可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

映画『哀れなるものたち』

映画『哀れなるものたち』を鑑賞しての備忘録
2023年製作のイギリス映画。
142分。
監督は、ヨルゴス・ランティモス(Yorgos Lanthimos)。
原作は、アラスター・グレイ(Alasdair Gray)の小説『哀れなるものたち』。
脚本は、トニー・マクナマラ(Tony McNamara)。
撮影は、ロビー・ライアン(Robbie Ryan)。
美術は、ジェームズ・プライス(James Price)とショーナ・ヒース(Shona Heath)    

衣装は、ホリー・ワディントン(Holly Waddington)。
編集は、ヨルゴス・モブロプサリディス(Yorgos Mavropsaridis)。
音楽は、イェルスキン・フェンドリックス(Jerskin Fendrix)。
原題は、"Poor Things"。

 

青い絹のドレスを纏った女性が橋の欄干に立ち、川面を見下ろしている。彼女が川に身を投げる。
屋敷の広間でベラ・バクスター(Emma Stone)がピアノに向かう。鍵盤を激しく叩いたかと思うと。音楽を奏でようとするように手当たり次第に鍵盤を鳴らす。ピアノの音を聞いたゴッドウィン・バクスター博士(Willem Dafoe)が降りて来て、ベラの様子を静かに見守り、微笑む。ベラは鍵盤に足を載せながらピアノを弾いていた。
食堂でベラとゴッドウィンが、家政婦のプリム夫人(Vicki Pepperdine)の給仕で食卓を囲む。血液の濾過装置のような機械と自らの身体をチューブで繋いでいるゴッドウィンは時折微笑みながら淡々と食事を取る。ベラは右手で取って食べ物を口に入れるが、口に合わなかったのか吐き出してしまう。突然ゴッドウィンが口からシャボン玉のようなものを吐き出し、それが空中で割れる。ベラは拍手して喜ぶ。ゴッドウィンはチューブを取り外すと、ベラにキスして先に食卓から立ち去る。
ベラは、バァ、バァと言いながら、鳥のようなぎこちない足取りでゴッドウィンの後を追う。その後をキメラ動物が付いていく。ゴッドウィンはベラを置いて玄関の扉を閉める。
医学部の解剖学教室。階段教室に坐る学生たちに囲まれ、中央では遺体を載せた解剖台を前にゴッドウィンが講義を行っている。脳から指令が送られず心臓から血液が流れ込まない臓器など、肉屋に並ぶ臓物と変わりない。臓器を復元しようと思う者がいなければね。、たとえ違いが存在するとして、人間と動物との区別など誰にできるかね。さあやって見給え。諸君だって子供の頃にパズルをやっただろう? 前の席に坐る身形のいい男が怪物の戯言なんて聞いてられないとぼやく。それを聞いた後ろの席のマックス・マッキャンドルズ(Ramy Youssef)がバクスター博士は傑出した外科医で、彼の父親がこの解剖学教室を創設したのだ、彼の研究は画期的だと言われていると指摘する。すると貴様になど話してない、失せろ、まともな服を買えと彼やその仲間たちから総すかんを食う。解剖台では一人の学生が呼ばれて肝臓を遺体の腹腔内に置こうとする。本当にそこが肝臓の場所かね? 批判していた学生がゴッドウィンに質問する。臓器を元の位置に戻す目的は何でしょうか? 私の愉しみだよ。マックス・マッキャンドルズ! 講義終了後に来なさい。突然名前を呼ばれて、マックスは驚く。
教室を出て行くゴッドウィンの後をマックスが追う。君の論文だがね。お気に召しましたか? 凡庸に至るのを辛うじて堪える従来型の精神的兆候を示しておった。あ、ありがとうございます。私の計画に助手が必要なのだ。お望みならば。君は篤信家かね? 神を信じております。目の前にいる方かね、それとも天に在す方かね? 確かに、あなたもゴッドですね。冗談だ。ゴッドウィンはマックスとともに医学校を出ると、そのまま近くにある屋敷へ向かった。髭を生やそうとしたことは? ネクタイをした犬の如き有様になる。子供たちは気に入りますよ。冗談ですが。
ゴッドウィンの屋敷の食堂では、ベラがテーブルにセットされた皿を落として割って遊んでいた。ゴッドウィンの姿を見かけたベラは喜んだ犬のようにゴッドウィンに飛び付く。ベラ、マッキャンドルズ君だ。よろしく、ベラ。マックスが手を差し出すと、ベラに突然顔を叩かれ、鼻血が出る。けちぇーき。血液。ゴッドウィンが言葉を訂正する。ベラはくるくると廊下で回り出す。極度の精神遅滞ですね。脳の損傷を修復したのだ。精神年齢と身体とが一致しておらん。言語能力が発達中だ。進捗は加速度的だよ。彼女は素晴らしいですね。彼女の発育を注意深く観察せねばならん。君にやってもらいたい。光栄です。回転を止めたベラがウィー、ウィー、と叫び声を上げる。彼女は失禁していた。
プリム夫人がカーテンを開け、ベッドで寝ていたベラが目を覚ます。マックスが記録を取る。食堂でベラが口にした食べ物を、マックスが手帖に書き付ける。魚の燻製を囓ると噎せて吐き出す。魚の燻製は嫌い? ベラがマックスを指差す。僕は好きだよ。朝のニシンはかなりうまい。ベラが魚をマックスに投げつける。屋敷内の研究室でプリム夫人を助手にゴッドウィンが遺体を解剖している。傍らにいたベラが近くにあったメスを取る。ベラも切る。切るのは死体だけだよ。死体だけ。別の男性遺体の傍に行くと、陰茎をちょっと弄ぶ。その後メスを何度も顔に突き立てる。ぐしゃぐしゃ。通路で自転車を乗り回すベラ。中庭でキメラ動物たちに餌をやるベラ。マックスがベラを観察し、一々記録を付ける。マックスはゴッドウィンに報告する。1日15語を覚えています。精神的には不安定なようです。頭髪は2日で2センチ伸びます。素晴らしい。退出してよろしい。また明日。彼女はどこからやって来たんですか? 記録を取ることに専念し給え。必要な情報があれば追って伝える。
ベラのベッド。ベラの隣に寝てゴッドウィンが絵本の読み聞かせをする。そして、森から戻って、彼女はパパとママに再会しました。 その晩、二人は気分が悪くなるほどケーキを食べ、一緒に戻れたことを喜びました。次の日…。ゴッド、私にパパ? プリムがね、違うって。…そうだな、お前は孤児だ。親は死んでしまったんだ。両親を切り裂いたの? いや、友達だった。探検家でね、南米の土砂崩れで亡くなった。我々の世界を拡げてくれたんだが、その代償を払うことになった。私にお前を託したんだ。死んだ。残念ながらね。可哀想なベラ。だけどゴッドを愛してる。ここで寝て。ベラはゴッドウィンに纏わり付く。いいや。ゴッドウィンはベッドを離れる。


