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芸術鑑賞の備忘録

展覧会 室井悠輔個展『ムーギンカート』(TOKAS-Emerging 2023 第1期)

展覧会『TOKAS-Emerging 2023 第1期 室井悠輔「ムーギンカート」』を鑑賞しての備忘録
トーキョーアーツアンドスペース本郷にて、2023年4月8日~5月7日。

トーキョーアーツアンドスペース(TOKAS)が日本在住の35歳以下の作家に個展開催の機会を提供するプログラム「TOKAS-Emerging」。2023年度の第1期では室井悠輔(1階SPACE A)、井上瑞貴(2階SPACE B及びSTORAGE)、宇佐美奈緒(3階SPACE C及びSPACE D)の3名の作家の個展が同時に開催される。以下では、動く彫刻に纏わる思い出をモティーフとした室井悠輔の個展を取り上げる。

会場の奥の壁に額装された絵が掛けられている。描かれているのは、主に黄緑の線で、台座から延びる支柱に円形や矩形などの形が取り付けられた彫刻が7点ほど横に並ぶ光景である。右下には、作家の名前が平仮名のスタンプで捺され、「むーぎんかーと」と鉛筆で書き込まれている。幼少時、作家はデパートで黒い台座の上で銀色の幾何学的な形態が回転する動く彫刻を見るのが好きで、家にもあったという。父親から「ムービング・アート」と教えられた男の子は、幼稚園のお絵描きで描いた絵について「むーぎんかーと」と答えた(あるいは先生に聞き取られた)ためだ。
会場には「ムービング・アート」をモティーフにした絵画が30点以上、「ムービング・アート」を模した立体作品が5つ出展されている。併せて実際の「ムービング・アート」、ぬいぐるみ、鉢植え、時計など、作家の幼少期に纏わる品々が並べられている。ポータブルブラウン管テレビで「ムービング・アート」の映像も流されている。
会場に並べられた「ムービング・アート」やそれらを模した立体作品は、いずれも黒い台座に載せられた銀色の彫刻である。それに対して、《むーぎんかーと》はほとんど黄緑や緑の線で描かれている。そのために出展された絵画連作のモティーフも緑で描かれたものが多い。会場の鉢植え(ないし模造植物)の存在は、「むーぎんかーと」に植物を見ていることを示唆する。植物の生長と枯死のサイクルは、「ムービング・アート」の繰り返される運動に連なる。「ムービング・アート」らしき運動するオブジェを備えた掛け時計は、生命が時間であることを訴えており、「むーぎんかーと」が緑=植物に一致するとの捉え方を支えている。「むーぎんかーと」は機械(動く彫刻)が生命(植物)となる理想を訴える作品と解することが出来る。

 これらのノスタルジア〔引用者註:昭和30年代など「未来が信じられていた時代」に対するノルタルジア〕において欲望されているのは、歴史と進歩とその先の未来ではなく、過去において、〝歴史の進歩と未来を信じていた私たち〟の共同性である。未だない〈あるべきこと〉が実現する未来という〈他の時間〉を目指すことがリアルかつアクチュアルだった時代が、〝信じていた未来を失って傷ついた私たち〟の本来あるべきだった自画像とでも言うべき集合表象として、グローバル化した世界の中でノスタルジックな回帰が欲望される神話的過去の一部となりつつある。(若林幹夫『クリティー社会学 ノスタルジアユートピア岩波書店/2022/p.132-133)

《むーぎんかーと》を《ムーギンカート》として再生する動機として、「未だない〈あるべきこと〉が実現する未来という〈他の時間〉を目指すことがリアルかつアクチュアルだった時代」に対する懐旧の念があることは疑いない。もっとも幼少期を「神話的過去」として(少なくとも過度に)理想視しているわけではない。それはぬいぐるみが倒れたり壁を向かされていることで明らかである。注目すべきは、やはり1点の《むーぎんかーと》を変容させた30点以上の絵画群である。

 地球がわたしたちの将来であるということは、未来はけっして外からやって来やしないことを意味している。それどころか、将来が存在するのはただ外部が存在しないからであり、すべてはすでに内にあるからである。つまりこの惑星の内に。すべてはこの惑星の表面にあるのだ。未来は惑星の皮膚であり、そしてこの皮膚は惑星を絶えず変態させる。未来とは、惑星がメタモルフォーゼする繭なのである。
 地球が未来の身体であるのはその大きさのゆえにではない。未来はけっして何か大きなもの、巨大なものではない。それは惑星という塊を破壊するかもしれない流星ではない。惑星の住人たちのうちで最小のものよりも小さなものとして未来は惑星に属している。むしろ将来というのは、人間や人間がつくったモニュメントよりもウィルスの生き方に近い。将来というのはまったくもってミクロなものなのだ。将来はただ、ほんのちょっとした物質のうちに生を見出しうるものでしかない。
 ある程度まで単純化して言えば、ウィルスとは、あらゆる生きものに見られる発達と増殖の科学的、物質的、力動的なメカニズムのようなものということになるだろう。ただしウィルスは、より無秩序で、より自由なものとして、細胞構造の外に存在しているのだが。ウィルスとは、身体がそれぞれ自身の形態を展開させてゆく――あたかもウィルスが身体から脱受肉化されて、自由で、浮遊しながら存在しているかのように――ことができるようにする力、メタモルフォーゼの純然たる潜勢力であると言えるだろう。将来というのはこうしたものなのだ。すなわち、わたしたちのものではなく、1つの個体によって独占的に所有されているものではなく、共同で共有して所有されるものでもなく、むしろ他のすべての身体の表面を漂う能力であるような、生の発達と増殖の力である。まさに自由であるがゆえに、この力は身体から身体へと行き来する。これは、あらゆるものがそれを利用できうるような、そのいずれのものによっても我が物とされうるような力である。ただし、あるウィルスを我が物とするということが〔そのウィルスに〕感染し、変態し、メタモルフォーゼすることを意味するのとまったく同様に、みらいを我が物とすることは取り返しのつかない変化に身を曝すということを意味する。(エマヌエーレ・コッチャ〔松葉類・宇佐美達朗〕『メタモルフォーゼの哲学』/勁草書房/2022/p.188-189)

未来は、皮膚としての絵画と、その変容にある。それが《ムーギンカート》の主題ではなかろうか。