可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会 蔡云逸個展『Fall in the realms of Light』

展覧会『蔡云逸「Fall in the realms of Light」』を鑑賞しての備忘録
KATSUYA SUSUKI GALLERYでにて、2023年11月11日~26日。

蔡云逸の絵画展。

冒頭を飾る《portrait of Red Dragon》(346mm×280mm)は青年の胸像。金子國義舟越桂とを足して2で割ったような顔は、青白い。画面左右の両端には、彼を守る殻のように、赤い翼の弧を描く端が僅かに覗いている。青年は「Red Dragon」であり、サタンである。彼の背後には平原が拡がり、赤い実の生る三角形の樹冠の木と、そこから這い出てくる青いヘビが見える。

 悪を知らないで、どうして善を計りえよう。暗黒の苦しみを知らないで、どうして光明を待ち望むことができよう。(略)悪は苦痛を生み、苦痛からは、よりよきものを求める欲望が芽ばえる。われわれは欠乏によって、改良と進化を望み、理想をかかげる。
 もし悪魔がいなければ神もいないだろうとは、よくいわれることだが、これはけっしていいすぎではない。フランスのある神学者も、「神と悪魔とが宗教のすべてだ」と述べている。
 (略)
 悪の問題は、幾世紀間も禁制だった。公式の教理では、善と悪とのたえまない闘争についての説明は、根拠の確実なものだけにとどめており、慣例によらないあらゆる解釈はばっせらえた。この程度のきびしさでさえ、ヨーロッパの二元論者にとっては、神の不公平と復讐を証明しているように思えた。アルビ派が迫害者たちの残酷さを目撃したとき、彼らはじっさい、世の中はあべこべで、悪が善で、善が悪だと信じたことだろう。しかし、さかさにしたからといって、問題の解決にはなるまい。善と悪とは、それらの対立のなかにもなお存在し、善も悪もみずからを破壊しながら再生していくだろう。それはちょうど、錬金術のヘビが、自分の尾を食いつくすけれども、その尾は頭と同様に不死であるのに似ている。
 サタンは個人主義である。彼は、明確な道徳的行為をおしつける天の戒律を、ひっくり返してしまう。彼は、われわれに未知なものを熱望する気持ちをおこさせ、夢と希望を与えてくれる。また、苦しさと不満とをもたらすが、最後には、よりよき善へと導いてくれる。だから彼は、主として善に奉仕している。彼は、「悪と戦い、善を生む力」である。
 知識の使者は、無知であるはずはない。彼は、理想主義者であり、ドン・キホーテである。ドン・キホーテは狂信的な信念に目がくらみ、巨人が風車であり、戦士がブタであることに気づかない。彼の大きな誇りが、自分の間違いを認めることを妨げている。J.ミルトンは彼を、屈辱をうけるよりもむしろ永遠に悩む高貴な反逆者として描出した。たしかに、サタンの本質は片よっている。なぜなら、サタンはアンティテーゼ(反対命題)だからである。(カート・セリグマン〔平田寛・澤井繁男〕『魔法 その歴史と招待』平凡社平凡社ライブラリー〕/2021/p.309)

《portrait of Red Dragon》の青年は、サタンである。ジョン・ミルトン(John Milton)の『失楽園(Paradise Lost)』ではサタンはヘビとしてエデンに憑依するから、青年はヘビでもある。すなわち知識の使者である。《Fall in the Newe World》(673mm×825mm)では彼が空を切り裂いて流星(≒光)のように落下し、木々の繁茂する暗い大地に降り立ったことが示されるが、まさにサタンは蒙を啓い(enlight)ていると言えよう。彼は「苦しさと不満とをもたらすが、最後には、よりよき善へと導」き、「主として善に奉仕」する。画面に描かれた窓枠のような十字は、聖性への転化を暗示する。
《Fall in thre realms of light》(1188mm×932mm)では、画面下半分に浴場で浴槽に漬かる女性を、上半分に浴場の大きな窓越しにサタン≒Red Dragonが降臨する姿が描かれる。ところで、《Eve listning Satan's murmuring》(820mm×630mm)には、大きな寝台に腰掛けて俯く男性=サタンと、やや離れた位置で彼を見詰める女性=イヴとが描かれる。寝室のガラス壁面は浴場を描く作品にも見られるガラス壁面と同様であり、作家にとって寝台・寝室と浴槽・浴場とは等号で結ばれていると考えてよい。そして、眠る女性=イヴの耳元にヘビ=サタンが囁く《Napping Eve》は、《Eve listning Satan's murmuring》と同じ主題を異なるアプローチで描き出したと言える。すなわち、眠り(あるいは夢)を通じて女性=イヴは、ヘビ=サタンと交わり、「天の戒律を、ひっくり返し」、「未知なものを熱望する気持ちをおこ」す。

