可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会 寺本愛個展『島々をなぞる』

展覧会『寺本愛 島々をなぞる』を鑑賞しての備忘録
FARO Kagurazakaにて、2019年2月23日~3月23日。

寺本愛の絵画展。沖縄でのアート・イヴェントに参加した際に制作・展示した、沖縄の生活を題材にした作品と、新作とが合わせて並べられている。

寺本愛が描く目には3つの光が宿り、一度目にしただけで忘れがたい印象を与える。その目が持つ力で、現実と非現実とを自在に往還するような人物、状況が描き出される。

本展の出展作品で目につくのは、布や玉といった何かをつなぎ合わせるイメージ。布は糸を織り上げることで、連綿とつながっていく。ネックレスのように玉も糸を通すことによってつなぎ合わされていく。目にある3つの光はそれぞれ過去、現在、未来への視座を持つ。それらが瞳の中で並列されているように、作品は過去へ題材を求めつつ、現在の作者の持つ感性を通して、未知の世界を絵画に表す。

作者はインターネットで戦前の沖縄の生活を切り取った写真に出会うまで、制作の糸口をつかめずにいたという。作者は本展に寄せたコメントに次のように記す。

沖縄の辿って来た歴史の複雑さを前にして、どう向き合えばいいのかわからなかった。何よりも、「内地」「本土」「大和」「東京」に生まれ育った自分が、これまでなんと能天気に沖縄に接していたんだろうと、そのことがショックだった。南の温暖な気候、独特な島料理、ちょっとエキゾチックな雰囲気を、無邪気に享受していた。様々な問題の当事者であるはずなのに。
同時に、これまで日本各地のセンシティブな文化をモチーフにしてきた自分の姿勢もはたして正しかったのか、表層だけを面白がって消費していたのではないかと罪悪感のようなものを感じ、身動きがとれなくなっていた。

80年以上前の沖縄の白黒写真に「まるでいまそこに存在しているかのようにはっきりと生活のにおい」を嗅ぎ取った作者は、はじめて沖縄と自らとの間に繋がりを見出せたそうだ。

画集などいちども見たことのない門外漢がルーヴルでモナリザに出会い、自分で料理を作ったことのない貴族がパリで屠殺場を見学する。それはむろん誤解に満ちている。観光客が観光対象について正しく理解するなど、まず期待できない。しかしそれでも、その「誤配」こそがまた新たな理解やコミュニケ―ションにつながったりする。それが観光の魅力なのである。(東浩紀『ゲンロン0 観光客の哲学』ゲンロン(2017年)p.159)

沖縄と作者との関係は、本展の展示作品と鑑賞者(私)との関係にそのまま当てはまる。「誤配」の可能性を信じるのみである。

映画『マイ・ブックショップ』

映画『マイ・ブックショップ』を鑑賞しての備忘録
2017年制作のスペイン・ドイツ・イギリス合作映画。
監督・脚本はイザベル・コイシェ(Isabel Coixet)
原作はペネロピ・フィッツジェラルド(Penelope Fitzgerald)『ブックショップ(The Bookshop)』
英題は"The Bookshop"。

