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芸術鑑賞の備忘録

映画『クローゼットに閉じこめられた僕の奇想天外な旅』

映画『クローゼットに閉じこめられた僕の奇想天外な旅』を鑑賞しての備忘録
2018年のフランス・アメリカ・ベルギー・シンガポール・インド合作映画。
監督は、ケン・スコット(Ken Scott)。
脚本は、リュック・ボッシ(Luc Bossi)、ロマン・プエルトラス(Romain Puértolas)、ケン・スコット(Ken Scott)。
原作は、ロマン・プエルトラス(Romain Puértolas)の小説『IKEAのタンスに閉じこめられたサドゥーの奇想天外な旅(L'Extraordinaire Voyage du fakir qui était resté coincé dans une armoire Ikea)
』。
原題は、"L'Extraordinaire Voyage du fakir"。

アジャ(アジャタシャトルー・ラヴァシュ・パテル)(Dhanush)は、クリーニング工場に勤める母シリング(Amruta Sant)と2人でムンバイでつましく暮らしている。幼いアジャは母に誰が父親なのかを尋ねてはいつも困らせていた。また、病院で偶然手に入れたヨーロッパの家具のカタログに魅せられ、インテリア・デザイナーになることを夢見ていた。アジャは成長するにつれ、ムンバイの狭い付き合いや貧しい生活から抜けだし、広い世界で豊かな生活を送ることへの憧れを強めていく。父親がパリの大道芸人であるらしいと知ったアジャは、母を連れてパリへ行こうと、路上で外国人観光客相手にマジックやイリュージョンで小銭を稼いだりくすねたりしていた。ある日、突然に母を失ったアジャは、遺品の中にあった父から母への手紙を読み、エッフェル塔で待つという父のいるパリへ今すぐ向かうことを決意する。みかじめ料をとられていた組織の事務所に潜入して金を盗み出し、航空券と滞在費を手に入れるが、すぐに露見して、所持金を奪われてしまう。やむを得ず母の遺灰と偽造の100ユーロとを手にパリへと飛ぶことにする。パリの空港では外国人観光客相手に暴利を貪るタクシー運転手(Gérard Jugnot)に案内され、アジャが向かったのは大規模な家具店であった。売場にたたずむ女性客のマリー(Erin Moriarty)に一目惚れしたアジャは、家具のイメージを確認するためだと小芝居を繰返してはマリーの前に現れ、ついにデートの約束を取り付けることに成功する。無一文のアジャは家具店内に密かに残り、母の遺灰を店内の商品の壺に入れると、夜を明かすつもりでクローゼットの中に忍び込んだ。話し声に目を覚ますと、そこはトラックの荷台で、ウィラージ(Barkhad Abdi)らアフリカからの難民が多数潜り込んでいた。彼らからトラックはロンドンへと向かっていると知らされ、マリーとの約束や母の遺灰があるパリへ戻らなければとアジャは大いに動揺するがどうしようもない。犬の吠え声に国境の検問だと気が付き、慌ててトラックを降りるが、皆捕まってしまい、イギリスの国境警備の役人(Ben Miller)の都合でバルセロナへとたらい回しになってしまう。イギリスへの密入国を企てた一行にスペインへの入国許可などかなうはずもなく、バルセロナの空港で軟禁状態に置かれてしまうのだった。

 

アジャが、刑務所に収監予定の少年3人に、自分の物語を回想して聞かせるという体裁で、物語が進行していく。アジャの話のどこが事実でどこが事実でないのか。時折、アジャと少年達との会話が差し挟まれ、少年達が観客に代わり話を「盛っている」とアジャにツッコミを入れることで、「法螺話」としての性格が浮き上がる。アジャの風呂敷の広げ方にうまく乗って楽しむことができるかどうかが、本作の評価を左右することになる。

アジャの家具への興味・関心がもっとストーリー全体に行き渡るように描かれていたら、話が散漫な印象に陥らず、より筋の通った話として魅力が増していたのではないか。アジャが母の遺灰を家具店で展示・販売されている壺に入れてしまう件は、パリの家具店に戻らなければならない必然性をつくってはいるが、とりわけ違和感があった。

