展覧会『村田優大個展「地平の人」』を鑑賞しての備忘録
GALERIE SOLにて、2023年2月27日~3月3日。
やきものの人物像を中心としたインスタレーション《地平の人》と、やきものの小品とで構成される村田優大の個展。
展示室の中央には、下半身に履いたパンツを表わす煉瓦(赤茶)色を除き、アイボリーの肌を持つ人物の立像が飾られている。正面向きに直立し、心持ち顎を上げて遠方を見詰める。3箇所のジョイントで接続された腕は身体を支える脚に比して頼りなく細く、だらりと垂れ下げられている。何よりこの人物像を特徴付けるのは、縄文土器や青銅器を連想させる、全身に隈なく彫り込まれたアシンメトリーの文様である。眼球を表わす円盤が強い印象を与えるため、文様にプラスティネーションによる人体標本の筋や血管を連想するかもしれない。展示室の壁面には高さ60~70cmの位置に焦茶色の陶片を並べ、「地平の人」の地平線を表わしている。人物に対する地平線の位置は、ブースに飾られたやきものの小品の中の、白い画面の低い位置に描かれた地平線を背景に立つ半裸の人物像《陶板絵「地平の人」》に基づいている。松本竣介の《立てる像》を下敷きにした可能性もある。地平線=horizonを層位=horizonと捉えるならば、むしろ関根伸夫《位相-大地》を介して、時間と自己との同一性を考える目論見だと言えまいか。
むろん、正常な意識をもって、通常の生を送る人間がメタノエシスそのものに触れることは、きわめて危険であるだろう。しかし重要なのは、メタノエシスに触れるという意味で、ヴァーチュアルなものの無限性、無底性、無意味性が介在することによって、「あいだ」そのものが確立されることの方にあるのではないか。
つまり、まさにタイミングや偶然(九鬼)、あるいは力の横溢(ニーチェ)によって示されるような自己の不安定性こそが「あいだ」があることを可能にするということである。つまりそれこそが、何かがこの世界で生じていることを自覚させるということである。それは、自己がコントロールできるものではない。世界が自己のコントロールを越えており、まさに偶然とかタイミングという仕方でしか示されないことの強調が、生命論的差異の議論の中心であるとは述べられないであろうか。
(略)
第一に、時間と存在、時間と自己を考えるときに、空間としての点ではない現在、移行する垂直的な瞬間の現在というのは、たんなる過去と未来の「あいだ」ではなく、その「あいだ」自身を可能にする特異な位相だということである。そのかぎりにおいて、木村精神病理学においても、離人症からてんかんという「現在」にまつわる病は、一種の存在論的な特権性をもって示されうるのではないか。まざに現在という、タイミングであり、邂逅であり、瞬間として迸る時間そのものが、過去や未来について語ることをも包摂する構造になっているのではないか。(略)
第二に、ここで示される「あいだ」が、ノエマとメタノエシスの、意識と非意識の、死にゆくものと死なないものとの「あいだ」として提示されるかぎり、その「あいだ」とは決定的に非対称なはずである。それはまさに、一方が意識であり、他方が生命であるがゆえの、不可避的な非対称性であるだろう(日常と生死)。そのために、この垂直と水平との「あいだ」とは、過去と未来との「あいだ」といえるだけのものではなく、まさに時-空の成立がせりあがってくる場面としての「あいだ」とも述べうるのではないか。生命論的差異とは、これを語るために不可欠なテーマだったのではないか。
そして最後に、この「あいだ」が、つまり空間でも時間でもなく、その両者の連接である「あいだ」だけが、どうして「ある」ということを可能にするのかを考える必要があるだろう。差異だけが、生命の溢れかえるあり方だけが、そこで自己がコントロールできない偶然性やタイミング性だけが、まさに世界を生きる目己の実質をつかませるものである。これは、「あいだ」の存在とは経験が根拠づけられることに由来するのではなく、予想もつかない出来事性はさらされることに関連することを示しているのではないか。
この最後の課題は、過剰現前としての「イントラ・フェストゥム」論こそを、実際には木村後期の垂直に関する思考、生に関する思考の軸となる位相として、再びきわだたせることを可能にするだろう。木村の議論を継いで、「あいだ」と差異の思考を展開する課題を負ったわれわれは、こうした過剰現前のあり方について、さらに多くのことを考える必要がある。それは「生命」であっても、まさに危険なもの、自己を成立させながらそれを解体してしまうもの、根拠などにはなりえない剥きだしの実在そのものなのである。(檜垣立哉『日本近代思想論 技術・科学・生命』青土社/2022/p.198-200)