イギリスの小さな海岸沿いの町。16年前、戦争で夫を亡くしたフローレンス・グリーン(Emily Mortimer)は、本と夫との思い出を支えに暮らしてきた。かつてロンドンの書店でともに店員であった二人は、出会ってすぐに相思相愛となったのだった。フローレンスは長年空き家となっていた「オールド・ハウス」に、町に長い間存在しなかった書店を開くことにした。屋根や水道などを修理して入居すしたところで、フローレンスは地元の有力者ヴァイオレット・ガマート(Patricia Clarkson)からパーティーに招待される。予期せぬ誘いに慌てて洋服を新調して臨んだフローレンスに、ヴァイオレットは町の中心にある「オールド・ハウス」に芸術センターを設置する予定であると告げる。ヴァイオレットは立ち退きを求めるためにフローレンスをパーティーに招いたのだった。フローレンスには半年かけて選定した「オールド・ハウス」を譲るつもりは毛頭なかった。だが弁護士ソーントン(Jorge Suquet)は物件取得手続きをなかなか進めずに他の物件を推薦するなど、ヴァイオレットの妨害工作が次々と明らかになっていく。それでもフローレンスは「オールド・ハウス・ブックショップ」という名の書店を開店させる。店員は地理と算数は好きだが読書は嫌いだという少女クリスティーン(Honor Kneafsey)。開店早々、エドモンド・ブランディッシュ(Bill Nighy)から適当な本を見繕って送って欲しいという依頼を受ける。彼は、妻亡き後、地元の人々と一切交流をしない偏屈な老紳士として知られていた。フローレンスが送った3冊のうちレイ・ブラッドベリの『華氏451度』を気に入ったブランディッシュは、ブラッドベリの本を送るよう求めてくる。ブランディッシュとの交流が生まれたフローレンスは、話題になっているある本を書店で売り出すべきかどうかを相談することにする。その本とは、BBC職員のミロ・ノース(James Lance)に勧められて読み思わず夜を徹したウラジミール・ナボコフの『ロリータ』であった。

 

権力を握る人物が悪だったとして、その人物一人の力で物事は悪い方向へ進むのか。悪を実現・持続させているのは、権力者の周りにいて、自らの欲求の赴くまま物事を考えることなく楽な方へと流されてる人々によってである。本作のメッセージ(の一つ)は、ハンナ・アーレントが指摘する「悪の陳腐さ」である。

レイ・ブラッドベリの『華氏451度』が極めて重要な枠割りを担っている。

展覧会『鷗外、小倉に暮らす』

展覧会『コレクション展「少しも退屈と云ことを知らず 鷗外、小倉に暮らす」』を鑑賞しての備忘録
文京区立森鷗外記念館にて、2019年1月19日~3月31日。

森鷗外の3年弱の小倉時代を紹介する企画。

近衛師団軍医部長、軍医学校校長、東京美術学校講師、慶應義塾講師を務めていた森鷗外は、1899(明治32)年6月、突然、第十二師団(小倉)軍医部長に補される。一時は辞職を考えたともいう鷗外は、1900(明治33)年元旦の『福岡日日新聞』に、文壇の圏外となった「鷗外漁史はここに死んだ」と寄稿している。だが、地元の人々との交流や史跡の探索、外国語の学習など「公私種々ノ事業ノ為メニ(中略)少シモ退屈ト云コトヲ知ラズ」(同年12月、賀古鶴所宛)と小倉での生活を次第に楽しむようになったようだ。明治35(1902)年3月までの2年10ヶ月にわたる小倉での暮らしを、「生活・文学」、「職務」、「史跡探索」などのテーマに分けて紹介するもの。

鷗外は観潮楼の長男於菟にドイツ語の自作教材を毎週数頁ずつ送り、通信教育を行っていた。

Ich reise.
私ガ旅スル
Man reist mit der Eisenbahn und mit dem Dampfschiffe sehr schnell.
人ガ旅スル 鉄道ヲ以テ ソシテ 蒸氣船ヲ以テ 甚ダ 早ク

reisenを例文を用いて説明している箇所。1人称単数と3人称単数の活用を紹介し、あわせて3格支配の前置詞mitの後に来る女性名詞と中性名詞("Dampfschiff"と単数にすべきだろう)の定冠詞の変化も学ばせている。学習しやすいよう、頭から訳し下ろしていく日本文が添えられている。「初歩じゃないか」と言う勿れ、於菟君は1900年当時10歳である。

一方、鷗外自らも小倉で語学に励んでいたようだ。フランス語をベルトラン神父に学び、サンスクリット語を独学していた。サンスクリット語のレベルが於菟と「同じ位のものにて可笑しく候」と手紙に記している。

