可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会 シャルロット・デュマ個展『ベゾアール(結石)』

展覧会『シャルロット・デュマ展「ベゾアール(結石)」』を鑑賞しての備忘録
銀座メゾンエルメス フォーラムにて、2020年8月27日~12月29日。

少女ゆずと彼女の愛馬うららを軸に与那国島の風物を描く《潮》、馬の衣装を身につけた少女アイヴィが与那国島へと向かうロード・ムーヴィー《依代》、兵士の棺を運ぶ埋葬式に従事する軍馬の入眠をとらえた《アニマ》の3点の映像作品を中心に、映像作品や馬に纏わる写真や資料を併せて紹介する、シャルロット・デュマの個展。

半透明のガラスのブロックで構成された壁面を持つ会場の吹き抜けの空間に、キッタユウコによる濃淡や長さを異にする琉球藍の染め物が36枚吊り下げられている。微かに揺れる青い布の中にモニターがあり、与那国島を舞台に少女ゆずと愛馬うららを主人公とした映像作品《潮》が流されている。海岸でうららに跨がるゆずや、あたかも馬たちの島であるかのように野生の馬たちがのびのびとする姿が映し出される。モニターの手前には緩やかな弧を描きながら次第に高くなる白木のベンチが設置されている。

友人から贈られた小さな象牙の根付は瓢簞をかたどっており、その上部に馬の像が取り付けられていた。これは中国の不死身の道士で、愛馬を瓢簞水筒に入れて持ち運んでいた張果老仙人の物語を描いたものである。瓢簞にふうと息をふきかけるだけで愛馬が疾風のように現れ、仙人を乗せて運んでくれる。この奇譚に触発されて他の例を探してみたところ、版画やドローイング、刀や陶器の装飾に至るまでさまざまな表現が見つかった。日本では全く予期せぬ、もっと言えば、信じがたいことさえ起こることを「瓢簞から駒」と言う。この話に私は思わず膝を打った。今なら苦もなく理解できる。与那国島で出会った風の中に挑むように立つ馬たちはまさしく瓢簞から飛び出してきたのだと。(シャルロット・デュマ「瓢簞」同『馬とオブジェに導かれて シャルロットデュマによる散文』より)

瓢簞という「壺中の天」を抜け出してきた奔馬のイメージを白木のベンチが具現化している。ベゾアール(結石)という奇妙な展覧会のタイトルも「瓢簞から駒」を介することで明らかになる。

結石は動物の胃の中に形成される凝固物、言わば石のことである。時として博物館や骨董店で見つかるものは、通常反芻動物や有蹄類といった大型動物の胃腸を切り拓き、摘出されたものである。結石は乾燥した不毛な地に生息する草食動物に特有のものである。石混じりの土壌を歩き回って草を食むので、小石や小枝を飲み込んでしまう。胃の中に一旦ひっかかると、そこが基質になってカルシウムを含む化合物が沈着する。動物が水を摂取できないと、消化機能が滞り、結石は急速に成長する。沙漠の地、中東の古い伝承は結石をヘビに噛まれた歯科の涙の結晶であるとし、石ができた原因を水分の欠乏と毒性物質の摂取の双方に結び付けた。遊牧民の間では結石を柳の小枝と一緒に水に沈めれば雨乞いができ、小さな袋に入れて馬の尾に結わえ付ければ風を吹かせることができると信じられていた。


パリにある獣医学博物館には、こうした石の数々が所蔵されており、その多くは馬の胃から取り出されたものであるという。その内のいくつかは驚愕的な大きさで、サイズはサッカーボール並みで、重量は鉄球と鎖の拘束具のように思い。私は痛感させられた。水が生命の維持にとっていかに大切であるかを。水は滋養であると同時に過剰であれば脅威にもなる。また水の欠乏はどんな生物にとっても危険であることは原則なのだ。思うに、結石とは水分の不足、すなわち死に直結しているのだろう。その証拠にパリで目にした結石は大きく、その重さに耐え、生き延びた馬はいない。結石は神秘的なオーラを放っている。その表面は惑星にも似てそれ故、動物の腹の中からやって来たようにも思われる。これは、石を抱えていた動物が命懸けでこしらえた生涯の作品であり、抵抗の証でもある。命とはかくも無常であることを、想起せざるを得ない。(シャルロット・デュマ「結石」同『馬とオブジェに導かれて シャルロットデュマによる散文』より)

