可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会 大澤晴美個展『My Dear』

展覧会『大澤晴美「My Dear」』を鑑賞しての備忘録

Bambinart Galleryにて、2019年1月25日~2月10日。

 

大澤晴美の絵画展。

 

《ホームパーティー》という作品は、色紙を輪にして繋げた飾りが天井から垂れ下がっている部屋を描いている。奥の壁際には植木(?)と、クッションを置いた青いソファが置かれ、手前には大きなテーブルと2脚の椅子がある。テーブルには大きなスイカが割れて、赤い中身が現われ、赤い汁が床にまで垂れている。テーブルに向かって座っていた子の服(生地が広がっているのはフードなのかもしれない)を大人の手(? 手以外は画面から切れて見えない)が引っ張り上げ、その拍子に子の頭から円錐状の帽子が落ちる。ただ事ではないと逃げ出すのか、犬が画面左手に向かって歩いて行くが、その顔は画面の外のために見えない。
《記念日》では犬を描いた作品の背後の小屋が燃えさかり、《ハッピーバースデー》のケーキの蝋燭は灯が灯るのではなく、焔を吹き上げている。
このような作品とともに並ぶ子供達や動物を描いた作品にも、不穏な空気を感じざるを得なくなる。だが、その不穏さこそ、何が起きているのか、何が起ころうとしているのかという、観る者を作品に誘い込む仕掛けとなっている。画面の外に立つ鑑賞者は、「対岸の火事」として、安全な位置から絵画の中のサスペンスを味わうことができる。展示作品群は、そのような人々の欲望を炙り出して見せる装置としても機能するのだ。

展覧会 村瀬恭子個展『park』

展覧会『村瀬恭子「park」』を鑑賞しての備忘録
タカ・イシイギャラリー 東京にて、2019年1月11日~2月16日。

村瀬恭子の絵画展。

《winter park》と題された大画面の絵画3点が中心となる。ピンク、水色、茶色など、作品ごとに用いる色が異なっているが、いずれも特定の1色を中心に、植物のあふれる公園に佇む女性像を描いている。色数を抑えて描いている効果はもとより、風を表すような白色の微かな流れるような描き込みにより、台座らしきものの内に座る女性と、波のように周囲を埋め尽くす植物とタイルや柱のような構造物とが画面の中で渾然一体となっている。その一体感は観る者を強く惹きつけて止まない。水を用いず循環する生命を表す枯山水の庭を眺めるような趣向さえ感じられるだろう。人間と関わり合いのある植物はおよそ人工的であるという「自然」という概念の曖昧さをめぐる平子雄一の問題意識にも通じる。

映画『サスペリア』(2018)(2)

映画『サスペリア』(2018)を鑑賞しての備忘録
2018年のイタリア・アメリカ合衆国合作映画。
監督はルカ・グァダニーノ
脚本はデヴィッド・カイガニック。
原題は"Suspiria"。