映画『僕たちは希望という名の列車に乗った』

映画『僕たちは希望という名の列車に乗った』を鑑賞しての備忘録
2018年のドイツ映画。
監督・脚本は、ラース・クラウメ
原作は、ディートリッヒ・ガルスカ(Dietrich Garstka)のノンフィクション『沈黙する教室 1956年東ドイツ―自由のために国境を越えた高校生たちの真実の物語("Das schweigende Klassenzimmer")』。
原題は、"Das schweigende Klassenzimmer"。

1956年、東ドイツスターリンシュタットにあるギムナジウムの進学クラスに在籍するテオ・レムケ(Leonard Scheicher)とクルト・ヴェヒター(Tom Gramenz)は、鉄道で西ベルリンに向かった。表向きはナチスの機甲部隊に属して戦死したクルトの祖父の墓参だが、実際には、西ベルリンの自由な文化に触れるためだった。映画館に忍び込んだ2人は、ニュース映画でハンガリーにおける対ソ民衆蜂起を知る。スターリンシュタットに戻った2人は、クラスメイトにハンガリーで起きた事件を伝え、パウル(Isaiah Michalski)の大叔父で隠遁生活を送るエドガー(Michael Gwisdek)の家で西側のラジオ放「RIAS」を聞くことにする。ソ連軍の介入により百人に上る死者が出たと報じられると、翌朝、クルトは、授業開始からの2分間、犠牲者に黙祷を捧げることをクラスメイトに提案する。エリック・バビンスキー(Jonas Dassler)はとんでもないと反対するが、多数決で黙祷が決まる。歴史教諭のモーゼル(Rainer Reiners)は授業を開始したにもかかわらず誰も問いかけに答えようとしないことに激昂する。モーゼルから厳しくクラスの沈黙の理由を追及されたエリックは、抗議のためであると口走ってしまう。モーゼルから報告を受けた校長のシュヴァルツ(Florian Lukas)は保身のためにも穏便に済ませようと、テオを呼び出し、社会主義のおかげで自分が校長に抜擢され、テオら若者には出世のチャンスが与えられたのだと諭す。テオはエドガーの家に集うクラスメイトたちに、校長から来たるべき嵐に備えるようにと暗に忠告されたことを伝え、サッカー・ハンガリー代表のプスカシュが亡くなったことに対する黙祷だったとの弥縫策を提案する。クルツやレナ(Lena Klenke)はハンガリーの犠牲者追悼であると認めるべきだと主張するが、無記名投票の結果、テオの案が採用されることになった。テオ・レナ・クルツの3人はエリックとも口裏を合わせる約束をする。翌日、モーゼルの授業は教科書の筆写となり、ケスラー郡視学官(Jördis Triebel)による聞き取り調査が行われることになった。東ドイツギムナジウムの生徒たちは支配政党SEDドイツ社会主義統一党)の下部組織FDJ(自由ドイツ青年団)のメンバーであり、黙祷事件はもはや校内問題では済まない事態に陥っていた。

 

エリートの高校生たちが、自由への希求から、あるいは義憤に駆られて行った些細な行動が、国家上層部の介入を招く騒動に発展し、自らや家族の運命を大きく変えてしまうに到った経緯を描く。スリリングな展開に最後まで緊張感が途切れることがない。

展覧会 藤森詔子個展『Twinkle Pieces』

展覧会『藤森詔子「Twinkle Pieces」』を鑑賞しての備忘録
GALLERY MoMo Ryogokuにて、2019年5月11日~6月8日。

藤森詔子が2017~2019年に制作した絵画11点を展観。

本展の表題作《Twinkle Pieces》は、2枚のキャンヴァスを組み合わせた横3m超×縦1.6mの大画面。手前(画面下部)には肌を露わにカウチに座る女性を背後から描き、その前にはホームシアターのように、黄色いセンターラインの道路が延びる光景広がる。雨で濡れた路面はモニター画面の反射のようにも見える。道路は途中でシャープに途切れ、奥には道の脇に樹木や電信柱の立つ、遠い日の記憶のような風景が、牛島憲之の風景画よろしくやや溶けるように描かれる。画面左手には、交通量の多い都心の道路を朝・昼・夜という複数の時間帯を重ねるようにえがいた場面がやはりディスプレイのように屹立する。画面右手にはスマートフォンか、五芒星("Twinkle"の記号だろう)と"Pieces"の文字が裏返しで表示されたものをつかむ女性の右手が大きく表され、さらに星形が重ねて描き込まれている。

