可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

映画『逃げきれた夢』

映画『逃げきれた夢』を鑑賞しての備忘録
2023年製作の日本映画。
96分。
監督・脚本は、二ノ宮隆太郎
撮影は、四宮秀俊。
照明は、高井大樹。
録音は、古谷正志。
美術は、福島奈央花。
装飾は、遠藤善人。
衣装は、宮本まさ江
ヘアメイクは、吉村英里。
編集は、長瀬万里。
音楽は、曽我部恵一

 

子供たちの燥ぐ声が聞こえる。一面の靄が徐々に薄れていく。団地の部屋から洗濯物を干したベランダ越しに公園が姿を徐々に現わす。滑り台やボール遊びをする子供たちの姿が見える。
末永周平(光石研)が老人ホームにやって来る。要所にクリスマスの飾り付けがされている。こんにちは。ご無沙汰しております。お世話になっております。受付で挨拶して記帳すると、スリッパに履き替えて、老人たちが作業しているホールへ。スタッフの1人に手土産の羊羹を渡すと、クリスマスツリーの傍にいた車椅子の父(光石禎弘)の隣へ行き、近くの丸椅子を寄せて腰を下ろす。よう、元気ね。白髪・白鬚の老人は前を見たままで反応が無い。参ったよ。どうしようかね、これから。周平は祖母の家に顔出して家に上がる上がらないの押し問答をしたとか、ホストと結婚することになった親戚の娘について話題にする。今度、母親の墓参に行くと告げると、また顔を出すと行って周平は父の下を立ち去る。
窓からは船の行き交う港が見渡せる。自室で1人目を覚ました周平は、しばしベッドに坐って今見た夢の意味を考える。リヴィングルームへ降りると、カウチでは娘の由真(工藤遥)がスマートフォンをいじっている。おはよう。やや間を置いて由真がおはようと答える。周平は冷蔵庫から牛乳を取り出して飲む。今日は休みなのか? …うん、そうね。母さん(坂井真紀)は? もう仕事行ったよ。
リヴィング・ルームから外へ出た周平はマフラーをして犬の散歩に向かう。坂を下り、いつもの公園へ。花壇の世話をしている女性に挨拶し、腰の具合を尋ねる。
犬の散歩を終えた周平がリヴィングルームに戻ると、由真は先ほどと同じようにカウチでスマートフォンを見ていた。周平は台所で手を洗うと、娘に職場で扱っているアロマを買ってきて欲しいと頼む。何それ? 父親の意外な依頼に戸惑う由真。最近加齢臭が気になってさ。何か着けるやつあるだろ? 値段を尋ねる父に、社割で安く手に入るからと娘が返答する。娘の傍に坐った周平は、交際相手がいるか尋ねる。何なの今日、本当。突然距離感を縮めてきた父を由真は訝しがる。父さん、何かあった? 周平は、彼氏がいるなら紹介して欲しいと食い下がる。娘さんを下さいって言ってきたらボコボコにして、それでも結婚したいというなら許す、何ていう軽口を叩きさえした。どしたん? 死ぬ? おかしいよ、今日。人間の致死率って何%か知ってるか? 娘を揶揄う発現に由真は憤然とする。周平はやり過ぎたと謝る。
スーツにトレンチコート、ショルダーバッグを肩にかけた周平が、通い慣れた川沿いの道を行く。途中、定食屋に立ち寄り、棚から新聞を手に取って、テーブル席に坐る。先生、おはよう。かつての教え子である平賀南(吉本実憂)が注文を取りに来る。日替わりね。周平が新聞を拡げる。
建築現場の作業員が連れで入ってくる。先生、下げるね。南は食事を終えた周平の食器を下げる。周平は、新聞を棚に戻すと、南の立つレジの前を素通りして店を出て行ってしまう。店の前の坂道を登っていく周平の後を南が追いかける。先生、お会計。ごめん、払んとらんか? 貰っとらん。ごめんごめん。周平は財布を出して千円札を手にする。俺、病気なんよ。忘れるんよ。周平は千円札を戻して財布を懐に入れると、再び坂道を登っていく。南は呆然と立ち尽くす。

 

