可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会『ACT(Artists Contemporary TOKAS) Vol.4 接近、動き出すイメージ』

展覧会『ACT(Artists Contemporary TOKAS) Vol.4 接近、動き出すイメージ』を鑑賞しての備忘録
トーキョーアーツアンドスペース本郷にて、2022年2月5日~3月21日。

架空の作家としてのユアサエボシの絵画を展示する1階、中澤大輔による働く意味を考える資料・映像を展示と来場者からの聴き取り(予約制)を行なう2階、会場である建物自体をテーマとした齋藤春佳のインスタレーションを紹介する3階から成る。

1階では、1924年生まれの架空の画家「ユアサエボシ」の絵画9点を紹介する。会場に掲げられたユアサエボシの年表によれば、本名は湯浅浩幸。「エボシ」は寝癖を烏帽子に喩えられた綽名から。千葉県東葛飾郡布佐町(現・我孫子市)生まれ。画家を志し、小学校卒業後、福沢一郎絵画研究所に通う。戦時中は画材が手に入らず少年雑誌のコラージュを手懸け、戦後は進駐軍相手に似顔絵を描いて糊口を凌いだ。一時は前衛美術協会に参加し、滞米経験もある。1987年に火災の後遺症で死去。緑色の壁の中に浮かぶような螺旋状の数理模型を見上げる白衣の人物を描く《眼科医》は、福沢一郎や古賀春江の影響を感じさせ、福沢一郎絵画研究所への出入りによる影響を感じさせる。核施設の制御室にいる2人の女性が手にした巨大なベーコンに目を通す《女性工員No.1》は、姿形を同じくする人物による2人羽織のような振る舞いによって、作家が自己の分身の作品を制作していることを、また、データを読み取るように目を走らせるのがロール紙ではなく巨大なベーコンであることで、「勧進帳」の読み上げを介して、演劇性や虚偽性を訴えており、作家の制作行為あるいは展覧会自体を象徴する作品になっている。ところで、鴻上尚史は、ピーター・ブルックの演劇に関する定義を具体化して、「演劇は1人の俳優と1人の観客がいれば成立する」(鴻上尚史『演劇入門 生きることは演じること』集英社集英社新書〕/2021年/p.20)と解説した後、およそ生活は演劇であると主張する。

 私達は、日に何度も自分の役割を変えます。
 朝、「母親・父親」として子供に接した後、働いていれば職場に行って「ビジネスパーソン」になり、会話をすれば「上司・同僚・部下」になり、仕事の後、友人と会えば「友達」になり、家に帰る途中でご近所さんに会えば「近所の住民」になります。
 どれが、「本当の自分」だと問いかけることは意味がないと、多くの人は思うはずです。
 子供に対しての言葉や態度と、取引先の人に対する言葉や態度が違うのは当たり前です。
 どれもが「本当の自分」であり、どんな人にも通じる「唯一の自分」があると考える方が不自然でしょう。
 役割と書きましたが、まさに役です。私達は1日の中でいろんな役を演じているのです。
 (略)
 つまり、人間は、演じる存在なのです。
 その場その場で、必要な自分、求められている自分、生き延びやすい自分、効果的な自分を選ぶのです。
 意識して演じる時もあるでしょう。無意識の時もあるでしょう。
 どの場合でも、私達は「横切る人」つまり「俳優」です。そして、同時に、「こんな風に振る舞うことが求められいてるんだ」「こうすると受け入れられると思う」と、状況を想定します。実際に人からそう求められることもありますが、そういう人がいてもいなくても、「見る人=観客」を想像して、私達は振る舞うのです。
 これは、まさに演劇そのものです。(鴻上尚史『演劇入門 生きることは演じること』集英社集英社新書〕/2021年/p.35-37)

ユアサエボシ(1983-)は、「ユアサエボシ(1924-1987)」を演じることを通じて、生まれ変わりとしての自分を創作している。絵画はその(それもまた「美術」である)小道具である。

2階では、中澤大輔は、会場の建物がかつて東京市本郷職業紹介所であったことを踏まえ、《本郷職業紹介所》と題して、「働く意味」についてのインタヴュー映像を上映する。それに加え、《本郷職業紹介所》の「職員」が来場者から「働く意味」の聴き取りを行ない、(希望があれば)録画を公開、来場者と共有する。働くこと自体が「上司・同僚・部下」などの役を演じることであり、なおかつインタヴュイーは、インタヴュアーという聞き手のみならず、録画を介して実際の鑑賞者を得るのであるから、これが演劇でなくして何であろう。なお、作家は幼い頃から演劇に興味を持ち続けてきたという。

3階では、齋藤春佳が会場建物の建設にまつわる歴史を掘り起こす。東京市から本郷職業紹介所の建設を請け負った小田組が工期内で完成させることができず、工期延長を市長に願い出た手紙を中心に、建物にまつわるエピソードが語られる。主要な映像には頁をめくる白紙の本(「勧進帳」!)が投影され、出来事を「セリフ」として語る人物の口元も映し出される。建物の来歴についての朗読劇と言える。なお、映像は、吊り下げられたオブジェや、壁に掛けられた絵画などと緩やかに接続していく。年表のように箇条書きにされた出来事をリニアに並べてお仕舞いにするのではなく、ルーブ・ゴールドバーグ・マシンよろしく、紆余曲折を経た「演劇」的インスタレーションへと変貌させている。