ロンドン。解剖医のゴッドウィン・バクスター博士(Willem Dafoe)は、ある日川で身投げした女性の遺体を発見する。死後硬直の始まっていない身体には新たな生命が宿っていた。ゴッドウィンは家政婦のプリム夫人(Vicki Pepperdine)を助手に、女性の頭部を切開し、脳を胎児のものと交換した。脳移植は成功し、大人の身体と幼子の頭脳を持つベラ・バクスター(Emma Stone)が誕生した。ゴッドウィンがプリムとともにベラを邸宅内で密かに養育していたところ、精神の発育には目を見張るものがあった。ゴッドウィンは解剖学教室の生真面目な学生マックス・マッキャンドルズ(Ramy Youssef)をベラの成長記録係として採用する。マックスは美しいベラに一目で心を奪われ、狭い世界に囚われているベラに同情する。ベラは下腹部を擦ることで自ら幸せになる術を覚えると、辺り構わずに行って、マックスを当惑させる。

(以下では、冒頭以外の内容についても言及する。)

ゴッドウィン・バクスター博士が死体の女性を「ベラ」として蘇らせる。それは小説『フランケンシュタイン(Frankenstein)』(1818)においてフランケンシュタイン博士が盗掘した死体から怪物を生み出したことに擬えられる。但し、ラテン語のbellus(美しい)に因むベラの名が与えられている通り、ゴッドウィンが生み出した人間は、フランケンシュタイン博士の怪物とは異なって、美しい。そして、ゴッドウィンこそフランケンシュタインのような継ぎ接ぎだらけの皮膚を持つ醜悪な容貌を持つ。
ベラはゴッドウィンのことをゴッド(God)と呼ぶ。文字通り(父なる)「神」である。因みに、小説『フランケンシュタイン(Frankenstein)』を著したメアリー・シェリー(Mary Shelley)の旧姓はゴッドウィン(Godwin)である。マックスから髭を生やしたらと言われたゴッドウィンは犬(dog)になると返す。ここにも"God"が"dog"に反転があり、いかにもシェイクスピアの国らしい。
ローレン・グロフ(Lauren Groff)の小説『運命と復讐(Fates and Furies)』(2015)ではロットとマチルドの夫婦が飼う犬(dog)に「ゴッド(God)」の名が与えられている。また、ディーリア・オーウェンズ(Delia Owens)『ザリガニの鳴くところ(Where the Crawdads Sing)』(2018)では主人公のカイアは初めて訪れた学校で犬(dog)の綴りを"g, o, d"と言ってしまう(カイアはテイトから読み書きを習って急速に知性を発達させる点で、ベラに通じるものがある)。
最初は擬音語混じりで、"blood"が言えなかったり、代名詞の活用を間違えるベラだが、急速に言葉を身に付けていく。ぎこちない歩き方も次第に矯正されていく。ダニエル・キイス(Daniel Keyes)の小説『アルジャーノンに花束を(Flowers for Algernon)』の主人公チャーリーが急速に知能を発達させるのを思い起こさせる。
自慰行為に目覚めることでベラは第二の誕生を迎える。ゴッドウィンはダンカン・ウェダバーン(Mark Ruffalo)に拐かされたベラがリスボンへ旅立つの妨げることなく送り出す。ゴッドウィンはベラの(知的)成長を期待するとともに、決して切れることのない紐帯を確信していたからであろう(実際、ベラはゴッドウィンの後継者となる)。
ポルトガルでダンカンはベラにセックスの手解きをする。だがダンカンはベラに精神的なものを求めていない。余分なことを言わずに当たり障りのない挨拶だけすればいいと要求する。
ベラは行動を制限しようとするダンカンによってクルーズ船に乗せられ、そこでマルタ(Hanna Schygulla)と出会う。彼女との会話や彼女から提供された書物によって、ベラは急速に知的成長を遂げる。マルタとダンカンとの対決は見物。
女性の身体を巡る問題が大きなテーマになっている。男性による女性の身体の支配は女性器切除(FGM)に極まる。FGMを求める男は拳銃に象徴される暴力によって他者を支配している。身体を使って稼ぐ行為――あるいはその条件設定――は、女性が自らの身体を自らの意思でコントロールするものとして、FGMに対置されよう。
キャストはいずれも素晴らしいが、やはりEmma Stoneの魅力に引き込まれる。
並行世界なファンタジーを成り立たせる美術、衣装、音楽も魅力的。