北九州市。師走のある日、末永周平(光石研)は久しぶりに父(光石禎弘)を老人ホームに訪ねる。車椅子の父に親族の近況を報告するが反応は無い。母の墓参をすると伝えると早々に老人ホームを後にする。
自室の寝室で1人目を覚ます。見ていた夢についてしばし考える。リヴィングルームでは娘の由真(工藤遥)がスマートフォンをいじっている。妻の彰子(坂井真紀)は既に会社に向かったという。犬の散歩から戻った周平は、アロマオイルを手に入れて欲しいと娘に強請る。普段は話さない父親に話かけられて戸惑う娘に、彼氏がいたら紹介して欲しいと周平が畳み掛ける。気味悪がる娘は父に何かあったのかと訪ねるが、周平は茶化して何も言わない。
出勤途中、周平はいつものように定食屋で朝食を取る。店を出ると、教え子だった店員の平賀南(吉本実憂)から追いかけられ、会計が済んでいないと言われる。周平は、物忘れの病気であることを告げると、財布を取り出しながら払わず立ち去ってしまう。
定時制高校の教頭を務める周平は、三役の打ち合わせで校長に介護休暇の届け出があると臨時教員の手配を求めると、朝のミーティングを取り仕切る。娘が生まれた先生を祝福するのも忘れない。若手の先生や全日制の生徒に声をかけ、隠れて喫煙する生徒の煙草の始末も怠らない。教室を巡廻して生徒たちの様子を確認し、体調が悪い生徒を保健室に行くよう促し、食堂で食事をとる生徒から近況を聞き、登校しながら授業に参加できないでいる生徒(杏花)に悩みを尋ねる。
朝、キッチンに立つ妻・彰子(坂井真紀)の腰に手を回す。周平は妻との関係を改善したい一心だったが、彰子には夫の変化は唐突で不快でしかない。彰子との関係に歳月の流れを改めて痛感した周平は、自分がどこで道を誤ったのかと思いを巡らせる。

(以下では、冒頭以外の内容についても言及する。)

冒頭、周平は老人ホームに父を訪ねる。父親は周平の話に何の反応もせず、車椅子に坐っている。周平が話すのは、親族の話である。「参ったよ。どうしようかね、これから。」とSOSは発信しながら、自分の家族の問題や、まして自分の抱える病気には決して触れない。
周平は脳の病気が判明して、来し方を振り返る。40年近くの教職生活をルーティーンとして続ける中、いつしか妻との関係が冷え、娘とのコミュニケーションが取れなくなった。周平は、このままではならないと一念発起して、関係を改善しようとするが、妻や娘にとっては、周平の豹変の理由が分からず、不審に思うばかりだ。それでも周平は病気について口にしない。
級友の石田啓司(松重豊)に対しても、周平は突然訪問して、自分の抱える問題については一言も洩らさない。自分勝手だと詰る啓司に、周平は、誰だってそうやろと返す。
何の反応もできなくなった父親は、理由など説明しなくとも威厳だけで乗り切れた昭和の父親像を象徴する。かつて(度外視された家事労働の金銭評価の問題は扨置き)金銭収入は父親だけに依存していた時代があった。だが、共働きとなって、父親の役割も変容せざるを得ない中、それにふさわしいロールモデルを持たない周平は、理想の父親像を明確に持つことのないままやり過ごしてきた。定年を1年後に控え、主に家庭で過すことになる近未来を前に、自分の役割について再考せざるを得ない。
アルバイト生活の気持ちを公務員の先生には理解できないと訴える近藤や、何でも相談しろという教師に対応できる問題などたかが知れていると直言する佐藤悦子(杏花)や南。生徒に親身に接してきた周平だが、所詮は他人事としてしか対処できない事実に改めて気付かされる。
夢が未来ではなく過去に向けられてしまう周平――南を自分の思い出の場所に連れて行く――と、理想を抱くことができず夢のない南。ロールモデルがないのは、実は周平だけではない。周平たちがロールモデルの役目を果たせないために、子供達(生徒達)もまた同様なのだ。逃げ切れた先行世代と異なり、周平は不格好でも模索する姿を見せるほか無い。周平の背中を、南は眺めているのだから。