展覧会『野口里佳「不思議な力」』を鑑賞しての備忘録
東京都写真美術館にて、2022年10月7日~2023年1月22日。
初期作品《潜る人》(1995)から最新作《ヤシの木》(2022)まで、50点の写真と映像、さらにオブジェと壁画とで構成される、野口里佳の個展。
冒頭を飾るのは、「不思議な力」シリーズからの9点の写真[01-09]。水の表面張力[01]や浮力[08]、磁力[03, 09]、光の波長[04-06]といった身近な物理現象を室内で撮影した写真が、それぞれ1400mm×1000mmの画面に実寸よりも大きく提示されている。浮力や磁力、分光させる働きなど目には見えない力を可視化して、その存在を知らしめる。併せて展示されている、瓶やグラスの水中で静止した卵(2022)[48]は、その名も《台所宇宙》。台所で生起する現象を支える物理法則が宇宙でも成り立つことから、台所と宇宙とが接続していることを示すだけではなく、グラスやコップの仲の卵を宇宙空間に浮かぶ天体のアナロジーとして差し出している。
夜のベルリンの街を車から撮影した写真のコンタクトプリント(2014)[39]には、夜の闇とフィルムの枠とが作る黒い画面に赤や白の輝きが浮き出す。作家はそれに宇宙の似姿を見て、改めてベルリンの夜の街を走る車からヴィデオカメラを回し、映像作品《夜の星へ》(2015)[38]を制作した。初期作品「潜る人」シリーズ」(1995)[41-46]で既に、作家は潜水服を着て海に潜る人を宇宙飛行士に擬えていた。海の底へと下降することが空の彼方へと上昇することに繋がってしまう。ミクロコスモスとマクロコスモスの照応もまた「不思議な力」と言えよう。
「父のアルバム」シリーズ8点は、作家の父が遺したネガフィルムを作家が現像した写真[10-17]。現像作業は「父の視線で追っていく不思議な体験で」、「ネガに焼き付いている」「もう戻ってこない、ある瞬間」「を暗室で味わうこと」になり、作家は「人はなぜ写真を撮るのか」に思いを馳せたという。列車の窓辺の母[10]、列車に坐り微笑む父[11]、ブロック塀の前の黄色いバラ[12]、床に横になった赤ん坊(作家)[13]、人形を抱く少女(作家)[16-17]、食卓の母[15]、食卓の少女(作家)[14]。その写真には撮影者(作家の父)が掛け替えのない撮影対象者に注ぐ愛惜の念が濃厚に漂っている。鑑賞者はその雰囲気を味わい、共有することになる。作家は多数のネガを写真に焼き、その中から選び出した作品を並べているが、とりわけ黄色いバラ[12]と黄色いカーディガンを身に付けた赤子(作家)[13]との並列は、撮影者(作家の父)がバラと赤子という個物に通底している美を取り出していることを浮き彫りにしていた。
ところで、エマヌエーレ・テサウロは、詩人の持つ力とは、「もっともかけ離れた関係にあるものをたがいに結びつける」ことに求めている。
(略)〔引用者補記:エマヌエーレ・テサウロ(Emanuele Tesauro)は『真正なるアリストテレスの原則によって解説せられたる……アリストテレスの望遠鏡、あるいは機智鋭い文章昨報の理念(Il cannocchiale aristotelico, ossia Idea dell'arguta et ingeniosa elocutione che serve a tutta l'Arte oratoria, lapidaria, et simbolica esaminata co' Principij del divino Aristotele)』の序論において〕鋭い明察にめぐまれた者は、おのずと凡人とは区別される、と説いている。彼はまず切り離し、しかるのちに結び合わせるのである。それゆえ素朴であるとは別のものであることが要求される。真の詩人とは、「もっともかけ離れた関係にあるものをたがいに結びつける」才のあるものである。(略)テサウロのこのdiscordia concors(不一致の一致)は、当時イギリスではこう説明されていた――「似もつかないイメージ同士の組合せ、もしくは一見まったくちがったものと見える事物のうちの隠された相似の発見と。(グスタフ・ルネ・ホッケ〔種村季弘・矢川澄子〕『迷宮としての世界―マニエリスム美術(上)』岩波書店〔岩波文庫〕/2010年p.38-39)
作家は、暗室で父の遺したネガフィルムを現像することで、撮影時の父と時空を超えて交信を果たした。映画『インターステラー(Interstellar)』で宇宙飛行士ジョセフ・クーパー(Matthew McConaughey)が娘のマーフ(Jessica Chastain)と、全ての時間と連結している空間を介してやり取りしたようにである。もともと結びついていた父娘の絆は、父の死によって切り離された。だが父のネガフィルム(写真)によるメッセージは、暗室というブラックホールで娘に届き、父娘の絆は再び結び合わされたのだ。それこそが写真の持つ「不思議な力」であろう。そして、父の写真には、作家を写真家にする「不思議な力」をも宿していたのである。
《父のバラ》[18]は、青空を背にバラを仰ぎ見るように撮影した作品。交差する電線がバラの花へと視線を誘う効果線として機能している。
《アオムシ》[19]は糸でぶら下がるアオムシが風に流される姿が、無限とも思えるほど長い滞空時間にアクロバティックな演技を行う体操選手のように見えてくる映像作品。いずれ蝶となって飛び立つ未発の能力――「不思議な力」――をアオムシの中に作家は認めているのである。
掴まることのできる何かを求めて蔓を伸ばすキュウリ[21-22]、自然環境と人工環境とを融通無碍に飛ぶクマンバチ[24-26]。蛇の泳ぎ[29]と飛ぶ孔雀[31]とのアナロジー。