「Twinkle Pieces」とは、ディスプレイの輝く(twinkle)イメージの断片(pieces)のことだろうか。《Night Drive Scape》のシリーズ3点や、《Rainy view》のように、自動車を描いた作品が複数並べられているが、車窓を擦過する景色は、フリックによって次々と現れては消えるスマートフォンタブレット端末上のイメージのアナロジーであろう。現実を構成するのは、知覚したイメージの数々であるが、それは実際に目にしたものであるとは限らない。突如蘇る記憶であることもあるし、何より、日増しに増えるディスプレイを通じて捉えたイメージである。

つまり、〈対象a〉〔引用者註:欲望の対象=原因〕とは、欲望に「歪められた」視線によってしか見えない対象で有り、「客観的」視線にとっては存在しない対象なのである。言い換えれば、〈対象a〉は、その定義からして、つねに歪んで知覚されるものであり、その「本質」である歪曲を抜きにしては存在しないのである。なぜなら、〈対象a〉とは 、まさにその歪曲の、つまり、欲望によっていわゆる「客観的現実」の中へと導入された混乱と錯綜の剰余の、具現化・物質化以上の何物でもないのである。〈対象a〉は客観的には無である。だがそれは、ある角度から見ると「何か」の形をとってあらわれる。(中略)「何か」(欲望の対象=原因)がその「無」、その空無を具現化し、それにポジティヴな存在をあたえるとき、欲望が「めざめる」。この「何か」とは歪んだ対象であり、「斜めから見る」ときしか見えない純粋な見かけである。(中略)欲望の動きにおいては、「何かが無から生まれる」のである。なるほど欲望の対象=原因は純粋な見かけにすぎないが、それでも、われわれの「物質的」で「実際的」な生活や行為を調整している一連の結果すべての引き金をひくのはこの見かけなのである。(スラヴォイ・ジジェク鈴木晶訳〕『斜めから見る 大衆文化を通してラカン理論へ』青土社(1995年)p.34~35)

 

星形のガラスによって一部覆われた女性を描く《Cinderella's Dance》や1人の女性を「片身替わり」で描く《Twin Girls》では、ガラス=ディスプレイ越しにイメージが複数化する様を描き出し、指でファインダーをつくり夜景を捉える《Rainy view》では、スマートフォン越しに捉える世界を描き出す。これらに加えて、ボンネットに映る景色を描いた《Night Drive Scape #3》などを加味すると、女性、花、構造物、風景を織り交ぜて描いた《Lily》は、現実を構成するあらゆる「見かけ」を等価に捉え、絵画作品として呈示する作者の姿勢の表明と捉えられる。

映画『愛がなんだ』

映画『愛がなんだ』を鑑賞しての備忘録
2019年の日本映画。
監督は、今泉力哉
脚本は、澤井香織と今泉力哉
原作は、角田光代の小説『愛がなんだ』。

会社員の山田てる子(岸井ゆきの)は、上司に呼ばれ、最近の仕事の
遅滞やミスの多さを咎められる。だが、今、てる子にとっては、「マモちゃん」と呼ぶ田中守(成田凌)のことしか頭にない。新婦の友人の友人として参加した結婚式の二次会で退屈していたとき、同じ境遇のマモちゃんに声をかけられたのが彼との出会いだった。それ以来、マモちゃんからの電話を待ち、呼ばれればいつでもどこへでも飛んでいった。ある晩、家に着くと、マモちゃんから電話があり、体調を崩してしまって身動きがとれないので、まだ職場にいるなら買い出しをして立ち寄ってくれないかと言う。てる子はちょうど職場を出るところだったと喜んでマモちゃんの部屋に向かい、みそ煮込みうどんをつくり、ゴミを分別し、風呂を掃除する。だが、嬉々として甲斐甲斐しく振る舞うてる子に、マモちゃんは今すぐ帰って欲しいとてる子のかばんを突き出す。深夜に追い出されたてる子には、終電もなく、持ち合わせもない。代田にあるマモちゃんのマンションから歩いて家に向かっていると、「高井戸」の標識が目に入り、友人の葉子(深川麻衣)の実家が近いことに気が付く。てる子に助けを求められた葉子は、タクシーで家に向かうよう指示し、泊っていた中原(若葉竜也)にてる子の出迎えとビールの買い出しを頼む。中原は財布とビールをてる子に差し出すと、葉子の家には戻らずに立ち去ってしまう。てる子を出迎えた葉子は、てる子を冷たくあしらうマモちゃんの態度を非難するが、かえっててる子はマモちゃんに非はないと反論する。その後、しばらく音沙汰の無かったマモちゃんから食事しないかと誘われる。夕食をしっかりとっていたことなど忘れ、てる子は居酒屋に駆けつける。先日のお礼として何でもご馳走すると言われたてる子は、揚げナスなどとともに焼酎を瓶で頼もうとするが、酔うと面倒だと焼酎のロックにされてしまう。店を出ると、空は白み、雨が降っている。山田さんと飲むといつも朝になってしまうと憎まれ口をきかれるてる子。店の軒先に佇んでいると、折良くタクシーを停めることができたマモちゃんは、さっさとタクシーに乗ってしまう。だが、うちに酔っていけばと声をかけられ、手招きされたてる子は、夢心地でいそいそとタクシーに乗り込むのだった。