 

瓢簞の中には俗世界と隔絶した別世界が広がっており馬がそこから姿を表すのと同様、馬の体内に広がる小宇宙からは惑星の似姿となる結石が生まれるのだ。入れ籠のアナロジーが示されている。

例えば、家畜に人の姿を映す鏡を見ること。頻発する家畜感染症と、パンデミックとは類比されるべきものであろう。昨年末、数年前に鶏卵大手の代表だった者が当時の農林水産大臣に現金を提供していたと報じられた。「アニマルウェルフェア」の国際基準の緩和を狙った政治工作であったという。動物の福祉を蔑ろにすることは、人間の福祉をなおざりにすることである。この汚職事件が新型コロナウィルス感染症が猖獗を極める中で明らかになったことを単なる偶然で片付けることはできまい。

会場はエレヴェーターで大きく二つに分かれている。もう一つの空間には、白木の板でできた壁が緩やかなカーヴを描いてガラスブロック(ソニー通り側)へ貼り出している。顔の部分だけがのぞく馬の衣装を纏った少女アイヴィがオランダから与那国島へと向かう旅程を描く《依代》に関連した写真が壁面に飾られている。壁を回り込むと、微妙な傾斜がありカーヴを描くベンチが設けられていて、その先でプロジェクターで投影された《依代》を視聴できるようになっている。アイヴィは多様な風景の中を様々な交通機関を乗り継いで渡っていく。それでも、かつて世界の旅路で活躍した馬に乗ることはない。その代わり、「馬」が旅をする。馬との出会いを求めて。アイヴィが神社で相対した白い神馬は、箱の中に売られた土産物の馬の土鈴のように狭い囲いの中にいた。旅の終わりに、夕暮れの与那国島で、アイヴィが丘に憩う馬たちに出会う。アイヴィが馬にそっと手を触れる。アイヴィは「馬」から馬になるだろう。「鬼ごっこ」で子が鬼に変わるように、人と馬とも入れ替わり可能なのだから。

 見ることが人間にとって特別なのは、人間はなぜか、見ている対象にやすやすと自己同一化することができるからである。このことはたとえば野球観戦ひとつに明らかである。数千人の観衆が投手と打者の一挙一投足に瞬間的にどよめくのは、観衆が投手や打者に同一化しているからにほかならない。相撲を観戦して手に汗握るのもそうだ。舞台芸術にいたっては、観客を引き込んで自身に同一化させる役者や踊り手こそが名人なのである。芝居小屋を出て役者の仕草を真似、声色を真似る客が多ければ、それは成功した芝居なのだ。
 (略)
 相手の身になることができるということの帰結のひとつは、人は誰にでも何にでも成り替わることができるということである。動物にも植物にも成り替わることができる。(略)
 (略)
 だが、ここで登場するさらに重要な帰結は、相手の身になることができるようになるのとまったく同じ瞬間に、人は、相手と自分の双方を眺めうる視点を獲得するようにもなるのだということである。それがなければ入れ替われないのだ。
 つまり、世界を俯瞰する視点である。(三浦雅士『孤独の発明 または言語の政治学講談社/2018年/p.75-77)

古の工人が細部まで忠実に馬や馬具を象った南山下遺跡の馬形埴輪や忍ヶ丘駅前遺跡の子馬形埴輪が《潮》の展示空間と《依代》の展示空間とに展示されている。これらは墳墓に関連した遺物であり、上階の展示の予兆のように展示されている。上階では、暗がりに、斃れたかのような横倒しの馬の写真《砂にうずまる馬/今治》、死そのものを表す馬の頭骨や馬に死をもたらしたであろう馬の結石が並べられた先に、兵士の埋葬式に参加する軍馬が眠りに落ちる過程をとらえた映像作品《アニマ》が上映されている。厩舎の闇の中で静かに眠りが訪れるのを待つ馬と、照明を落とした展示室の隅で画面を見つめる鑑賞者とが、緩やかに流れる時間の中で入れ替わっていく。眠りとは死のメタファーであるが、実際、眠りのたびに生命は死に近づいていく。死を偽装する眠りによって、ベゾアールのように形象化したアニマ(anima)(生命)の姿を幻視する。