オハイオ州出身のダンサー、スージー・バニオン(ダコタ・ジョンソン)は、ベルリンを拠点とする「マルコス・ダンス・カンパニー」に憧れを抱いてきた。ニューヨークで行われた公演には過去3度足を運び、公演のドキュメンタリー・ヴィデオも何度も見返している。入団を決意したスージーは、1977年秋、RAFによるハイジャック事件で騒然とするベルリンを訪れた。「マルコス・ダンス・アカデミー」に辿り着いたスージーは、オーディションとして音楽なしに踊るよう要求される。圧巻のパフォーマンスを行い、ダンス・カンパニーを率いるブラン(ティルダ・スウィントン)からその場で入団を許可される。のみならず、アカデミー内3階の寮にちょうど一部屋空きができたために、無料で滞在場所を確保することもできた。スージーが入居した部屋はパトリシアが利用していたが、RAFへの関与も噂される彼女は最近突然行方をくらませてしまったという。翌日、スージーはカンパニーの侵入団員として紹介される。舞踊『VOLK』のリハーサル中、パトリシアと親しかったオルガ(エレナ・フォキナ)は、パトリシアの失踪は寮母たちに原因があると訴え、アカデミーを去ろうとする。しかし、オルガは、階段で寮母の一人とすれ違った際にかけられた力によって涙が止まらなくなり、地下の鏡張りの部屋に誘導されてしまう。主演であるオルガの代役が決まらない中、新加入のスージーが代役に立候補する。ブランはまずは一人で踊ってみるよう指示し、ブランがスージーの手足に触れると、スージーの激しいダンスに合わせて、地下の部屋に閉じ込められたオルガの体が不自然に動き出すのだった。
一方、心理療法士のジョセフ・クレンペラー(ルッツ・エバースドルフ)は、パトリシア(クロエ・グレース・ モレッツ)からマルコス・ダンス・アカデミーの寮母たちについて相談を受けていた。ある日昂奮状態のパトリシアが予約なしに現われ、「最も美しい季節に私は去っていく」と繰り返し歌い、寮母達が魔女であり、ここを訪ねたことを知られたらおしまいだとクレンペラーに訴える。その直後、パトリシアは失踪してしまう。クレンペラーはパトリシアやその友人のサラ(ミア・ゴス)の身の上を案じ、アカデミーを調査することにする。

6章(「分断されたベルリン」、「涙の宮殿」、…)とエピローグから成る物語。

サスペリア』という同名の作品(1977年、ダリオ・アルジェント監督)を再構築した作品。主要なキャラクターの名前、アメリカからドイツへ主人公スージーがダンスを学ぶためにやって来る、降りしきる雨といった設定は同一。
男女ともに在籍したバレエ・スクールが、グァダニーノ版では、女性のみのコンテンポラリー・ダンスのアカデミーになった。男女赤いアカデミーの建物は、古びた緑を基調とした建物に変わった。魔力を物理的な作用によって示すのではなく、見えない作用・精神的な作用による表現に変わった。
例えば、窓硝子に顔を押しつけられるシーンは、窓硝子から鏡へと変わっているように、鏡が意図的に多様されている。アルジェント版では魔が外から入り込むように描かれたが、グァダニーノ版では、内側にあるものが現れ出る形へと反転させている。また、鏡は、原作を「反映」していることのメタファーにもなっているのだろう。
声を用いて雰囲気をつくる手法は似ているが、グァダニーノ版では、声よりも、息づかいを重視している。

飛翔や性的欲求などの魔女のメタファーがダンス(及びそのレッスン)に織り込まれている。
寮母たちが集まると、それは「サバト」となる。
女性の自立、「強い女性」、国家による女性の搾取への抵抗、男性に対する嫌悪などが描かれている。カトリック(=男性による支配)からの逸脱としての魔女が存在したことを踏まえてのことだろう。

グァダニーノ版では、東西に分断されたベルリン、そして「ドイツの秋」と呼ばれる1977年のRAFによる一連の誘拐(誘拐されたのは元ナチスにいた実業家)・ハイジャック事件を背景にしている。騒然とした街の風景、近隣での爆破事件、ハイジャックのテレビ映像などが差し挟まれる。刑務所内の囚人たち「自殺」の情報も。
魔女、宗教、第三帝国、RAF。人心操作。
クレンペラーと生き別れたとなった妻アンケのサイド・ストーリーが、作品の背景となるベルリン(ドイツ)の歴史を描き出す。

冒頭の、パトリシアがクレンペラーのもとを訪れた場面では、部屋の中のモノに何か不思議な力が働いていることが視覚化されている。そして、「眼」の図像を通して何者かがパトリシアを監視していることが、パトリシアが「眼」の表象や写真(の人物)を畏れることで表されている。

ダンスが何かを表現するものであるなら、ダンサーはメディアとなる。それは憑依である。

カンパニーの公演で"VOLK"という演目を踊るのは今回が最後とされていた。赤い紐を用いた衣装の意味するものは何か。

三人の母(嘆きの母、暗闇の母、涙の母)。これらは一体何なのか。

繰り返し現われる、死の床にあるスージーの母の姿。スージーの母にとって、末娘スージーを生んだことが罪となる。

記憶の継承と、記憶の抹消。これも重要なテーマになっている。

展覧会 淺井裕介個展『Daily Records ―Georgia, Istanbul』

展覧会『淺井裕介「Daily Records ―Georgia, Istanbul」』を鑑賞しての備忘録
NADiff Galleryにて、2018年12月21日~2019年2月3日。

