展覧会『ロザリンド・ナシャシビ「Infinity Pool」』を鑑賞しての備忘録
タカ・イシイギャラリーにて、2023年10月31日~11月25日。
絵画10点で構成される、ロザリンド・ナシャシビ(Rosalind Nashashibi)の個展。
展覧会に冠された「インフィニティ・プール(infinity pool)」とは、外縁部に堰と排水溝を設けることで、恰も境界が無いような視覚効果をもたらすプールである。すなわち、境界がない(no boundary)ことが主題の作品群である。
《Malvolio Ⅹ》(1500mm×1200mm)は、左右に黄にサインカーヴのような模様を配し、中央にはピンクの"X"を縦に連ねたものが描かれる。マルヴォーリオ(Malvolio)は、ウィリアム・シェイクスピア(William Shakespeare)の『十二夜(Twelfth Night, or What You Will)』に登場する執事で、彼の衣装として特徴的な黄色いストッキング――貞操義務違反など性的な含意がある――を取り上げたもの。
『十二夜』において、男装してシザーリオと名乗る乙女ヴァイオラは、イリリアの公爵オーシーノに仕えており、密かに公爵に惚れている。だが、公爵は伯爵家の美しい令嬢でオリヴィアに惚れており、オリヴィアは男装のヴァイオラに惚れるという恋の三角関係が描かれる。これが主筋だ。
副筋では、同じ片思いのテーマが滑稽に演じられる。まず若い愚かな貴族(サー・アンドルー・エイギュチーク)がオリヴィア姫に恋焦がれており、オリヴィア姫の叔父(サー・トービー)にだまされて金づるにされている。一方、堅物の執事マルヴォーリオがいたずらにひっかかって、主人のオリヴィアから恋文をもらったと信じ込み、その手紙に書いてあったとおりの変わった格好をしたり、にやにや笑いをしたりと、おかしな振る舞いをして、さんざん馬鹿にされる。
オリヴィアに一方的に恋心を抱いて報われないという点では、主筋の公爵も副筋のマルヴォーリオやサー・アンドルーも同じだが、観客は公爵を笑い飛ばさず、副筋の連中を笑い飛ばす。それというのも、公爵は自分を愛してくれるヴァイオラの存在に気づくことによってオリヴィアへのむなしい恋を自ら諦めて新しい愛を得るのに対して、副筋の連中は己の愚かさに気づくことがないからだ。
やがて男装のヴァイオラと見分けがつかない、瓜二つのふたごの兄セバスチャンが登場して、芝居は撹乱過程へと入って行く。オリヴィアはまちがえてセバスチャンを口説いて結婚してしまう。そして、最終場でセバスチャンとヴァイオラが初めて舞台上で出会い、劇は解決へ向かうのだ。
(略)
オリヴィアが犯したまちがいは、(ヴァイオラという女ではなく、セバスチャンという男を正しくつかまえた点で)まちがいではなかったのだとセバスチャンは言う。
オリヴィアがふたごを取り違えたのは、マルヴォーリオが偽の手紙をオリヴィアの手紙と取り違えたのと似たようなものだ。なのに、オリヴィアが報われてマルヴォーリオが罰せられるのはなぜか。それは、オリヴィアが自分の愚かさを自覚しているのに対して、マルヴォーリオが傲慢で自分お愚かさに気づかないという差ゆえである。
オリヴィアは自分の恋心を抑えられなくなってしまって、自分の頭がどうかしていると認識しており、マルヴォーリオの頭がどうかしてしまったと伝えられると、こう述べる。気が変なのは私も同じ。
真顔であろうと笑顔であろうと、変なことには変わりはない。(第3幕第4場)ところが、これと対照的に、マルヴォーリオは「私は狂っていない」と叫ぶ。道化フェステは、マルヴォーリオの愚かさを次のように指摘する。
マルヴォーリオ 阿呆、こんなひどい目に遭った者はおらん。私はおまえと同じくらい正気なんだ。
道化 同じくらいって、それじゃあかなり狂ってるってことだね。阿呆と同じくらいの頭しかないなんて。(第4幕第2場)いわば、道化は、マルヴォーリオに向かって道化の鏡を掲げているのだが、当のマルヴォーリオが気づくようすはない。(河合祥一郎『シェイクスピア 人生劇場の達人』中央公論新社〔中公新書〕/2016/p.148-150)