 

出会いの際、名前を聞いた田中が「テルちゃん」だと言ったのに対して、てる子は「マモちゃん」だと返す。だが、田中はてる子のことを「テルちゃん」とは呼ばずに「山田さん」と呼ぶ。そこに2人の感情の非対称性が表されている。

20代後半の恋愛は何となく始まるものというてる子の独白には、自らの曖昧な立場を「彼女」に位置づけようという意図が透けている。

自分の好きな人のこと以外はどうでもよくなるというてる子に対し、結婚を控えた同僚(穂志もえか)は、自分は本当の恋愛をしてきたのかと自問しつつ、自分のこともどうでもよくなってしまうのかという核心を突いた問いをてる子に投げかける。この問いはうやむやにされてしまうのだが、かえってこの問いは作中で漂い続けることになる。

葉子と中原との関係が、マモちゃんとてる子との関係と相似している。そして、中原が葉子との関係を改めることで、その頃にはすっかりてる子の感情・行動に馴染んでしまっている観客に、てる子とマモちゃんとの関係の特殊性を改めて認識させる。

葉子の父と母(筒井真理子)との関係が、葉子と中原との関係に転移していることをてる子は見抜いている。他人の問題は認識できるのに、自分の問題は分からないものだ。

塚越すみれ、否、江口のりこはずるい。対抗するにはパスタを作るしかないか。

田中が自らの容貌を自己評価する科白があって、格好良い男とそうでない男とに二分したら後者に分類されるという。それなら成田凌はミスキャストだろうと一瞬怒りが過ぎったが、てる子がどうしようもなく惹かれてしまう必然性そのものを表現していると考えればと冷静さを取り戻すことにした。

「私は田中守になれない」というような、恋愛対象と自己とを一致させたいというような科白は原作にもあるものなのだろうか。この科白を踏まえたラストシーンは秀逸だ。

愛が何なのかなど分かるものか。たとえ歪でも、その問いに自分なりの答えを必死に探そうとする姿にうたれ、励まされる。それが本作の魅力か。

若い女性の観客が多かった。そして、終映後すぐに、彼女たちが思い思いに感想を述べ合っているのがとても良かった。それだけでも、この映画が成功していることの証しだと思う。

展覧会『キスリング展 エコール・ド・パリの夢』

展覧会『キスリング展 エコール・ド・パリの夢』を鑑賞しての備忘

東京都庭園美術館にて、2019年4月20日~7月7日。

国内外の60点強の絵画による、モイズ・キスリング(Moïse Kisling。1891-1953)の回顧展。

本館1階では「キスリングとアール・デコの時代」、本館2階では「1910-1940:キスリング、エコール・ド・パリの主役」、「セザンヌへの系統とキュビスムの影響」、新館展示室では「独自のスタイルの確立」、「1941-1946:アメリカ亡命時代」、「1946-1953:フランスへの帰還と南仏時代」と題して作品が展示されている。

《アトリエの画家とモデル》(1938年。本館1階大客室に展示)は画面の右手前にイーゼルを前にした画家、左手奥の窓の前のベッドに背を向けて座るヌードのモデルを描く。画面の中で一番大きく描かれるのは画家であるが、床の板が作る直線がモデルに対して集中線のように働き、モデルに目を向けさせる仕組みになっている。同じ部屋を共有する画家・モデル・絵画作品群(画面右手奥)であるが、相互の微妙な距離感と歪んだ空間描写とによって、鑑賞者は一度にそれらを視界に入れることを拒まれるかのようで、それぞれが孤立した存在として立ち現れる。

