可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会『メスキータ』

展覧会『メスキータ』を鑑賞しての備忘録
東京ステーションギャラリーにて、2019年6月29日~8月18日。

オランダの美術家サミュエル・イェスルン・デ・メスキータ(1868-1944)を紹介する企画。

3階展示室は、自画像を中心とした「第1章 メスキータ紹介」と、女性像の版画を中心とした「第2章 人々」との2つのセクションから構成。2階展示室では、動物をテーマとした版画を中心とした「第3章 自然」と、芸術誌『ウェンディンゲン』を取り上げた「第5章 ウェンディンゲン」、さらに、ドローイングを中心とした「第4章 空想」の3つのセクションに加え、メスキータの作品をバナーにした撮影可能エリアが最後に用意されている。

木版画に表された線、人物の/への視線などが印象的。それの典型が木版画《ユリ》(1916-17)。本展では、全5ステート(刷り)のうち前半の3つのステートが紹介されている。一本の茎から3つの花をつけたユリ。中央の花は正面を向いて咲き、左側の花は左上を向いて花弁の側面を見せる。右側の右を向いた花はまだ開いていない。画面右側にはユリの茎から花と同じ高さで腹から頭部にかけての女性の裸体像が描かれている。女性は真右側のユリの花に対するように左側面で捉えられ、正面に咲くユリの花を見ているように描かれる。もっとも、ユリと女性との位置関係からすると、視線はユリの花を捉えることはなさそうだ。そして、第2ステートでは、左下に女性を見上げるように描かれた人物と黒地の背景に縦横の線が加えられ、さらに第3ステートでは、女性の肌に刻み込まれていた線が消され肌が白く表されるとともに、正面のユリの花の表現に変更が加えられている。ユリの3つの花が全て違う方向を向いていることに合わせ、花・女性・男性の向き(=視線)が全て異なるように表されたようだ。男性が女性の顔を見上げるように描かれたために、ユリの葉や右側の花と相俟って、女性(の顔)へ視線を誘導する働きが強まる。花が過去・現在・未来を表し、女性の腹部には新しい生命が宿るようにも見受けられる。

木版画の対となる作品《喜び(裸婦)》(1914)と《悲しみ(裸婦)》(1914)には、どちらも背景に縦の線が彫り込まれている。前者では女性が顔を上げ、右腕を持ち上げて右手が頭に位置するように描かれている。女性の見上げる目線に加え、腕や身体に表された横の線や背景の線は右上がりの斜線になっている。女性の身体の背後に柱のように表された縦の線が上昇を表現するようにもとれる。後者ではうつむく女性の顔には左腕が回され、腕や腰、太ももに入る線が右下がりに表される。無論、右下がりの斜線は左上がりでもあるのだが、こちらの背後の縦の線は下降を表現しているように見える。前者では影が女性の背後に示されるのに対し、後者では女性の前に表されることも、明暗対照の効果を高めているのだろうが、やはり女性の顔が大きく印象を変えるようだ。そのことは、女性が顔を上に向け、両腕を挙げた《エクスタシー》(1922)でもうかがえる(この作品は、女性の左右に描かれたクリムトの描く水の精、あるいは全身タイツの芸人のような存在でも極めて印象的)。

木版画《窓辺の女》(1920)は窓辺に手をついて裸身を見せる女性の姿を描いた作品。室内を黒で塗りつぶし、鎧戸を横線の彫りを重ねていくことで表しているのだが、かなり高い位置まで漆黒の闇が広がっているのが特徴。そこに女性の白い裸身が正三角形におさまるかたちで描かれる。幾何学的な要素の響き合いは、日常性から乖離した神話的な世界を呼び覚ます。

木版画《母と子》(1929)は母親の白い大きな顔と幼子の黒い顔とが木工パズルのように組み合わさる。メスキータの教え子エッシャーと共鳴している。

木版画《ファンタジー:稲妻を見る二人》)(1914)は、白い顔と黒い顔の二人の人物が、写楽の大首絵よろしく目を丸く大きく見開き、手前に重なるように大きく描かれる。その凝視の先、左手奥の窓外には、ひょろっとした稲妻が見える。白黒・明暗・動静・自然と人間といったコントラストが効果的。

展覧会 和田ひびき個展

展覧会『和田ひびき展』を鑑賞しての備忘録
JINEN GALLERYにて、2019年7月16日~21日。

《座》や《ビル》は、それぞれ共通の人物と背景を描きつつ構図の異なる2つの画面を併置した版画。後者では、ビルの屋上の人物の影が壁を超えてそのまま空間へと伸びるように描かれた画面と、ビル群の上空に浮遊する人物の影までもが浮遊するかのように描かれた画面とが組み合わされる。影の描き方ひとつで、ビルの密集する都会のありうる光景を異化し、画面に惹きつけさせる効果を生んでいる。
《なかわる》、《ゆめ》、《火事》、《倉庫》などの絵画作品では、明るいピンクやオレンジと青との取り合わせと、スピード線、クローズアップの描き込み、コマ割り的な複数画面など漫画の技法(?)の採用とにより、ポップな世界が立ち現れる。その軽やかな世界の中に存在する、人物の腕の異様な長さ、菓子のパッケージの唐突な挿入、似たような人物の肖像の複数の配置などの持つ一種の過剰性が、見る者に擦過傷を残す。

