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芸術鑑賞の備忘録

映画『生きててよかった』

映画『生きててよかった』を鑑賞しての備忘録
2022年製作の日本映画。
119分。
監督・脚本は、鈴木太一。
アクション監督は、園村健介。
撮影は、高木風太
照明は、秋山恵二郎。
録音は、岡本立洋。
美術・装飾は、中澤正英。
スタイリストは、田口慧。
ヘアメイクは、田鍋知佳。
編集は、宮崎歩と鈴木太一。
音楽は、34423。

 

楠木創太(木幡竜)がリング上でミット打ちを行なっている。ボクシング・ジムの外では、創太の恋人の幸子(鎌滝恵利)が、彼の姿をガラス越しに見詰めている。ジムの会長の海藤(火野正平)が出てきて、幸子に語りかける。創太は素晴らしいボクサーだ。勝たせることが出来なかったのは私の責任だ、すまない。海藤は頭を下げる。最後だから試合を見に来てくれないか。間を置いて、幸子が海藤に尋ねる。パンチを当てないよう相手選手に頼むことはできませんか? それはできない。幸子はジムを1人後にする。途中で気分が悪くなり、吐いてしまう。
創太のボクシング人生最後の試合。創太は打たれても必死に前に出て相手選手(松本亮)に食らいつくが、最後は左フックでノックダウンされ、マットに沈んだ。控え室では、目を腫らした創太がまだやれると会長に現役続行を訴える。俺はずーっと何もできてない! 何もないんだよ! 会長はもう体が持たないからと宥め、引退を受け容れさせる。そんな創太に幸子が結婚しようと提案する。
結婚した2人が創太の母・光子(銀粉蝶)の家を訪れる。3人はテーブルを囲み、光子手製のカレーを食べている。小さい頃はよく食事を食べに来てもらったわねと、光子は感慨深げだ。光子が式について尋ねると、幸子は費用の問題もあって式は挙げないという。見かねた光子が臍繰りを渡してやろうとするが見つからない。別れた夫がギャンブルのために持ち出したに違いなかった。親父を家に上げるなんて離婚した意味がないと光子は創太に指摘される。
高架下で刺された松岡健児(今野浩喜)が血を吐いて崩れ落ちる。カット! 良かったですよ。健児を刺す役だった俳優(松嵜翔平)にはすぐさま背中にコートがかけられる。オールアップです! 用意されていた花束が手渡され、スタッフから拍手が起こる。暗い高架下に座り込んだままスタッフの輪から離れていた健児は、俺もオールアップだけどなと独り言ちると、静かに拍手を贈った。
カラオケ店のパーティー・ルームで光子が熱唱している。創太と幸子の結婚を祝う細やかなパーティーが行なわれていた。健児が妻の絵美(長井短)と息子を伴って姿を現わした。健児は創太と幸子の幼馴染みだった。どんどん男前になっていると、光子が役者をしている健児を褒める。そんなことを言ってくれるのはお母さんだけですよと返す健児の言葉には嘘偽りはない。
朝食をとっていた創太が仕事が決まったと幸子に告げる。何時? 昨日、電話があった。早く言ってよ。会長のコネだから。コネ最高!
要領を得ない説明に苛立った夫婦が別を当たろうと立ち去る。スーツを身につけた創太が何とか説明を続けようとするが、しつこいとかえって激昂させてしまう。ボクシングだけで生きてきた創太に、ホテルのセールスの職はハードルが高かった。PCに向かってぎこちなく指を動かして入力作業をしていた創太に、女性社員(高森由里子)が本採用はしないと通告する。動揺する創太。家族がいるんです。ここにいるスタッフ全員に家族はいますよ。
幸子が部屋のプランターに水をやっている。創太はテーブルに座って黙々とスマートフォンのゲームをしている。
土木作業員として働き始めた創太。手押し車で荷物を運んだり、重機の洗ったり、廃棄物の分別をしたりと、馴れない作業に必死に取り組んでいる。だが創太より若い先輩作業員(安田ユウ)は何かにつけ仕事が遅いと創太を小突き、詰った。ある日殴られそうになった創太が身を躱すと、避けるんじゃねえと再び殴りかかってきた。顔面にまともにパンチを受けた創太は、体勢を立て直すと強烈なストレートをお見舞いする。
弁当店でのアルバイトを終えた幸子が公園で1人缶チューハイを飲んでいた。自転車に乗った健児が現れ、結婚祝いを渡す。健児は幸子と飲むことにする。さしで飲むの初めてだな。健児がしみじみ呟く。幸子は気の置けない幼馴染みの健児を相手に、結婚してどんどん会話がなくなっていると創太との結婚生活の不安をこぼす。鬱憤を酒で紛らわせたいらしく幸子は明らかに酔っ払っていた。滑り台に登った幸子は大声で叫び、滑り台を滑り降りた。帰り道、健児のスマートフォンが鳴る。映画のオーディションに合格した知らせだった。主要キャストの1つのハッカー役で、これまで受けたことのない大役だった。幸子は幸運の女神だと有頂天になる健児。酔っ払った幸子を自転車に乗せると、幸子は健児はあったかいと背中に顔を押し付けた。家の近くまで見送った健児は、離れていく幸子に叫ぶ。ずっと好きだった! 幸せになれ!
帰宅した創太の顔は腫れ上がっていた。驚いた幸子が喧嘩したのかと問い質すと、創太は転んだんだと答えた。

