可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会 飯島祐奈個展『「このくらいの石」と記憶』

展覧会『飯島祐奈個展「『このくらいの石』と記憶」』を鑑賞しての備忘録
いりや画廊にて、2023年6月26日~7月8日。

楕円や四角形などが歪んだ形をとる花崗岩による彫刻4点と、短冊状に切った写真を長方形に近い枠のように繋いで壁に貼り付けた作品とで構成される、飯島祐奈の個展。なお、「このくらいの石」とは、作家が自作を説明する際に用いる言葉である。

《横長の○》(270mm×740mm×1760mm)は、「横長の○」というよりむしろ歪んだ長方形の角が丸みを帯びた形――サーキットコースを連想させる?――をした帯(枠)状の彫刻作品である。「帯(枠)」の太さは必ずしも一定でない。3つの台座で3点を支えられ、僅かに浮いた形で床に設置されている。
《pink gate》(1150mm×940mm×120mm)は、アーチ状の彫刻作品である。但し、上部のアーチ部分は潰れて円弧からは離れた形状となっている。下部は直線的で台座としてアーチをしっかりと自立させている。本展の石彫作品はいずれも花崗岩が用いられているが、この作品の石は題名にある通り、はっきり桃色を呈している。
《yellow view》(310mm×2000mm×750mm)は、黄色く塗った角材の上に4つの石の枠を載せた作品。石の枠は正方形に近いが、肥痩が異なり、傾斜している。また、石の枠の間隔も区々である。同題の《yellow view》(310mm×1000mm×750mm)は、同じく黄色く塗装した角材の上に1つだけ石の枠を置いた作品である。
《エモーショナルな長方形》は、短冊状に切った写真を長方形に近い枠のように繋いでカウンターの壁に貼り付けた作品。橋の部分がわずかに角を跨がせることで、平面的な作品は立体的な作品へと転換させてある。道路、川、樹木、空、ガードレールなどの風景に加え、自作の写真も組み込まれている。

《エモーショナルな長方形》は、様々な風景の断片がフレーム状に繋げられている。個々の写真が象徴する様々な経験は、それが連なることで世界を眺める枠組みを形成していることを示す。この写真による枠組みが、カウンターの壁面の角を利用して平面的作品から立体的な作品へと転換させられているのは、これもまた彫刻であると同時に、他の彫刻作品を眺める際の手掛かりとして提示されているためではなかろうか。
すなわち、花崗岩の彫刻作品4点に共通するのは「枠」なのだ。周囲に拡がる世界から風景を切り取る。それは、石の中から作品を切り出す彫刻のアナロジーでもある。また、枠の中には何もないという点に着目すれば、不在の対象について想起させる装置、すなわち想像の世界へと跨ぎ越すための入口となる。しかし、いずれの作品も幾何学的形態であることから逃れるように歪みや肥痩が強調されているのは、やはり彫刻が補助線のように機能するのではなく、目の前に石が存在するという厳然たる事実に眼を向けさせるためではなかろうか。石の表情には特段眼が向けられることはないかもしれないが、《エモーショナルな長方形》同様、様々な出来事を記憶しているはずである。

また、花崗岩の枠(≒門)が視界であり、記憶であるなら、それは人間に擬えられよう。有限な存在である「人」の文字の「屋根」の中に、あるいは「門」の文字の門構えの中に「空白」が存在するように、作品=人の枠組みの中には空白すなわち無限があると。

 九鬼周造の偶然論、そうした九鬼の思考がかかわっている西田幾多郎の「永遠の今」の議論は、こうした「この今」を根源的に考えるための重要な軸になると私は考える。
 身体自身の行為が賭けであること、環境的事態が賭けであること、自然史的・文化私的な現在のあり方が賭けであること、賭けの概念によってしか、現在がリアルであることは捉えられないはずである。なぜならば、それが自然なるものへの信を織りこんだ倫理であるからだ。
 したがって、賭けそのものは悪ではない。むしろ、それは言葉の正しい意味で無垢である。そこには罪と罰はない。大量の人が傷つき大量の人が失敗する。あるいは、大量の人が死ぬ。むろん、人は全員必ず病むし死ぬ。しかし、それは自然のなかでの無垢ではないのか。自然のなかでの無責任ではないのか。そのことの肯定なくして、「現在」を生きるという能動性は捉えられないのではないか。
 世の中の無数の「遊び」論が私的するように、「遊び」とはそれ自身、因果関係や理由関係に予測不能な隙間が生じ、そうした隙間のなかで、非決定的なるものに身を委ねる行為だということができる。自然であることを積極的に認め、そこで自己責任を意図的に抛擲しながら、快楽の情動を享受すること、それは、まさに賭けに対し、ポジティヴな意味を見出すことである。むしと、こうしたポジティヴさの側から、日常的にほとんど予測可能な仕方で成立してしまっているこの世界を、動揺させることが遊びだといえる。それは「意図的に非意図的なものを生きること」という倫理につながる。
 九鬼も偶然論で引用するマラルメのいう「賽の一振り」(un coup de dés)は、つねに自らの裡に備えられている。この一瞬一瞬において、賭博とは、こうした遊びが含意する無限という背景が、それでも「いま・ここ」という尖端のような位相をもって現れることを際だたせるものである。だから、ここで無限性にまつわる位相は、無限性としてではなく、有限性の中に放り込まれた無限性として提示される。そうした無限が、有限の方に折り畳まれることによって、それが「遊び」という情動を見出すことの基盤になって働くのである。
 「賽の一振り」を、自己において積極的に引き受ける「生」の顕示として捉えること。それはかつて、パスカルが述べたような、無限の空間のなかに放り出された人間不安とおののきをテーマとするものではない。その段階では、いまだ無限は外に、主体に対置されるものとしてあり、ひたすら有限の存在者の脆弱さが問題となってしまう。しかしヘラクレイトス的な遊戯する神が内在化されていく場面では、むしろ、自己といわれる存在者のその一瞬のあり方のなかに、世界そのものが畳み込まれていく。
 九鬼の偶然論、西田の「永遠の今」で提示される「瞬間」の価値、その先端としての形態が、ここで議論全体に結びつく。無限は、彼方にはない。今であることの賭けに含まれている。その今を生きるものこそが自己であることだとおもう。(檜垣立哉『日本近代思想論 技術・科学・生命』青土社/2022/p.265-266)