年表に記載があるのみであったが、鷗外の小倉生活は、八幡製鉄所が操業を開始した時期と重なる。小倉は大陸への前線基地のみならず、日本の工業(重工業)の最先端でもあった。大陸とのつながりはグローバル化した現在よりもはるかに強かったのではないか。鷗外の工業化や大陸への意識、あるいは小倉の「現代性」がもっと紹介されても良かったかもしれない。

展覧会『南桂子展 コト、コト。コトリ。』

展覧会『南桂子展 コト、コト。コトリ。』を鑑賞しての備忘録
ミュゼ浜口陽三・ヤマサコレクションにて、2019年2月2日~4月11日。

南桂子の版画作品52点と関連資料を紹介する企画。浜口陽三の版画作品13点なども合わせて紹介されている。

少女、鳥、魚、樹木や塔などが描かれた作品群。少女は丸顔の、やや愁いを帯びたませた雰囲気の独自のスタイルを持つ。空を飛ぶ鳥と海を泳ぐ魚とは作者のつくる世界の中では共生し、並列されている。樹木や塔のような突き出す形を好みだったようで、とりわけ三角形には関心があるらしく、網を描きこんだ作品では、伝統工芸に見られる網干模様のような三角形も見られる。
一番印象に残ったのは《少女と風せん》。画面左手の木には鳥の巣があり、赤いメスが卵を抱いている。近くの枝では青いオスが、メスを見守っている。木の右手には鳥の巣を眺める少女が、風船を手に立っている。少女の風船を持つ手は、お腹の位置に置かれている。少女は抱卵する鳥の姿に、自分が子どもを持つ日を想像しているのだろう。風船は、子を孕んで脹らむお腹(子宮)の象徴だ。そこには少女の夢も重ね合わされているだろう。一方、少女の足下に拡がる影は、少女の不安を表している。不安を抱えながら、少女は未来を見据えている。

映画『岬の兄妹』

映画『岬の兄妹』を鑑賞しての備忘録
2018年の日本映画。
監督・脚本は片山慎三。

港町の工場に勤める道原良夫(松浦祐也)は、母を亡くしてから自閉症の妹・真理子(和田光沙)の面倒を見ている。働きに出ている間に真理子が家を飛び出してしまうため、脚に縄を繋いだり、玄関に外から鍵をかけるなどしていたが、三度姿を消してしまった。友人で警察官の溝口肇(北山雅康)に探すのを手伝わせるが、見つからず、途方に暮れていると、夜になって見知らぬ男が真理子を車で連れて来た。真理子は「海鮮丼、海鮮丼」と食事をご馳走になったことを無邪気に喜んでいる。家へ連れ帰り、風呂に入れ、衣類を選択しようとして、真理子の服のポケットに1万円札が入っているのに気が付く。下着を確認すると精液が付着している。良夫は真理子を激しく叱りつけた。だが、それから間もなく、右足が不自由な良夫は工場での仕事を失ってしまう。ポケット・ティッシュに広告を入れる内職では家賃はおろか光熱費も払えない。ゴミを漁ることさえホームレスの縄張りがあって難しい。困窮した良夫は、1時間1万円で真理子に客を取らせることにするのだった。

和田光沙自閉症の真理子を実在するかのように演じきっている。真理子の突拍子もない言動に良夫が振り回されるように、観客も真理子によって物語の中へと引きずり込まれていく。
真理子の脚の間で、誰もが等価になる。サラリーマンもヤクザもいじめられている子も障碍者も。そして、そのとき、真理子自らもまた皆と対等になる。真理子が仕事に精を出すのはそのためであろうか。
障碍者に対する差別、障碍者の性、貧困、売春、独居老人、いじめなど様々な問題が盛り込まれ、痛切でありながら、なおエンターテインメントに踏みとどまっている。それを可能にしているのは、醜さとか汚さの持つ輝きのようなものを描き出す絵と音とが優れているからだろう。