執事マルヴォーリオは、道化フェステと「同じくらい正気」であり、道化の役回りだから、マルヴォーリオと道化とを等号で結ぶことが出来る。そして、展示作品10点中3点は「Punch in Love」シリーズであり、いずれも三角形の帽子を被り仮面を付けた裸――あるいはそれに近い姿――の女性道化師パンチネッラ――と、背後にいる彼女に頭を凭れるようにする男性とが、窓辺にいる姿を描き出す。男と道化師とはマルヴォーリオと道化に擬えられよう。マルヴォーリオは正常であると自認しながらその実、道化(=異常)に他ならず、正常と異常との間に境界がないことの表現と言える。また、パンチネッロ(男性)ではなくパンチネッラ(女性)である点は、『十二夜』におけるヴァイオラの異性装に通じよう。やはり男女の境界を超えているのである。さらに窓やその向こうに拡がる水平線に着目すれば、前者は境界でありながら向こうを見渡すことができ、後者は実際には空と海との間に現実には境界線はないから、これらもまた境界がない(no boundary)ことの表現と目される。
アルレッキーノの象徴性を論じる際に見逃してはならないのは、彼の周辺に象徴的二元性がただよっているという事実である。16世紀に半ば伝説化していたアルレッキーノについて、次のような伝承が語り伝えられていたとデュシャントルは紹介している。「アルレッキーノは、豊穣なラテン的土壌から、古代の神々が再び復活した時期にベルガモの市民として姿を現わした。ベルガモの街は、ブレンターノの低地に、円形劇場のけいしきで建っている。この町は2つの部分から成っていて、下町は馬鹿とうすのろしか出さず、高台は、如才のない気の利いた人間が出ると考えられていた。それ故アルレッキーノは、初めから阿呆であったが、彼の暴君的友人であるブリゲルラは、高台生れで途方もなく気が利いていた。だがアルレッキーノ自身は、高台生れとも下町生れとも主張していた。
この伝承から浮び上って来る思考法は、町を高‐低、優‐劣の2つの部分に分け、アルレッキーノが劣であるとともに優であるとする二元的な考え方である。デュシャントルはこの伝承がどういう性質のものであったかをこれ以上具体的には述べていない。この断片的な逸話から、早急な断定を下すことは避けなければならないと思われるが、にもかかわらずアルレッキーノが2つの部分の境界的形象であるとする意識の反映をここに読みとることは、決して不可能ではない。そしてニコラウス・クザーヌス以来の“上”と“下”、“高地”と“低地”という対立の解消に世界の聖性を見出す(コインキデンティア・オポシトールム)ルネサンス的思考に最も親しい考え方にあって、このような伝承は両義性(アンビギュイティー)についての情感を伝えるのにある種の説得性を持ったであろうことは疑えない。
この両義性に関して、同じく我々の注目を惹くのは、アルレッキーノがしばしば女装姿で登場することである。時には月の女神ディアーナとして現われるが、舞台図には女装でダンスをしている姿が散見する。そればかりでなく『宮廷の徘徊者アルルカン』という劇では、アルレッキーノは半身はレモン売りの男、半身は洗濯女として現われる。この劇の眼目はアルレッキーノがマイムによって一時に二人の人間を演じるところにあるのだが、クライマックスでは、この「二人は一人」であるアルレッキーノが互いにつかみ合いをする。ゴルドーニの『二人の主持ち』においてアルレッキーノが、自身とパスクワーレ、そして二人の主人に対する二人の召使を演じたごとく、己れをいくつにも分ける舞台技術は真にアルレッキーノに属するものであったが、ここでは、それがアルレッキーノのヘルメス的側面と密接に結びついた形で舞台化されるのである。ヤン・コットは、シェイクスピア劇の『お気に召すまま』のロザリンド、『十二夜』のヴァイオラ、『ヴェロナの二紳士』のジューリアなどの女性の男装(実はその女性を少年が演じるという複雑な仕掛けになっているのだが)に、ルネサンスの両性具有神話の反映を見ている。(山口昌男『道化の民俗学』岩波書店〔岩波現代文庫〕/2007/p.129-132)
アルレッキーノが両性具有であるように、道化は「両性具有」であり、性の境界はない。彼女が道化を描くのは、境界がない(no boundary)理想としてなのだろう。彼女の思い描く世界《My City Dreaming》では、雲の上、虹の只中に人が浮遊するようだ。それは「ニコラウス・クザーヌス以来の“上”と“下”、“高地”と“低地”という対立の解消に世界の聖性を見出す」作家の姿勢の現れである。