展覧会 松田修個展『こんなはずじゃない』

展覧会『松田修(厄年)展「こんなはずじゃない」』を鑑賞しての備忘録
無人島プロダクションにて、2020年12月5日~2021年1月16日。

《奴隷の椅子》は、2020年にスナック「太平洋」を畳んだT(仮名)という女性のオーラルヒストリー。写真を元にしたコンピューター・グラフィックスにより、口を動かし、発言内容に合わせて微妙に表情を変えるTが、関西地方のある「新地」の近くで生まれ育ち、「働いたことがない」が自慢の男との間に子を授かり、実母のスナックで接客業の道を歩み始め、自分の店を持ってからコロナ禍の最中に営業を終えるまでが語られる。スナックを訪れる客は店名に比してあまりに狭小な店内に感嘆の声を上げたらしいが、「太平洋」には客室乗務員になって世界中の国を訪れることが夢だったというTの切実な思いが籠められている。題名は、Tの息子(現在は東京で詐欺師まがいのアーティストになっているとか)がそんなTの来し方を聞いて、スナックに置かれたソファを「奴隷の椅子」と評したことに基づく。映像を鑑賞するために用意された、南洋の美しい砂浜を思わせるソファはその実物だという。なお、Tは息子の発言に当意即妙に切り返しており(作品でご確認頂きたい)、接客業一筋に生きてきた女性の機智と手練とを感じさせる。Tの映像の背景には、何気ない風景だが一人の子供の姿が映った写真が採用されている。また、映像の最後には、Tの写真で顔お覆ったおそらくT縁の人物が登場し、Tの思いを代弁するかのように、無言のまま画面を見据えている。Tの思いは縁ある人物によって引き継がれている。作家によって「奴隷の椅子」はTの住む世界を離れ、今、遙か太平洋の彼方へと漕ぎ出した。

南太平洋のタヒチ島に渡ったポール・ゴーギャンが描いた《我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか》(1897-1898)。その原題(D'où venons-nous? Que sommes-nous? Où allons-nous?)の音訳をタイトルに冠した映像作品では、女性器記号の落書きが「口」を開くようにして「我々はどこから来たのか」と問いかける「ヴァギナ・モノローグ」。ゴーギャンの女性遍歴を踏まえ、畢生の大作も便所の落書きや「ポエム」と変わらないものだと揶揄するものなのか。あるいはヴァギナに日陰にある声なき者の姿を見て、その思いを代弁しようとするものか。

ゴーギャンはマルキーズ諸島のヒバオア島で没したが、マルキーズならぬマルキーニョスを冠した作品が《超生活マルキーニョスの観測記録》。かつて赤瀬川原平らが「無用の長物」としての不動産を街中に発見し、制作する意図なく生まれた「超芸術」として採集したのに倣い、路上生活者の生活の中に彫刻を見出すもの。

路上への眼差しから生まれたと思しき《呪い》は、道や柵や塀などに現れる線を撮影した映像を短い間隔で繫いでいった作品。格付けを表す「上、中、下」や位置づけを意味する「右、左」を唱える声が怨嗟のように繰り返されて映像に重ねられるが、鑑賞者は瞬間的に映し出される線に上下や左右といった判断をすることは難しい。敢えて咳き込む音も取り込まれ、ウィルスが人を「上、中、下、右、左」という区別(差別)することなく感染することが強調される。

南太平洋からインド洋へ。ラージクマール・ヒラーニ監督の映画『PK』(2014)は、宇宙人PKの目を介し、宗教上の禁忌などの宗教的行為に見られる不可解について訴える作品である。PKは、人が神へかけた電話が混線しているとの表現で誤りを訴える。同作に出演していた俳優のスシャント・シン・ラージプートが、2020年に自ら首を吊って命を絶った。《首釣り》は、高い位置に固定された釣り竿の先に取り付けられた釣り糸による輪が踊るように跳ね、その傍の床に脚立が置かれたインスタレーション。首「吊り」の背景に存在する、姿の見えない首を吊らせている者を示唆するため「釣り(fishing)」が組み合わされたらしい。ところで、インターネット上の詐欺行為を「フィッシング(phishing)」というが、"fishing"ではなく"phishing"と表記されるのは、電話回線の不正使用、すなわち意図的な混線によりネットワークへ侵入する"phreaking"に由来するとの説がある。行為者にはたとえやむにやまれぬ理由があったとしても、自死の選択は、神へかけた電話(願掛け)が混線して(誤って)いるのに等しいとの訴えが響いてくる。

