可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会 中村葵個展『可能でなく、不可能でないやり方』

展覧会『中村葵「可能でなく、不可能でないやり方」』を鑑賞しての備忘録
ボヘミアンズ・ギルド・ケージにて、2024年1月11日~28日。

ネズミ撃退器をネズミと勘違いした経験を元にしたデジタルアニメーション《ラットゥスの家》(2021)、地球に遍在するシアノバクテリア光合成とをテーマとした《ルーメンピクニック》(2023)、鳥の卵をピンポン球と勘違いした出来事と火星の運行とを結び付けた物語を朗読する《マールスの日》(2016)の3点の映像作品で構成される、中村葵の個展。

《マールスの日》では、日没の時間に合せて終了するように物語が朗読される。その物語は、主人公がピンポン球だと思って拾い上げて割ってしまった鳥の卵に対する慚愧の念と、地球に最接近した火星が離れていってしまう事象とを重ね合わせるものである。見かけによる勘違いという点で、地上における鳥の卵と天球における火星(の運行)とはアナロジーで捉えられる。また、朗読は、20分の1の速度に落として行われたものを20倍速で再生している。実際は2時間かけて行われた朗読が、6分間で読み終えられ、その間に陽は沈み、辺りは暗くなっていく。やや聴き取りづらいために字幕が付されているが、普通の速度の朗読もまた見かけ(?)のものである。
《ラットゥスの家》は、ネズミ撃退器によって人家を逐われたネズミたちの独白ないし会話を描くデジタルアニメーション作品である。作家がネズミ撃退器の赤い光をネズミの目と勘違いした経験に基づいている。電線を囓るネズミは電気を好物と思われやしないか。実際、人家のネズミはネズミ撃退器という「電気ネズミ」――おそらく『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?(Do Androids Dream of Electric Sheep?)』を踏まえた表現――に置き換わっている。何時か人間も電気人間にならないのかと、ネズミたちが溢す。ここにも見かけ上の問題が取り上げられている。
《ルーメンピクニック》は、光合成の化学反応式をモールス進行に符号化し、そのリズムで童謡「ピクニック」を歌唱する作品。歌う口の中に置いたカメラから葉緑体の仕組みや植物についての解説映像を映し出す。なおかつ、映像作品自体が空気中のシアノバクテリアに光を与えることになるというもの。植物の葉緑体という器官、藻を食べて葉緑体を取り込むウミウシ、これらの事象は「見かけ上」シアノバクテリアとの共生や強奪と解釈できる。それならば、人間が野山で行うピクニック(≒食事)だって、植物のように光合成をするために行っているとの外観を呈していないか、という問題意識であろう。
実際には存在しない天球という見かけを通じて、人間は天体の運行について考えることができるようになった。見かけを通じて考えることが科学を進歩させることに繋がったのであり、見かけを侮ることはできないのだ。ネズミ撃退器≒電気ネズミによって住み家を失われたネズミたちは新天地を求めて旅立ったが、人間だってアンドロイドにでも置き換わらない限り、映画『インターステラー(Interstellar)』(2014)の描くように惑星間航行を行って居住可能な星を探さなくてはならなくなるだろう。およそ科学も芸術も見かけの相同性から始まるものではなかったか。