展覧会 水野里奈個展『思わず、たち止まざるをえない。』

展覧会『水野里奈「思わず、たち止まざるをえない。」』を鑑賞しての備忘録
ポーラ ミュージアム アネックスにて、2019年7月12日~28日。

水野里奈の絵画展。

《洞窟の入口》と題した作品がある。洞窟があると示されることで、先を見通すことは出来ない岩壁の中に、奥へと連なる空間の広がりが期待される。洞窟の入口は、鮮やかな色彩で通りがかる者の来訪を誘惑する。暗いディスプレーに、様々イメージを映し出していくインターネット空間の表象と解するのは安直に過ぎるか。
花や木などの植物、岩壁、机や椅子、敷物や壁、階段や屋根、水流あるいは気流、光線、幾何学的な図形。人工と自然、屋内と屋外とが渾然と一体化した世界が描かれる《FLAVOR》や《SCENT》では、インターネットや絵画が不得手とする感覚がタイトルに冠される。鑑賞者がその感覚を味わいたければ、描かれたイメージをたどるべく画面に没入する他に無い。
横山大観の《生々流転》のクライマックスを思わせるような黒白の渦が描かれた壁。そこに掛けたキャンヴァスに描かれた《青の宮殿》は、《FLAVOR》や《SCENT》、《山脈の中のお屋敷》といった作品の延長上にある。五十歩の距離から五百光年先へと接続するような、日常に宇宙を取り込もうとする意欲が表されている点で、スケールが異なっている。ボールペンのチップで回転するボールを天体の運動へと連動させんとする野心を感じる。
そして、改めて、《洞窟の入口》とは、作者の自作解題であったのだと気付く。

映画『さらば愛しきアウトロー』

映画『さらば愛しきアウトロー』を鑑賞しての備忘録
2018年のアメリカ映画。
監督・脚本は、デビッド・ロウリー(David Lowery)。
原作は、デビッド・グラン(David Grann)。
原題は、"The Old Man & the Gun"。

1981年のアメリカ。74歳になるフォレスト・タッカー(Robert Redford)は銀行から金を奪って車で逃走中、故障して立ち往生するトラックを見かける。警察は逃走車両が現場から遠くない場所に停車するはずがないと考えると判断し、タッカーは、車を停め、ボンネットを開けて途方に暮れる女性(Sissy Spacek)に声をかける。案の定、警察車両はその脇を通り抜けていく。タッカーの仕種を見て車に詳しくなさそうだと楽しげに口にする女性。タッカーはその女性を車で送ることにする。女性はジュエルと名乗る。名前負けしてないかとか、車は盗んだものだとか、次々に洒落の利いた発言を繰り出すジュエルに、タッカーは魅了される。意気投合した二人はダイナーに立ち寄って、軽食をとることにする。そこで職業を問われたタッカーはいったんはセールスマンだと説明する。聖書でも売って歩いているのかと言うジュエルに、タッカーは実は銀行強盗をしていると告げ、銀行の状況をよく観察してチャンスをいつまでも待つのだとダイナーの構造を例に説明する。だが、ジュエルは冗談だと取り合わない。タッカーも笑い話で済ませてしまう。だが、実際、タッカーは少年時代から数々の犯罪を犯し、刑務所の出入りを繰り返してきた筋金入りの泥棒だった。最近はテディ(Danny Glover)とウォラー(Tom Waits)と組み、銃を仄めかして金を出させる手口を各地の銀行で繰り返していた。タッカー一味が関与したある銀行強盗を担当した刑事のジョン・ハント(Casey Affleck)は丁寧な聞き込みを行うとともに類似の犯行の記事を徹底して集め、犯人の人相書きを作成して事件を追っていた。テレビのニュース番組にインタヴューされたハントは、自分の手で逮捕するとのメッセージをタッカーに送る。タッカーはそのニュースを偶然目にしたのだった。

 

決して銃を撃つことのない紳士的な強盗を貫くタッカーの流儀と、1980年代のアメリカの風景を現出させた映像とが、牧歌的な世界を生んでいた。そして、タッカーとジュエルとの軽妙なやり取りと適度な距離の保ち方が、その世界によく調和していた。もっとも、それがゆえに、タッカーの過去の犯罪の紹介や、ハント刑事の家庭のエピソードなどは蛇足に見えた。文章による説明の入れ方も不格好にすぎる。もっとタッカーとジュエルの世界に絞り込んで欲しかった。

展覧会『モダン・ウーマン フィンランド美術を彩った女性芸術家たち』

展覧会『日本・フィンランド外交関係樹立100周年記念 モダン・ウーマン フィンランド美術を彩った女性芸術家たち』を鑑賞しての備忘録
国立西洋美術館(新館展示室)にて、2019年6月18日~9月23日。

