可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会 北村奈津子個展『Landscape, Wonderland』

展覧会『北村奈津子展「Landscape, Wonderland」』を鑑賞しての備忘録
ギャラリー椿にて、2022年3月19日~4月2日。

路上での気付きをもとに制作された絵画や立体作品で構成される、北村奈津子の個展。

幼い頃に温かく見晴らしが良いと住んでみたいと憧れたビニルハウス(陶《ビニルハウス》、絵画《ビニルハウス》など)、鬱蒼と植物が生い茂るアパートの部屋(絵画《アパートの1室》)、一種の「排除アート」としてのペットボトル(立体作品《たぶん猫が嫌い》)、涙や鼻水を擬態するように肖像彫刻に取り付く蓑虫(陶《野外彫刻にみのむし》、絵画《野外彫刻にみのむし》)、人に馴れていても店の中には入らないハト(絵画《わきまえた鳩》)など、生活の中で気になったことを絵画や立体作品にしている。会場に掲示されている「ネタ帳」のエスキースにはコメントも記され、制作意図が知られる。例えば床に直に置かれた陶製の《バナナの皮》については、以前2ヶ月に1度のペースで目にしていたバナナの皮を見かけなくなったのは、新型コロナウィルス感染症の予防のためにマスクを着用するようになったためだろうと考察されているように、考現学ないし路上観察学の趣もある。釜ヶ崎の路上のバナナの皮を撮影した岸幸太と同じく、打ち棄てられたものへの眼差しを有するのだろう。
《バラン(お弁当に入っている草)》と題された陶製のバランは、おにぎりと卵焼きとウインナーを仕切るバラン(絵画《すてきなティスタンス》)から、新型コロナウィルス感染症を予防するための物理的距離をとる仕掛け(絵画《バランでディスタンス》や絵画《バランで距離をとる》)へと作者は想像を膨らませる。バランは仕切りであるとともに同じ場を共有すると言う点では接続ないし共存のための装置でもある。頻繁に歩行する作者による「しぶとく生きつづけよ」とのメッセージとして、ジョージ・オーウェルの『葉蘭をそよがせよ』に通じるものを見て取れないだろうか。

 この小説〔引用者註:ジョージ・オーウェル『葉蘭をそよがせよ』〕のタイトルにふくまれる「葉蘭」は1930年代のイギリスにおいて独特な意味合いを帯びていた。中国および日本の原産で日本では庭や街路でよく見られる植物であるが(寿司屋の「ばらん」でもおなじみである)、イギリスおそらく19世紀初めに輸入され、当初上層階級の観葉植物だったのが、その強靱な性質――そう手入れが要らない、長期間水をやらなくても枯れない――ゆえに普及し、1930年代には下層中流階級の住宅の窓辺の多くをこの植物の鉢植えが飾るようになっていた。そのころともなると「退屈な中流階級のリスペクタビリティ(お上品さ)」(『オクスフォード英語辞典』のaspidistraの項より)を象徴するアイテムと化していた。
 『葉蘭をそよがせよ』でも〔引用者補記:主人公の〕ゴードンの住む下層中流階級の住宅街にはどこもかしこも窓辺に葉蘭の鉢が置かれている。ゴードンの安下宿の部屋にももとから葉蘭が置かれていたのだが、それが象徴する「お上品さ」を耐えがたいと感じるゴードンは葉蘭に憎悪の念を持つ。
 しかしながら、半ば自ら選択して底へと沈みこんでいったゴードンは、恋人ローズマリーの介入もあり、庶民の「ディーセント」な生き方を見直し、もとの広告会社に再就職し、妊娠した彼女と結婚し、新居には葉蘭の鉢を置くことになる。
 (略)この小説をとおして頻繁に歩行するゴードンは、物語の終わり近くで「典型的な下層中流階級の通り」を歩いている。どこも葉蘭の鉢が窓辺に見られる。それらの家々に住む人びとのことをゴードンは思い描いてみる――

 あのなかの下層中流階級の人びと、レースのカーテンの背後で、子どもをもち、がらくたの家具と葉蘭とともにいる彼らは、金の掟によって生きている、それはまあたしかだ。けれども、おのれのディーセンシー(まっとうさ)を保つことをしおおせているのだ。彼らが解釈する金の掟とは、単なる冷笑的なものだとか豚のごとく不潔なものではない。彼らには彼らなりの基準がある、侵すべからざる道義心がある。彼らが「品位を保って」いる――葉蘭をそよがせているのだ。それに、彼らは生きている。人生のしがらみにとらわれている。彼らは子どもをもうけるが、それは聖人だとか、魂の救済者だとか、どうあってもけっして果たさぬことなのだ。
 葉蘭は生命の木だ、と彼はふと思った。(第11章)

 この「庶民讃歌」と呼べるようなゴードンの想いは、のちに『一九八四年』で主人公のウィンストン・スミスが「プロール」階級の人びとに対していだく期待の念の表明につながる。『葉蘭をそよがせよ』は「コモン・ピープル(ふつうの人びと)」にかけるポジティヴな思いを表明したオーウェルの最初の小説であったと見ることができる。
 タイトルについても注記しておいた方がよいだろう。原文はKeep the Aspidistra Flyingで、これは"keep the flag flying"という慣用句をもじっている。後者を直訳すると「旗をそよがせた(掲げた)ままにせよ」となり、この場合の「旗」は愛国心の象徴としての国旗を指し、自国のために「(旗を巻くことなく)戦いつづけよ」「降参するな」という勇ましい意味合いをもつ。その「旗」に「葉蘭」を代入することで、1930年代半ばの葉蘭の一般的な含意のコミカルな気分というか、なんともずっこけた感じをかもしだす題名となっている。そしてこれが、「凡俗」と言われようが「コモン・ディーセンシー(庶民に備わるまっとうな感覚)」を手放さずに「しぶとく生きつづけよ」というメッセージになっている。このタイトルじたいが「庶民讃歌」になっているのである。(川端康雄『ジョージ・オーウェル 「人間らしさ」への讃歌』岩波書店岩波新書〕/2020年/p,81-83)