可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

映画『インフィニティ・プール』

映画『インフィニティ・プール』を鑑賞しての備忘録
2023年製作のカナダ・クロアチアハンガリー合作映画。
118分。
監督・脚本は、ブランドン・クローネンバーグ(Brandon Cronenberg)。
撮影は、カリム・ハッセン(Karim Hussain)。
美術は、ゾーシャ・マッケンジー(Zosia Mackenzie)。
編集は、ジェームズ・バンデウォーター(James Vandewater)。
音楽は、ティム・ヘッカー(Tim Hecker)。
原題は、"Infinity Pool"。

 

マリンリゾートの観光業で成り立つ島国リ・トルカ。プライヴェート・ビーチ、スポーツ施設、インフィニティ・プールなどを具えた瀟洒なリゾートホテル「パ・クルカ」の一室。朝を迎えたもののカーテンが締め切られ真っ暗なまま。ベッドでエム・フォスター(Cleopatra Coleman)が夫のジェイムズ・フォスター(Alexander Skarsgård)に呟く。自分に白砂の死んだ脳なんてやれないって言ってたわ。何? 自分に白砂の死んだ脳なんてやれないって言ったの。何を言っているんだ? そんなこと言ってないだろ。言ってたの。ひょっとしたら寝言かもしれないわ。起きて朝食を取るかどうか尋ねたんじゃないか。聞いたもの。私たち、何でここにいるのかしら。意味無いわ。起きてるのか寝てるのか分からないくらい無気力じゃ。朝食を取りましょうよ。いらないよ。ビュッフェを逃したくないの。エムがカーテンを開ける。眩しさにジェイムズが呻く。行きましょう。オムレツを目の前で調理してもらえるかもしれないわ。
紳士淑女の皆様、ご注目下さい。にこやかな男性従業員(Adam Boncz)がビュッフェに集った宿泊客に声をかける。彼の後ろには奇怪な仮面を被った楽団が控えている。ご存じの方もいらっしゃるでしょうが、リ・トルカは間もなく雨季を迎えます。地元では嵐の襲来前の期間を召喚を意味するウンブラマクと呼びます。伝統的な音楽や料理で親しい仲間と祝います。そこで皆さんをウンブラマクに招待し、皆が友情で結ばれ乾季を締めくくるため目元に化粧を施したいと思います。エキの仮面をお望みでしたらギフトショップでお求め頂けます。楽団の演奏が始まる。料理を取ったジェイムズがエムのテーブルへ戻って来る。なんて所だ。あなたが来たいって言ったくせに。何か書ける気はしてる? 今日の午後、トラクラ島を巡る船のツアーがあるの。その後街で夕食を取ろうと思うんだけど。中華でもどう? また街で食事を取る気はしないよ。あんなのは街なんかじゃない。なぜ中華料理店があるんだろう。もう行くわ。ビーチで会いましょう。
ジェイムズがビーチに向かうと、辺りにエンジン音が響き、悲鳴が上がっていた。人々が不安そうに見詰める向こうにバンダナで口を覆った男がバギーを砂浜に乗り入れて砂を撒き散らしていた。警備員がやって来たために男は走り去った。何なんだ一体? 思わずジェイムズが溢す。意思表示してるの。地元の人よ。近くにいた女性(Mia Goth)が説明する。何を訴えてると思います? ナイフを突き刺したいんです。彼女がジェイムズの首に触れる。殺した後、観光客を恐怖に陥れるために空港に遺体を吊すの。ちょっと過激だな。島民は芝居がかってるの。彼女が微笑んでジェイムズを見詰めて少しの間言いあぐねる。あなたの本が好き。何て言いました? ジェイムズ・フォスターでしょ。あなたの本が好き。戸惑うジェイムズ。不躾でした? そうじゃなくて、僕の本を読む人なんていないから。ギャビー・バウアーです。ギャビーが近くにいた夫(Jalil Lespert)に声をかけ、作家を紹介する。初めまして、アルバン・バウアーです。私が好きな『変わりやすい鞘』を書いた人。ああ覚えてるよ。素晴らしい作品だわ。今晩一緒に夕食はいかが? 数日前から是非お近づきになりたいって思っていたの。中華料理店で予約をしてあるの。
中華料理店。ジェイムズとエムはバウアー夫妻とともにテーブルを囲む。ここはガイドに多文化食事体験として載っているの。確かに体験ではあるかな。それでアルバン、あなたのお仕事は? 建築ですよ、もう引退同然ですがね。ロサンゼルスで雑誌を発行しています。フランスのご出身? いいえ、ジュネーヴです。パリに出て、ロサンゼルスへ。私はロンドン出身でパリへ。そこで出会ったんだよな。でも仕事がなくてアルバンと移ったの。あなたは何を? 女優よ。コマーシャル専門。ロサンゼルスの会社と契約してるの。自然な失敗ができる女優に養成してもらったわ。自然な失敗って何なの? 何をするにしても自然に失敗してしまうように演じるの。出演するコマーシャルで、その製品がなければどうにもならないって。見せてやれよ。嫌よ。見せるべきだ。見てみたいね。ギャビーがパンをテーブルに置いてナイフで切ろうとする。何度やっても切れない。できない。無理よ。ナイフなんかじゃパンはきれないわ。パンチョップが必要だわ。パンチョップが必要になったろう? 確かに。どんな失敗も精神的で物理的な難題なの。あなたの次回作を6年も待ってるのよ。もうすぐ出ます? どうかな。何か変なことを言ったかしら。いいえ、ずっと書いてないのよ。書こうとはしてるんです。スランプに陥ってる? 才能がないんじゃないかと思い始めているところです。そんなこと言うなよ。実は何か着想が得られないかと期待してこのリゾートに来たんです。情けない話ですが。どうやって生活を? 教壇に立ってるとか? お金持ちと結婚したのよ。そりゃいい。芸術家にはパトロンがいないとね。このままじゃ私は慈善団体になりそう。