1917年の独立前後のフィンランドを生き、同国の近代美術に革新をもたらした女性芸術家たち、マリア・ヴィーク(Maria Wiik)、ヘレン・シャルフベック(Helene Schjerfbeck)、エレン・テスレフ(Ellen Thesleff)、シーグリッド・ショーマン(Sigrid Schauman)、エルガ・セーセマン(Elga Sesemann)、シーグリッド・アフ・フォルセルス(Sigrid af Forselles)、ヒルダ・フルディーン(Hilda Flodin)の作品80点強を紹介する企画。

マリア・ヴィークの油彩作品《古びた部屋の片隅、静物》は、麦わら帽子を掛けた鏡の前にの容器とガラスを中心に描く。容器やガラスの置かれた台には白い布が敷かれ、壁には黒い布が掛かけられており、水平・白と垂直・黒との対比が示される。それは、容器とガラスとそれらが映り込む鏡面との比較を促す。そして、実像と鏡像とのずれを探ろうとして、鏡面(画面)の中に吸い込まれることになる。《別れ、石垣のための習作》では、画面手前、石垣の下に泣く子供が描かれ、石垣の上に手を差し伸べるようにも見える女性が描かれる。タイトルには「別れ」とあるが、子供が泣いているという以外に別離を表す事情はうかがえない。あるいは、鑑賞者の地位に母親がいて、石垣の上の女性が子供を母親から受け取る場面なのかもしれない。確かなのは、石垣という舞台装置を設けることで、女性が子供を世話しようとする動作を見上げる位置で描いているということだ。子守・子育て・子供に対するケアに対する讃仰をこそ描こうとしたのかもしれない。

ヘレン・シャルフベックの絵画《木こりⅠ》は、茶色い服を着た、白い肌と鮮やかな赤い唇を持つあどけなさを残す少年が、木材か鉈のような道具を右手に抱えている肖像画。瞳の青と青灰色の背景、唇の赤と服の明るい茶色が呼応し、キャンヴァスに油彩とクレヨンで描かれたざらついた画面が静謐さを湛えた統一感をもたらしている。作者は
この作品をマネの《オランピア》に匹敵する「宣言」であると述べたという。フェミニンな少年をもってモデルとし、「木こり」からイメージされる力強さや荒々しさを表面から排除しているからだろうか。《ロヴィーサからきた少女》は、顔がはりついた仮面のように表されていること、キャンヴァスの布目をデザインとして取り込んでいる点が印象的。布目の衣服表現への取り込みは《占い師(黄色いドレスの女性)》でも見られる。また、仮面としての顔は《コスチューム画Ⅰ》でも見られる。仮面的表現は、分人的発想からくるものか、あるいは化粧ののる顔を衣服やアクセサリー同様にとらえているからなのか。子を背面から見守る母親を描いた《母と子》に見られる顔は、仮面とは言わずとも、陽咸二やブランクーシの表現を想起させる。リトフラフ《絵本》(版画素描室に展示)では、母娘を2つの顔のみで表し、簡略化したカモメのような「折れ線」となった本とあわせ、よりエッセンスのみを抽出した表現の試みが見られる。

シーグリッド・アフ・フォルセルスによるブロンズ像《青春》は、作者とともにロダンの助手を務めたマドレーヌ・ジュヴレをモデルとした胸像。後ろに髪を結い上げた頭をやや右上へと向けさせることで躍動感を生んでいる。聡明さを感じさせる眼がつくる凜とした表情で前方を見据える姿は、ふくよかに表現された胸と相俟って、希望にあふ
れた印象を高めている。

エレン・テスレフの油彩画《装飾的風景》は中央に大きく樹木を配し、その幹や枝に緑色の絵具がまとわりつくように鮮やかな葉が表されている。背後に並ぶ木々も全体にねっとりとした感じで描かれているのが印象に残る。青とピンクが溶けあうような画面の《自画像》は、油彩というよりパステルで描かれたよう。

エルガ・セーセマンの油彩画《カフェにて》はピンク色の衣装の女性の肖像画で、仮面のように平板に塗り込まれた顔が強い印象を与える。女性が大きく見えるのは、画面に占める割合が大きいことだけでなく、赤い飲み物の入ったカクテルグラスが小さく描かれることによるようだ。《室内》は、ベッド、テーブル、窓のみの(おそらく)ホテ
ルの一室を表した作品。縦長の画面に壁・ベッド・テーブルがみっしり描き込み、とりわけ右手に押し込まれるように女性が直立して描かれている点が窮屈さを演出している。その窮屈さは、ベッドに当たる弱い黄色い光を、わずかだがかけがえのない希望に見せている。《通り》は電柱の立つ路地を一人歩く人物が描かれる。ルオーの《郊外の
キリスト》のような作品を想起させる。どこかへは続いていそうな道に救いがある。《花売り》は2棟の建物、灰色の道に、緑のパラソルを広げた花屋が佇むが、周囲には誰もいない。建物の間を通して奥に見える海(?)は希望か。