インド洋から紅海、地中海を経て黒海へ。ドナウ川を遡上する。榎忠は、かつて半身の体毛を剃って東側(共産主義政権)諸国のハンガリーに向かう《ハンガリー国へハンガリ(半刈り)で行く》というパフォーマンスを行った。《排除の構造》は、長髪の作家がビデオカメラに正対して(この構図からして榎忠の作品をイメージさせる)、学歴などが生む社会の格差構造について解説する映像作品だが、突然、自らの頭髪の話題に転換する。髪が生える位置による格差を是正すると言うのだ。頭頂部の毛髪(有産階級を表す?)を刈って、側頭部の髪の毛で遊んで様々な髪型にアレンジする。髪=カミ=上のあり方に対する異議申し立て。

そして、我々はどこへ行くのか。

展覧会 若山美音子個展『遠い呼吸―曖昧な存在に問いかける―』

展覧会『若山美音子写真展「遠い呼吸―曖昧な存在に問いかける―」』を鑑賞しての備忘録
キヤノンギャラリー銀座にて、2021年1月4日~13日。

若山美音子の写真展。

一陣の風がワンピースにプリントされた花々(残念ながらアネモネではない)を揺らすように吹き抜ける。あたかも柔らかな凹凸を楽しむかのように服が女性の身体にまとわりつく。女性は左手に持ったペットボトルを口につけ呷るように飲む。否、女性は風を吹き出している。女性はアネモイなのだ。遙か彼方の風神の一呼吸が、今、この場でいたずらのような奇蹟をつかの間もたらす。その瞬間をとらえたかのような写真群。

往来を行く数多の人々の中で圧倒的な存在感を放つスタイリッシュな女性。眼鏡のフレームが星形であることが必然であるかのよう。彼女が両手で髪の毛を跳ね上げさせ、宙に靡かせる。世界の中心が忽然と姿を表す。
草生した空き地に佇む猫は、風景に十字を描く影の中央に位置している。世界につかの間姿を表す幻の猫王国の玉座
水の中でアクアマリンの姿を悠然と示す魚。

雲は大量の水でできている。上空を覆い尽くすように立ち上がる雲は、大波となって、世界を呑み込もうとしている。遠くで弱々しい太陽の光が、雲の先をわずかに赤く染めている。

建築現場の仮囲いには堀端のランナーたちの写真がラッピングされている。その手前を通り過ぎる女性は、あたかもランナーたちの姿を左手に見ながら歩くようだ。街路に現れた「合成写真」。
画面右手には岸田劉生《道路と土手と塀(切通之写生)》のような急坂が青空に向かって延びる。坂の上には赤い服の少年が小さく姿を現している。画面左上方には青空を背景に猛禽(とんび?)が羽を広げカメラに挑むかのように浮かぶ。その姿は少年よりも大きい。地を駆ける少年の世界と宙を舞うとんびとの世界が交錯する一瞬。

夜道で行列を成す人々。川を遡上する魚の群れ。電線に止まる鳥の群れ。

夜空に咲いた大輪の花に向けて人々の腕が上げられ、スマートフォンが向けられる。画面には夜空から切り取った花火の姿が映る。情報がコピーされ、拡散される情景。あるいは、現実ではなく画面を見つめる人々の姿。

線路を隔ててビル群が広がる高架駅のプラットホーム。ベンチに座り本を読む女性の他に生命の姿はない。

苔生した彫刻。砂埃を被った彫刻。

展覧会 伊藤彩個展『STORIES -collaboration with Essential Store-』

展覧会『伊藤彩展「STORIES -collaboration with Essential Store-」』を鑑賞しての備忘録
銀座蔦屋書店〔GINZA ATRIUM〕にて、2021年1月2日~11日。