 (略)外からは車は小さく見える。身をかがめて中に乗り込むとき、われわれは時おり閉所恐怖症に襲われるが、いったん中に入ってしまうと、車は突然大きくなり、快適に感じられる。だがこの快適さと引き換えに、「内部」と「外部」との連続性がいっさい失われる。車の中にいる人にとって、外の現実は、ガラスが物質化しているバリアーあるいはスクリーンの向こう側にあるものとして、かすかに遠く感じられる。われわれは外的現実、つまり外の世界を、「もう一つの現実」として、つまり、車の中の現実とは直接的に連続していない、現実のもう一つの様相として、知覚する。この非連続性をよく物語っているのが、ふいに車窓を開け、外にある物がいきなり近くに感じられたときに味わう、外的現実が迫ってきたような不安感である。なぜ不安になるかといえば、窓ガラスが一種の保護膜として安全な距離に保っていたものが、じつはすぐ近くにあるのだということをいきなり思い知らされるからである。だが、車の中にいて、窓を閉め切っているときには、外にある物は、いわあもう一つの様相へと転換されている。それらは根本的に「非現実的」に見える。いわばそれらの物の現実性が宙ぶらりんにされ、カッコに括られているように見える。早い話が、窓ガラスというスクリーンに投射された映画の中の現実みたいに見える。(スラヴォイ・ジジェク鈴木晶〕『斜めから見る 大衆文化を通してラカン理論へ』青土社/1995/p.40)

眠りは現実とは異なるもう1つの世界であり、夢はスクリーンに映し出される映画のようであるが、その実、夢と現実とは繋がっている。《Eve listning Satan's murmuring》の青いヘビが寝室=浴場と外とを仕切るガラス壁面を融通無碍に行き来できるのはそのためだ。すなわちヘビ=サタン=知識は、夢を現実に変えることが可能なのである。

 (略)〔引用者補記:フリッツ・ラングの映画『飾り窓の女』は〕孤独な心理学の教授が「ファンム・ファタル(宿命の女)」の肖像画に魅せられる。その肖像画は、彼の通う社交クラブの入口の隣にある店の飾り窓の中に掛かっている。休暇で家族が出かけてしまった後、彼はクラブでうたた寝をする。11時に、クラブの従業員に起こされ、彼はクラブを出て、いつものように肖像画をちらりと見る。そのとき、肖像画に生命が宿る。通りに立っている美しいブルネットのオンあの、鏡に映った姿が、肖像画とオーバーラップするのだ。女は教授にマッチを貸してほしいと言う。教授はその女と一夜を過ごし、彼女の愛人と争い、その男を殺してしまう。その後、友人の刑事から、この殺人事件の捜査の進展状況を知らされ、逮捕が差し迫ったことを知った彼は、椅子にすわり、毒を飲んで眠りにつく。そして11時に、クラブの従業員に起こされ、自分が夢をみていたことを知る。教授はほっとして、宿命の女の誘惑にのってはいけないと自分に言い聞かせつつ、家路につく。しかし、この結末のどんでん返しを、妥協、すなわちハリウッドの規範への順応と見なしてはならない。この映画が言わんとしているのは、観客を慰めるような、「あれはただの夢だったのだ。私はみんなと同じように正常人であり、人殺しではない」といったことではなく、むしろ、無意識においては、つまり欲望の〈現実界〉においては、われわれはみんな人殺しなのだ、ということである。フロイトが『夢判断』で挙げているある例では、父親の夢の中に息子が出てきて、「父さん、ぼくが燃えているのが見えないの?」と責める。この夢にたいするラカンの解釈をパラフレーズしていえば、教授は(自分がみんなと同じように正常人なのだという)「夢を見つづけるために」、すなわち彼の欲望の〈現実界〉(「心的現実」)を回避するために、目覚めたのだ。日常的現実に戻ったとき、彼はほっとして「あれはただの夢だったのだ」とつぶやき、覚醒時の自分は「自分の夢の意識にすぎない」という決定的な事実から眼を背けてしまう。荘子胡蝶の夢というのも、ラカンが評価基準として愛用したものの一つだが、この夢をパラフレーズしていえば、物静かで親切で真面目なブルジョワの教授が、ほんの一時、自分が人殺しになった夢をみたのではなく、反対に、人殺しが、その日常生活において、自分はただの真面目な教授にすぎないという夢をみているのだ。
 このような「現実の」出来事から虚構〈夢〉への遡及的置換は、一見すると、「妥協」のように、すなわちイデオロギー的な協調行為のように見えるかもしれないが、それはわれわれが「確固たる現実」と「夢の世界」という素朴なイデオロギー的対立に固執しているからである。われわれはまさに夢の中でのみ自分の欲望の〈現実界〉と出会うのだということを考慮に入れたとたん、がらりと重心が変わる。われわれの共通の日常的現実、つまりわれわれが親切で真面目な人間という役割を演じている社会的世界の現実が、じつは、ある種の「抑圧」、すなわちわれわれの欲望の〈現実界〉から眼を逸らすことの上に成立した一つの幻想にすぎないということが明らかになる。(スラヴォイ・ジジェク鈴木晶〕『斜めから見る 大衆文化を通してラカン理論へ』青土社/1995/p.42-43)

作品は全て青いフレームによってぐるりと囲われている。フレームは無論、青いヘビであり、ウロボロスである。浴室・寝室と外界とを自在に往還するのと同様、鑑賞者のいるギャラリーという現実空間と絵画の世界とを繋いでみせるのだ。「社会的世界の現実が、じつは、ある種の「抑圧」、すなわちわれわれの欲望の〈現実界〉から眼を逸らすことの上に成立した一つの幻想にすぎない」。