可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会 SAKI OTSUKA個展『DEMO GIRL』

展覧会『SAKI OTSUKA「DEMO GIRL」』を鑑賞しての備忘録
長亭GALLERYにて、2024年3月2日~17日。

女性、花、鳥などをモティーフとした絵画・立体作品を中心とする、SAKI OTSUKAの個展。

メインヴィジュアルに採用されている《空白の鏡》(455mm×380mm)は、身体を横に向け正面を見詰めるように左に顔を曲げた女性の鏡像。背景は下側の4割ほどが壁か大地か赤茶色で、その上部には青空が広がる。青空はレンズ(カメラ)で捉えられたように外側に向かって弧状に暗さが増している。女性の顔ほどの大きさがある白いチューリップのような花3輪が女性を囲む。本作品を何より特徴付けるのは、赤い5弁の花が女性の顔を覆うように描かれている点である。
ところで、ヴァンサン・ゾンカは地衣類が地味で人々から注目されない存在であることを訴える中で、次のように記している。

 顔と呼べるほどの相貌に恵まれず、鉱物のような外観を呈し、じっと動かない地衣類が提起するのは道徳と政治の問題である。つまり地衣類に思わず共感するような人はいないということだ。同様の生物は他にあるとはいえ、地衣類に擬人化の余地を認めるのは難しいのだ。なにも驚くには当たらない。科学研究の成果からも明らかなとおり、ぼくら人間が最も共感を覚える生物種は進化の観点から人間に最も近い種なのだ。それは外観が最も近い種である。エマニュエル・レヴィナスによると、他者の顔と身体があってこそ――「存在とは別の仕方で」――倫理観が生まれ、ぼくらは自分自身の人間性を推しはかることができる。地衣類に、昆虫に、プランクトン。これらいずれの生物も、ぼくらが視線を向けるための手がかりを与えてくれないし、自発的に鏡となってくれることもない。これらいずれの生物も、その「顔を見る」ことができないため、僕らが自分自身に問いかける契機とはならない(生物の描写に用いられる博物学の語彙は往々にして人体の暗喩にもとづくものだ。略)。(ヴァンサン・ゾンカ〔宮林裕〕『地衣類、ミニマルな抵抗』みすず書房/2023/p.8)

地衣類はともかく昆虫やプランクトンに「顔を見る」ことができそうだが、それはさておきゾンカはレヴィナスを引用して「他者の顔と身体があってこそ」「ぼくらは自分自身の人間性を推しはかることができる」と言う。茎から伸びた一輪の花には、身体と顔を見出すことができ、実際女性の美しさが花に喩えられることは少なくない。
翻って《空白の鏡》において、女性の髪や腕は赤茶色に首や胸は青で、背景とほぼ同じ色で塗り込められて溶け込んでいる。3輪の白い花が赤い花を引き立てる。その赤い花に何を見出すかが鑑賞者の人間性を映し出すということだろうか。

《透明な存在》(455mm×380mm)は下側6割ほどが青で上側4割ほどが藍の背景を朱色の輪郭線で描かれたチューリップのような花が埋め尽くす。画面の中央には藍の身体を持つ女性の姿がやはり朱色の輪郭線で表わされ、白い顔には赤い5弁の花が覆っている。彼女は《空白の鏡》の女性に比べ背景に溶け込み、より「透明な存在」となっている。

《消せることへ》(333mm×242mm)には、揺れる白や黄の帯の上を無数の白い繭のようなものが覆っている。その中に青い輪郭線で描かれた、翼を拡げた2羽の白い鳥が右上に向かって飛び立つ様が描かれる。類例の《星になりに行く》(455mm×380mm)では青い帯の上を闇と光を表わす短い線が覆い、その中を翼を拡げた3羽の白い鳥が右上に向かって飛翔する。画面の右上には石膏粘土で作られた十字に輝く星が添えられている。

透明、空白、消失、死などをテーマにした作品からは、『DEMO GIRL』の"DEMO"に"demolition(破壊)"を見出せる。だが消失=死を求める強い破壊衝動は、存在=生への強い冀求の裏返しではないだろうか。《星になりに行く》や《ゆりかご》(333mm×220mm)に添えられた星の光は、希望である。《チューリップとバンソウコウ「あなたに」》(410mm×318mm)や「花とバンソウコウ mini」シリーズ(各100mm×100mm)に描かれた花に添えられた絆創膏は、死へ向かう破壊衝動から生へと帰還するために渡された架け橋のようだ。それ「でも」生きる。"DEMO"はそんな"demonstration(感情の表出)"だろう。