白い壁面で囲われた会場には、動物のぬいぐるみ、文化人類学の標本、鉱物、数理模型、測定用品、塗装見本、現代彫刻などを思わせる得体の知れない雑多なオブジェが床や台座や棚や壁面に所狭しと並べられ、さながら「驚異の部屋(Wunderkammer)」の観を呈している。随所に展示されている鮮やかな色彩の絵画の中には、会場に置かれたオブジェの姿を発見できる。作者は、オブジェを配したジオラマを制作し、そこで撮影された写真に基づき描く「フォトドローイング」という手法で制作しているという。なお、今回、「フォトドローイング」のモティーフに採用されているのは、アンティークショップ「Essential Store」が扱う品々だという。都市という浜辺に日々打ち上げられるモノ。アンティークショップのオーナー(田上拓哉)がビーチコーミングするように買い付けて回っているのだろうか。
"STORIES"がモノ・語り(=物語)であるなら、作家の制作するジオラマとはオブジェに当て書きした舞台である。そして、写真を撮影した上でさらに絵画というメディアに変換する工程を挟むのは、言葉を発することのないオブジェに語らせるための仕掛けなのかもしれない。
 ところが、作者は「制作するにあたって常に『無意味』であることを大切にしてい」るという。意味を生み出す"STORIES"をタイトルに冠することと、作家の無意味の追求との間にはいかなる関係が存在するのか。
 改めて会場を見渡してみる。「驚異の部屋」然とした空間は、都市に漂着したモノたちによって埋め尽くされた、ある種の「夢の島」と言えるのではなかろうか。

 日野〔引用者註:都市小説などで知られる日野啓三。以下同じ。〕が恐れたものは、人間化された環境における意味の充溢である。環境を人間の行動のために整備することは、一定の意図や目的の下に環境を飼い慣らすことである。そうして自己を飼い慣らすことである。日野が嫌ったのは、牧歌的自然と都会に充満する人間的な意味である。それゆえに、日野は、都市に見いだされる廃墟に、勝手に成長し崩壊していく建築物たちに、大量に破棄されたゴミの山にこそ、人間的な意味から解放されて「宇宙にまで開かれた気分」〔引用者補記:日野啓三『都市という新しい自然』読売新聞社、1988年〕を感じるのである。
 日野はたまたま訪れた東京の夢の島で、絶対的なものとの邂逅を果たす。各地から廃棄物が集まり埋め立てられていくゴミの集積地で、交換価値も、使用価値も、美的価値さえ失った、意味も名前もない廃物たちの圧倒的な実在感を日野はこう感嘆する。

 

 そんな信じ難いほど多種類の品物が、すでに商品価値も、使用価値も、磨きあげられた形も色も失い、名前さえも消えかけて、単なる廃物、物体そのものとして、明るい空間に一面に剥き出しになっているのだった。互いに全く無関係に、何の脈絡も、水面を埋めるという以上に何の意味もなく。
 だがその迫力は何と圧倒的だったろう。これほどの、荒涼と濃密な実在感を、こんなに骨身にこたえるほど感じたことがあったろうか、とさえ思いながら、私はその散乱し積み重なる廃物の中に一種茫然と、一種陶然と、ただ立ち尽くしていた……。(日野啓三『都市という新しい自然』読売新聞社、1988年、11頁)

 

 あらゆる意味を失ったゴミが、広大な砂漠と岩だらけの山脈と宇宙の果ての光景と重なって見えるのは、それらが、人間からの意味づけを退け、人間の目的に奉仕させられず、人間の意図のもとに制御できず、飼い慣らすことができず、ときに野獣のようにコミュニケーションすらできないからである。もともと人間の目的と意図をもとに作られた人工物は、うち捨てられることによって、それまでの文脈や関連が剥離し、かえって物の存在の本来の無意味さをはっきりと表現するようになる。(河野哲也『境界の現象学 始原の海から流体の存在論へ』筑摩書房〔筑摩選書〕/2014年/p.137-138)

 

 また、作者が、常に「フォトドローイング」のモティーフ(オブジェ)を狩り(求め)、あるいは、ジオラマの中に身を潜めてシャッターチャンスを狙う「狩猟者」であるとの観点から、「無意味」をとらえることもできるのではないか。