 

プロボクサーの楠木創太(木幡竜)は、引退とともに、幼馴染みで恋人の幸子(鎌滝恵利)と結婚した。だがボクシングだけに生きてきた創太は、仕事がうまくいかず長続きしない。見かねた幸子は創太の所属していたボクシング・ジムの会長・海藤(火野正平)にボクシングに関わる仕事に就けないかと相談するが、創太はボクシングではなく、ボクシングをしている自分が好きなのだと諭される。燻る創太の前に、創太のボクシング・スタイルが好きだという男(柳俊太郎)が現れ、地下格闘技に興味は無いかと誘ってきた。

創太は幼い頃、幸子をいじめっ子たちから守ることができなかったことをきっかけに、ボクシングを志す。幸子をいじめっ子から守るという目的は早々に果たされたが、創太は目的のための手段であったボクシングにのめり込む。だが、手段であるボクシングに達成はなく、自分のためのボクシングとなった。創太は何もなく空っぽの存在となるとともに、自分のことだけを考える存在と化した。
幸子は幼い頃から創太を愛していた。ままごとのための段ボールの家に迎え入れるのは創太だけで、健児を受け容れようとはしなかった。創太と一緒にいたいがために創太の家に食事を食べに行き、好きでもないカレーライスをおかわりした。だが創太を恋人にして、さらに結婚を果たしたとき、幸子の目標は失われた。幸子もまた空っぽになった。なおかつ幸子が創太の試合を頑なに見に行かないのは、自らの存在によって創太が勝てないという状況が生まれるのを(無意識にせよ)避けようとするためだ(健児が幸子を「幸運の女神」だと称賛するシーンが対置されている)。幸子もまた自分のことだけを考える存在と化した。
すなわち、創太と幸子は完全に一致してしまったのである。距離(=差異)が無ければ欲望は生じない。従って、2人がどんなに激しいセックスに及ぼうが、役には立たないのだ。欲望を生み出すには、再度距離(=差異)を生じさせなければならない。2人がある選択(決断)をするのは当然である。その結果、再度欲望が生まれることになるだろう。

ずっと射精できなかった男が射精できる(=「逝く」)までを描いた作品とまとめることもできる。短絡に過ぎようが、本作品では「オレ」と「セカイ」がキーワードとなっており、それが一致するとき(すなわち短絡するとき)、クライマックス(否、オーガズム)を迎える。射精が世界の終わりなのだ。