《カーテンの前の花束》(1937年。本館1階大客室に展示)は花瓶に飾られた赤・白・黄・青・紫の花々に、背後にかかる赤・黄・青で鮮やかに彩られたカーテンが対抗しようとしている様が面白い。

《ヴァランティーヌ・テシエの肖像》(1927年。本館1階大客室に展示)はモデルの背後に"「"の形の枠のようなものが描き込まれているのが気になる。画中に描き込まれた枠組みは《ジプシーの女》(1929-30年頃。新館ギャラリー1に展示)にも見られる。

《花》(1933年。本館1階大客室に展示)は、青を背景に、ミモザの黄色と茶色の小さな花ががつくる凹凸が目をひく。本展に出品されている中ではミモザの花の黄色が一番明るかった(ミモザを描いた作品は他にも出展されているが、創造していたようも暗い印象)。

《赤い長椅子に横たわる裸婦》(1918年。本館1階大食堂に展示)。ティツィアーノの《ウルビーノのヴィーナス》やエドゥアール・マネの《オランピア》に連なる、横たわる裸婦像をキスリングは複数描いているという。そのうちの1点で、本展出品の横たわる裸婦像の中では一番魅力的(新館のギャラリー1には流線型が印象的な《長椅子の裸婦》(1938年)も)。本作品は赤と緑で統一された画面に、モデルの顔・乳房・腰などと、画面左手前の染付の平皿とそれに載せられた洋梨と林檎とが丸で呼応している。果物は熟した様子で濃い赤で塗られている。染付の白磁が赤く照り映えているのと、冷静な視線を鑑賞者に向けるモデルの頬が火照っているのも、エロティックな呼応を成している。

《ベル=ガズー(コレット・ド・ジュヴネル)》(1933年。本館1階大食堂に展示)のモデルは、作家コレットの娘(「ベル=ガズー」は母が付けた渾名)。赤・黄・緑のタータンのワンピースは、モデルの金髪と背景の鮮やかな緑とよく調和している。やや頭を傾け、こちらを見る姿が印象的。

《赤い長椅子の裸婦》(1937年。本館2階広間に展示)は、横たわるモデル(腰の部分が異様なまでに張り出して描かれている)の白い肌に対応した大きな影が印象的。女性の身体と壁がつくる斜めのラインも呼応する。モデルの、藪睨みのように別の方向を向く瞳が妖艶かつ特異な印象を与える。

《レオポルド・ズボロフスキーの肖像》(1916年。本館2階若宮居間に展示)は、画商の肖像画。なぜか椅子に座る画商に絵が立てかけられている、奇異な印象の作品。画家が画商に依存(売り出しを期待?)していることを表している訳ではあるまいが。

《女の肖像》(1921年。本館2階妃殿下寝室に展示)は、《ルシヨンの風景(セレのジャン・サリ橋)》(1913年。本館2階若宮寝室に展示)や《サン=トロペ風景》(1918年。本館2階若宮居間に展示)といった風景画における対象をマッスとして捉えるような描き方がモデルに適用されている。女性は、画面に対してそれほど大きく描かれている訳ではないが、オーギュスト・ロダンの《考える人》のような彫像のように、リアリティよりも量感を強調して表されているようだ。解説によれば、アンドレ・ドランの1920年代の肖像画に共通点が見られるという。

《シルヴィー嬢》(1927年。本館2階北の間に展示)は、白い肌が赤いドレスに映える女性像。小さな点で表された瞳が強い印象を与える。視線が遠くへ向かう様は、棚田康司の彫像を連想させる。

《ジプシーの女》(1929-30年頃。新館ギャラリー1に展示)は、暗がりの中に佇む、凜とした美しさを湛えた、黒い大きな瞳を持つ女性の上半身像。眉と目の水平、鼻筋が通った縦のライン、厚めの上下の唇がつくる水平というように顔の中で縦横のラインが安定した形を作っている。お下げが肩にそって曲がり”」”や”L”の形を作っているが、これが背景に描かれた”「”の形と呼応している。なお、《マルセイユの港》(1940年頃。新館ギャラリー1に展示)や《マルセイユ》(1940年。新館ギャラリー1に展示)といった風景画でも垂直と水平へのこだわりが見られる。