 

小説家ジェイムズ・フォスター(Alexander Skarsgård)が『変わりやすい鞘』を上梓してから既に6年が経過していた。ジェイムズが暮らせるのは、出版社のオーナーを父に持つ裕福な妻エム・フォスター(Cleopatra Coleman)のお蔭だった。ジェイムズが着想を得ることを期待して夫婦で南洋の島国リ・トルカにあるリゾートホテル「パ・クルカ」を訪れる。ところがジェイムズは部屋に引き籠もり、エムが気を遣ってツアーに連れ出そうとしてもつれない態度をとる。ジェイムズは愛読者だと言う女優のギャビー・バウアー(Mia Goth)とその夫で建築家のアルバン・バウアー(Jalil Lespert)と知り合う。ジェイムズはエムとともにバウアー夫妻と夕食を囲み、翌日はバウアー夫妻の遠出に付き合うことにする。外国人はリゾート地区外に出ることを禁じられていたがバウアー夫妻は馴染みのホテル従業員スレッシュ(Zijad Gracic)から車を借り受けていた。4人は誰もいない美しい入り江を満喫。帰りは酩酊したアルバンに代ってジェイムズがハンドルを握った。街灯の無い道を走行中、ヘッドライトの不調のため歩行者に気付かず轢いてしまう。動顚するジェイムズ。エムはすぐ通報しようとするが、地元警察の腐敗を知るギャビーはこのままホテルに戻ることを強く訴える。

(以下では、冒頭以外の内容についても言及する。)

小説家のジェイムズは着想を得ようと妻エムとともに南洋の島国リ・トルカを訪れる。だがジェイムズは塞ぎ込んだままでリゾートを満喫するどころではない。ところが自著『変わりやすい鞘』の愛読者だという女優ギャビーに出会い、ジェイムズは久方ぶりに気分を高揚させる。ギャビーとその夫アルバンとともにジェイムズとエムは外国人には禁じられているリゾート地区外に出る。美しい入り江で過した帰り、アルバンに代ってハンドルを握ったジェイムズはヘッドライトの不調から通行人を撥ねてしまう。ギャビーは腐敗した地元警察に何をされるか分からないと被害者を放置してホテルに戻るよう強く訴える。翌朝、部屋に警察官がやって来る。エムとともに警察署に連行されたジェイムズはエムと引き離され、刑事(Thomas Kretschmann)の取調を受ける。ジェイムズが運転した車は刑事の叔父のもので、刑事から叔父が車を貸したことを否定して欲しいと頼まれた。ジェイムズが言われたとおり否定すると、バウアー夫妻はジェイムズが車を盗んだ上酒酔い運転で通行人を轢き逃げしたと供述し、エムも認めていると言った。
リ・トルカでは過失でも人を殺せば死刑に処せられる――その執行は被害者の遺族による――が、外国人には協定により特別措置が講じられている。その独創的な特別措置が富裕な外国人観光客によって濫用されるのがポイントである。
リゾートホテル「パ・クルカ」のプライヴェート・ビーチを始めとする施設はリ・トルカの景観に連なる。だがリゾートホテルは有刺鉄線で囲われている。外国人観光客はリゾート地区の範囲内に限定されつつリ・トルカの自然を満喫する。ホテルないしリゾートエリアと周囲の環境とインフィニティ・プールとがアナロジーとなっている。そして、ジェイムズは、1つの作品『変わりやすい鞘』によって、また、エムによって保護されることによって、小説家たらんとしている点で、やはりインフィニティ・プールと同様の構造が認められる。さらにジェイムズは、外国人観光客が外交上の特権により極刑を回避できる仕組みを濫用して犯罪行為に及ぶのもまたインフィニティ・プール的である。たとえどんな衝撃的な事態が起ころうとも必ず乳飲み子のように保護される環境――インフィニティ・プール――に浸ってしまったジェイムズは、もはやそこから外界――インフィニティ・プールの外――へ出て行くことはできなくなる。
富裕層が超法規的特権を濫用して享楽的に過す退廃した世界に引き摺り込まれる小説家。それは、Brandon Cronenberg監督のおぞましく魅力的な世界に取り込まれる鑑賞者の似姿でもある。
Brandon Cronenberg監督の映画『ポゼッサー(Possessor)』(2020)は、別人の意識に入り込むことが可能になるという設定があった。意識を移す側からすれば、様々な外見を手に入れることになり、「変わりやすい鞘(The Variable Sheath)」の物語だったとも言えよう(但し、『インフィニティ・プール』でジェイムズの小説の内容について言及はない)。
Alexander Skarsgårdは映画『ノースマン 導かれし復讐者(The Northman)』(2022)、Mia Gothは映画『X エックス(X)』(2022)やその続篇(前日譚)『Pearl パール(Pearl)』など、Thomas Kretschmannは『タクシー運転手 約束は海を越えて(택시운전사)』(2017)が印象的。