淺井裕介の絵画展。

淺井裕介は、壁などにマスキングテープを貼り付け、そこに書き込みをしていくことで生まれる植物のような作品や、現地で採取した土と水で描く作品などを制作してきた作家。長期の休みをとることに迷いながらも、2018年にユーラシア大陸を巡る旅に出たそうで、その際に制作された作品の中から、ジョージアイスタンブルでの作品が展示されている。

まっさらの紙ではなく、本なのかパンフレットなのか、文字や絵のある紙に加筆するように描かれたドローイングが並ぶ。
とりわけ、田口まきによる写真に加筆した作品が印象に残った。路地や現地の人々のスナップ写真に、動物か植物か精霊かが描かれている作品群だ。白い自動車を背景に、父親(?)に後ろから抱えられた小さな女の子の写真では、様々な色が散らばって、車の背後には大きな狼のような存在が控えている。そして、右端には、母親(?)の蔭に半身を隠す女の子が写っている。この女の子がこれら写真にドローイングした作品を象徴している。恥ずかしがってなのか、なかなか姿を現してくれない何か。そういった存在を作家が生み出して描き込むのではなく、あたかもフロッタージュのようにその場に当然あるものを浮き出させただけといった、写真とドローイングとの一体感がある。現地に、多幸感ある瞬間が、たとえ一瞬でも間違いなく存在することを、作家の描く不可思議な存在たちが確信させてくれる。

展覧会 冨安由真個展『Making All Things Equal / The Sleepwalkers』

展覧会『冨安由真 Making All Things Equal / The Sleepwalkers』を鑑賞しての備忘録

アートフロントギャラリーにて、2019年1月11日~2月3日。

 

冨安由真の夢や心霊写真を題材とした絵画及びインスタレーションの展示。

 

荘子の「胡蝶の夢」をモティーフとしたインスタレーション《Making All Things Equal》は、ギャラリーの展示空間の1つを木材を使って洋館風の部屋に仕立て上げたもの。明かりと読みかけの本が置かれたテーブル、食器が並べられた食卓、閉ざされた窓、壁に設置された眠ることのできないベッド、天井に置かれた座ることのできない椅子、どこかへと繋がる上ることのできない階段などが設えられている。明滅する光や不意に立てられる壁を叩く音が、《ヤコブの梯子》や《砂男》と題された絵画の中へと来場者を誘う仕掛けとなっている。ドアを開けると、通り沿いの硝子張りの空間に出ることができる。そこは、椅子や棚やライトが設置された狭い部屋となっている。作品を鑑賞しているはずの来場者は、知らぬ間に歩行者たちの眼差しに晒されることになる。室内に放たれた揚羽蝶が舞うこの空間は正しく虫籠であって、蝶も来場者も観察対象として変わりが無い。そして、細胞が全て入れ替わっても、「私」が「私」であり続けるように、鑑賞する側に立つか、鑑賞される側に立つかで、「私」は変わらない。
他の展示室では、顔が見えない人物、夢遊病者、あるいは魂が浮遊するかのような球体が描きこまれた肖像画など、夢の中の風景や心霊写真を想起させる絵画が並ぶ。「胡蝶の夢」のインスタレーションを想起させる、水槽に白熱球と蝶のサナギの抜け殻が着いた木の枝を配した作品も置かれている。

 

なお、夢をモティーフにした展覧会として、『倉本麻弓展』がある(藍画廊にて2019年1月28日~2月2日)。睡眠中に見た夢を小さな箱の中に再現した作品。人が刺されるサスペンスから、部屋一面に広がるふとんのようなユーモラスなものまで、こちらは壺中天よろしく、鑑賞者は小さな世界の中に入り込むことになろう。