可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会 内海聖子個展

展覧会『内海聖子展』を鑑賞しての備忘録
十一月画廊にて、2023年2月20日~3月4日。

生命と時間とをテーマに、黒のボールペンで描いた微細な丸と点とで表わされた絵画16点(和紙を支持体とした10点と板を支持体とした6点)で構成される、内海聖子の個展。

《巡る》(200mm×450mm)の黒い画面には、捻れた帯でできた輪が右側に、そこから抜け出した、羽のような腹鰭や尾鰭を持つ魚が左側に、描かれている。横に長い画面である上、輪と魚とがいずれもが左上に向かうように描かれているために、右下方向から左上への動きが感じられる。画面右下の隅には、先が渦を巻いた触腕のようなものがわずかに姿を覗かせている。
輪とそこを潜る魚のモティーフは繰り返し登場する。《環を廻る》(200mm×200mm)の画面中央には帯状の捻れた輪があり、そこを1匹の魚が左に向かって通り抜ける。右下には渦を巻く波頭が右に向かい次第に高くなり、左側には雲のようなもこもことした形が姿を覗かせている。同題の《環を廻る》(300mm×300mm)は構図は似ているものの、輪に波が立ち、繊毛のようなものが伸び、あるいは軟体動物の触腕のようなおものが絡み付いている点で大きく異なる。
《鏡》(600mm×900mm)は、画面中央の左側に捻れた帯の輪があり、それを潜る魚が右向き描かれている。「鏡」と題されている通り、その魚と接して鱗の模様が異なる同じサイズの魚が鏡像のように向き合う。画面右上からやや中央が下向き撓んで左上に上がり、それぞれに黒い点が向きを変えて描き込まれている球体が輪を潜り抜ける。魚の卵であるらしく、左上では腹鰭が左右に付いたものが現われる。《鏡》の主題は、「自己と他者、そして自己と世界が成立する局面」ではないか。換言すれば、「他者に触れ」「世界に触れる」「現在」という時間である。

 「現在」という時間、イントラ・フェストゥム〔引用者補記:祭りの「あいだ」。未来志向の分裂症と過去志向の鬱病との「あいだ」としてのてんかんとともに天才的な創造性と結び付けられる〕という名を与えられながらも、それ自身は境界であるがゆえに、空間化された現在としては到底とらえられない時間、まさに木村〔引用者補記:敏〕がてんかん、禅、天才性(想像性)、あるいは「永遠の今」という西田的なタームをもちいてみいだしていく「この現在」という、いわば言語的には不可能である次元が、ここで問題になってくる。そこでの「現在」とは、一面ではすべての時間を包括する場所性=空間性であるのだが、同時に境界性としての「瞬間」でしかない。それはいわば、どこにでもありつつどこにもない場所、これとは特定できない界面である以外にはない。ところが、こうした「あいだ」=境界のあり方は、自己と世界や、自己と他者が「ある」と感じられることそのものにむすびついている。
 「あいだ」がもつダイナミズムを、しかし普遍化されない何かとしてではなくポジティヴに表現するのは、木村がタイミングや偶然性を俎上にのせてくる議論においてである。1992年に出版された『偶然性の精神病理』で、偶然性やタイミングが主題化されるが、そのあたりから生命論的差異の主題が明確になることは、けっして偶発的なことではない。境界を指し示すのに、時間的なタイミング性や、そこでの邂逅の偶然性以上に適切な事例は、そうそうないようにおもわれるからである。ここで木村がもっとも初期に論じていた離人症的な主題が、「この現在」という「邂逅」の問題として再ひとりあげなおされているともいえる。
 九鬼が主題とされがちなこのテーマは、まさに西田の「行為的直観」という問題群にもむすびつく。そしてまた、生命論的差異を論じるときに鍵となる、ヴァイツゼカーの「生命それ自身ばけっして死なない」という生の永遠性と瞬間性の問題も、これに連関するものである。そこでは「現実との生命的接触」(ミンコフスキー)あるいは「行為的な関係」(西田)において「他者に触れ」「世界に触れる」ことそのものが問題となる位相がとりあげられるからである。
 タイミング論からみてみよう。精神病理的な観察からえられた他者との(木村の事例でほ父との)タイミングがあわない、あるいは自分のタイミンクが「ずれる」という症例を扱いながら、木村はつぎのように述べていく。

このような[タイミングというような]時間が動き出す一瞬の刹那、これは普通に言う個人的・主観的な「内的時間意識」でも、その根底に(個人の憶識を超える拡がりとして)考えられている「永遠の現在」とでもいった全一的な次元のことでもない……意識の現象であると同時に意識の現象でないような出米事であり、個人を超えると同時に個人に属してもいる出来事である。

ここで木村は、垂直な探部としての「生命性」(それ自身を言表化すれば――もちろんそれは不可能であるのだが――「永遠の現在」という「全一的」なものとしてイマージュ化せざるをえないもの)と、意識として言表化され、ノエマ的に整序化されてしか示されない位相という、深さと表層との接触面を、自己と他者、そして自己と世界が成立する局面としてとりだしてくるのである。

だから、タイミングと自己のあいだには思いもかけぬ深い関系、この二つを同義語と見なしていいほどの共属関係がある。われわれが自己とか自分とか呼んでいる何かは、はじめからわれわれの所有物として与えられているものではない。われわれはそのつどの世界との出会い、他人との出会い、あるいは自分自身との出会いに際して、瞬間瞬間にその何かを経験のなかに獲得し続けているにすぎない。

こうした瞬間は、すでにできあがった自己によってはけっしてコントロールできないという意味で偶然性に充ち、そもそも自己を自己として成立させる力に溢れ、それゆえ意識的なものとしては把握できない「発生機の」in statu nascendi状態にあるものとされる。それはまさしく、タイミングがある、タイミングがあわないという界面的な事情において、空間的な差異性と同一性を生み出す場面なのである。(檜垣立哉『日本近代思想論 技術・科学・生命』青土社/2022/p.191-194)

端的に、魚を生命の象徴として、その輪廻を描き出すものであることは疑いない。三幅対の《脱出幇助》では、左右の画面(各200mm×100mm)にフォークとナイフのような触腕が描かれ、中央の画面(200mm×200mm)の輪と魚とは、丸皿に載せられた魚のように見える。『発心集』では捕まった鯉を逃がしてやり「いみじき功徳作りつ」と満足していた聖が、供物となって解脱する千載一遇の好機を逸したと鯉に恨まれるという逸話が紹介されているが、まさに魚を食することで、その得脱の期を与えることが「脱出幇助」と題される所以であろう。
仏教説話集を想起させるのは、モティーフが輪廻転生であり、ボールペンで描き込まれる無数の丸と点とが生命の営みを想起させるからだけではない。和紙に向かって只管繰り替えされる作業が容易に写経のイメージをもたらすからでもある。1つ1つの丸と点とを描き込むうち、作家は自己の内部に沈潜していく。暗い深海とそこに蠢く魚や軟体動物に仮託されているのは、瞑想である。そして、作家の想念は、円と点とはツーとトンの信号になって鑑賞者に届くだろう。