可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会 KONA KOBAYASHI(小林瑚七)個展『CONVERSATION PIECE』

展覧会『KONA KOBAYASHI「CONVERSATION PIECE」』を鑑賞しての備忘録
KOMAGOME1-14casにて、2023年9月16日~10月1日。

表題作「CONVERSATION PIECE」2点など油彩画7点と数点のドローイング作品とで構成されるKONA KOBAYASHI(小林瑚七)の個展。

《CONVERSATION PIECE 1》は、右上に、画面の4分の1程度を占めるように、どこか遠くを眺める男の顔(頭部)を大きく表わした作品。額から鼻にかけての白い絵具、または左目の辺りに散らされた水色の絵の具、あるいは髪の生え際に塗られた黄色い絵具は、いずれも明るい色彩だが、くすんだ画面全体を明るい印象に変じるには到っていない。男の首はまるで切断されて浮いているかのように、首の下には影を表わす黒い色面がある。彼の左頬の辺りには、両手でウェスタンハットを被る男の姿が配されている。同一人物の重ね合わせだろうか。大きな頭部の唇の左端には切妻屋根の建物が、その上方には木々の茂みらしきものが描かれる。シガレットとそこから立ち上る煙を連想させる。画面の左下には灰色がかった模糊とした空間が広がる。右上隅の、雲と青空のような、白い絵具の脇に僅かに覗く青と対照をなしている。
《CONVERSATION PIECE 1》の向かい合わせで展示されるのが《CONVERSATION PIECE 2》だ。額から鼻にかけての白い絵具を塗った男の顎が画面下端に接するように描かれる点、なおかつ男の両目が閉じている点で、2つの作品は阿吽のような対照をなす。男の頭髪あるいは帽子の位置には赤い絵具が塗り込められ、閉じられたドア、暗い窓、配管、電信柱などが配されているのも、閉鎖的な印象を生んで、《CONVERSATION PIECE 1》の開放感との差異を生む。
展覧会にも冠された「CONVERSATION PIECE」という画題が、18世紀英国で団欒を主題とした風俗画(conversation piece)に因むものかどうかは判然としない。単に「話題」の意味合いで採用されているのかもしれない。確実なのは、《CONVERSATION PIECE 1》と《CONVERSATION PIECE 2》とが対の作品であり、conversationという語の「ともに(con)向く(verse)」という成り立ちに当てはまっているということである。《CONVERSATION PIECE 2》で男が目を閉じ、あるいは閉じた扉や窓が描かれるのは、自らの内部を、あるいはその内部に沈潜することを洗わしている。他方、《CONVERSATION PIECE 1》で男が目を見開き、ハットを被り、「煙草の煙」が立ち上るのは、自己の内部に眼を向け、あるいはそこから出発することを示唆する。即ち内省(reflection)であり、それは絵画の鏡像(reflection)の性質を浮かび上がらせるものでもある。
腰を降ろして前方の空を飛ぶ鳥の姿を眺める人物を描いた《bird》は、地にありながら目に映る(reflect)鳥の姿を通して、翼を手に入れる。地から空へ、闇から光へとの飛躍を可能にする。見ることは対象と同化することである。

 見ることが人間にとって特別なのは、人間はなぜか、見ているその対象にやすやすと自己同一化することができるからである。このことはたとえば野球観戦ひとつに明らかである。数千人の観衆が投手と打者の一挙一投足に瞬間的にどよめくのは、観衆が投手や打者に同一化しているからにほからなない。相撲を観戦して手に汗握るのもそうだ。舞台芸術にいたっては、観客を引き込んで自身に同一化させる役者や踊り手こそが名人なのである。芝居小屋を出て役者の仕草を真似、声色を真似る客が多ければ、それは成功した芝居なのだ。
 人はどのようにして相手の身になることができるようになったのか。むろん、母を見習うことによってである。人は、自分の身になって世話してくれる母を見習うことによって自分なるものを形成するのであって、これは要するに他者として対面することによってはじめて自己を見出すということ、つまり他者として自己を見出すということである。その媒介として離乳期以後、人形や自動車などの玩具が用いられることはよく知られている。
 人は他者として見出された自己を自己として引き受けるのである。思索の起源は自己にあるのではない。かりに自己であるとすれば、それはすでに他者によって媒介された自己なのだ。思索の出発点を自己に置くことはしたがって致命的な誤りであることになる。
 相手の身になることができるということの帰結のひとつは、人は誰でも何にでも成り替わることができるということである。動物にも植物にも成り替わることができる。海にも山にも成り替わることができる。だから人は、たとえば木に向かって誓い、あるいは雲に向かって嘆くのである。さらには明日の、一年後の、十年後の自己に成り替わることもできる。これは想像力の問題ではない。日常要求される気づきの問題である。この能力がなければ人間としてやっていけないのだ。(三浦雅士『孤独の発明 または言語の政治学講談社/2018/p.75-76)

山吹色の光の中、モスグリーンの影の中で、しゃがみ込み頰杖をつく人物を描いた《K》。Kとは、フランツ・カフカ(Franz Kafka)の小説の登場人物ではないか? 赤い光を眼にした彼は、今まさに変身(Verwandlung)しようとしている。