新垣結衣)は、職場と自宅を往復する単調で孤独な日々を過していた。同級生たちは次々と結婚し、子どもを抱えている。母親や同僚からは適齢期を過ぎると大変だと何かに付け言われていた。そのためについカップルや結婚相談所の広告に目が行ってしまう桐生だが、結婚願望は皆無だった。偶然寝具売り場を訪れた同級生夫婦から、別の同級生カップルの結婚式の案内とともに、佐々木佳道(磯村勇斗)が福山の実家に戻ってきたと知らされる。佐々木は中学の途中で横浜に引っ越してしまったが、これまで生きてきた中で、唯一自分と同じ類の人物だと感じていた。
千葉市にある蹊成大に通う神戸八重子(東野絢香)は兄から受けた性的虐待の影響で、男性が近くにいるだけで過呼吸になってしまう、男性恐怖症であった。だが同じ商学部の諸橋大也(佐藤寛太)にだけは、恐怖心を感じなかった。学園祭「NEXT DIVERSITY FES」の実行委員になった八重子は、高見優芽(坂東希)率いるダンスサークル「SPADE」にステージ企画の参加を求め、メンバーの大也に近付く。

(以下では、冒頭以外の内容についても言及する。)

何より、水に対して性的興奮を覚えるという「理解しがたい」メタファーにより、アセクシャルを描くというアイデアが秀逸だ。

寺井は検察官として、警察から送致された被疑者について取調を行い、起訴すべき事件か否か――起訴猶予という一種のダイヴァージョン(diversion)も採りうる――を判断する。処罰すべき罪を規定する法律は、国民の多数の支持を得た代表者が構成する国会の多数決によって制定されるのであるから、法律に基づき判断する寺井は国民のマジョリティの声を反映しているとも言える。寺井が尊重するのは、マジョリティの敷いた道である。
寺井の息子・泰希は、不登校が続いている。小学校の児童数はざっと600万人、不登校は10万人。寺井は泰希が道から外れていると認識している。因みに検察官は2000人しかいない。法曹人口は全体でも約5万人で、国民のわずか0.04%のエリート中のエリートである。作中では描かれていないが、検察官は転勤があるため、小学4年生の泰希も何度か引っ越しを経験している可能性が高い。
桐生は地元の福山市で生活してきた。ショッピングセンターの寝具売り場で働いている。偶然再会した地元の同級生から、桐生がかつて不動産会社に勤務していたことが言及されるが、不動産会社を辞めた理由は不明である。寝具は、冒頭の象徴的なシーン――ベッドに寝た桐生が水浸しになる――との繋がりがある。同級生が次々と結婚し、子どもとともにいる姿を目撃する。あるいは、同僚が妊娠し、結婚・出産を促される。母親も桐生に子どもについて間接的に話題にする。地元のネットワークにより情報は筒抜けで、親切心・老婆心が桐生にプレッシャーを与える。桐生は復元力の高いマットレスに徹する他無い。子育てに忙しい友人との交友も遠ざかり、孤立していく。

 ここで気付くのは、家を出てからモールまで、実質的に「外」に出ていないこと。自宅のリビングから車、降りたらすぐ店内へ。自家用車は居間の延長だ。(略)つまりモールに着くまで、人はずっと「居室」で座っている。ようやく「外」に出るのはモールに入ったとき。つまりモールの入口は「外」への「出口」なのだ。(大山顕「モールは街である」大山顕監修・編『モールの想像力 ショッピングモールはユートピアか』本の雑誌社/2023/p.22-23)

仕事を終えた桐生が回転寿司で1人夕食を取り、真っ暗な道を車で帰る。朝、家の脇に停めた車でショッピングセンターへ。桐生はトンネルの中を移動するモグラのような生活を送っている。
桐生はアセクシュアルであるが、それを理解する者はいない。だが中学の同級生・佐々木だけはアセクシュアルであり、心を通じたことが回想シーン――水道の蛇口を破壊して水を放出させる佐々木(齋藤潤)とともに喚起する桐生(滝口芽里衣)――で暗示される。ハンドルを回して水を流すことが異性とのセックス――マジョリティの性欲処理――であるが、2人はそれを受け容れられないのである。桐生は佐々木が地元に帰ってきたと聞いて、佐々木が同じアセクシャルであるかどうか確認しようとストーキングを行う。そして、佐々木が同級生の女子を実家に連れ込んだのを見て裏切られた――佐々木はアセクシャルでは無かった――と感情を爆発させ、突発的な行動に出てしまう。

(以下では、結末についても言及する。)

桐生は大晦日に自動車を暴走させ、自殺を図る。そのとき、偶然自転車で通りかかった佐々木を避けようとして、道を外れる。道を外れた桐生を、佐々木が助けに来る。2人は一緒に道を外れることになる。桐生は佐々木と結婚を偽装することにするのだ――桐生を演じる新垣結衣が主演したテレビドラマ『逃げるは恥だが役に立つ』を踏まえている?――。かつ、2人が契約を交わすカフェは「ラプラス」。「ラプラスの悪魔」のように、未来を確定的に支配しようというのだ。
2人の築く理想郷は、思わぬ綻びにより、破綻しかかる。だが桐生は佐々木とのアセクシャルの共同体を維持することを力強く宣言する。それは、マジョリティを代表する寺井に対して強力な一撃となる。なぜなら、寺井は、正しい道に拘るあまり、妻子を失ってしまったからである。

大学のダイヴァーシティの理解を推進するイヴェントに参加を求められた大也は、多様性の名の下に一定の役割の押し付けが生じることの危険を指摘する。ダイヴァーシティが性自認等の問題に短絡されるとき、個々人の特殊性が看過されると、正義の暴走に対する懸念を表明するのである。