 (略)狩猟者は、人びととの関係性を離れ、異種の動物と始原的生活のなかで交感する。狩猟者は獲物を模倣し、獲物と命を交換する。狩りとはひとつしかない命をやりとりする行為であるがゆえに、他の人間と交換がきかない生のあり方である。狩猟者は、自然の中の命の循環の中で、自分をひとつの命として鋭く自覚する。対象である獲物も、狩猟者である私もたったひとつの意味しか担わない。それゆえん、意味はないに等しく、私も動物もただ存在しているだけなのである。(河野哲也『境界の現象学 始原の海から流体の存在論へ』筑摩書房〔筑摩選書〕/2014年/p.96)

 とっておきのもの(=STORES)の中に、「私(=I)」すなわち「作者(="I"toaya)」が入り込むとき、"STOR-I-ES"が姿を現す。

展覧会 瀬戸正人個展『記憶の地図』

展覧会『瀬戸正人「記憶の地図」』を鑑賞しての備忘録
東京都写真美術館にて、2020年12月1日~2021年1月24日。

瀬戸正人の写真展。長時間にわたる女性のバストアップ写真の撮影で期せずして浮き上がった表情をとらえた「Silent Mode 2020 [2019-2020]」(28点)、国内外から東京への移住者をその居住空間とともに記録した「Living Room, Tokyo [1989-1994]」(11点)、台湾郊外の「ビンラン・スタンド」に佇む艶めかしい売り子の女性たちの姿を収めた「Binran [2004-2007」(11点)、作家が青春時代を過ごした福島の風景写真で構成される「Fukushima [1973-2016]」(16点)、公園や河川敷の緑地でレジャーシートに身を寄せるカップルを撮影した「Picnic [1995-2003]」(13点)、作家の生地バンコクと母の親戚の住むハノイの姿を伝える「Bangkok, Hanoi [1982-1987]」(26点)の6つのシリーズ(計105点)を紹介。

 

「Picnic」シリーズで撮影されているのは、緑地に敷いたレジャーシートで身を寄せ合うカップルの姿。レジャーシートを敷くことは結界を張ることであり、二人のためのシェルターを築く。だが壁も柱も屋根も無いシェルターは、二人を周囲からの視線に曝しており、二人が演者となる仮設の舞台ともなる。つかの間姿を表す劇場。「消えそうに淡く、そして危ういその瞬間こそが『写真』かもしれません」とは作家の弁。
「Living Room, Tokyo」シリーズでは、人物をその居住空間とともに撮影するもの。部屋には、住人の時間が堆積しており、家具調度や商品や衣類、コレクションに至るまで生活の痕跡が留められている。それに対して「Silent Mode 2020」シリーズでは、カメラに対峙する女性が、撮影が長時間にわたる中、作り上げていたイメージを綻ばせる瞬間に現れる捉えどころの無い感情をとらえている。両シリーズは、あたかも「ストック」と「フロー」との両面から人間をとらえる合わせ鏡のようだ。
「Binran」シリーズは、ガラス張りの「ビンラン・スタンド」(軽い酩酊感が味わえるビンロウの実を用いた嗜好品「ビンラン」の販売所)に佇む、売り子の女性たちの姿を収めたもの。「檳榔西施」とも称される彼女らは水着など肌の露出の多い出で立ちで座っている。「室内」で「肌」を見せる彼女たちの姿が、公開されているのだ。夜、様々な色の光に彩られる「ビンラン・スタンド」のガラスの壁面は一種の活人画と言える。


「Living Room, Tokyo」シリーズでは部屋の中を撮影することで、住人のプライヴァシーを曝き出している。また、「Picnic」シリーズは屋外の公園や河川敷といった公共空間に現れた仮設の擬似的な私的空間(例えば、制服姿のカップルの女性が手で顔を覆う仕草によって「秘匿」されるべき状況であることが強調される)を、「Binran」シリーズは「ビンラン・スタンド」という公共空間に向けて開かれた擬似的な私的空間(「室内」や「肌」がプライヴァシーのメタファーである)をそれぞれ撮影することで、曝いていると言える。さらに「Silent Mode 2020」シリーズでは、肖像写真の撮影中、モデルに見せるつもりの無かった表情を曝させている。これらのシリーズに共通するのは、秘められた部分を鑑賞者に擬似的に覗き見させることであり、その行為が持つエロティックな性格である。そのような作家性を踏まえると、「Bangkok, Hanoi」シリーズでも、親族のポートレイトを撮影することで、街路での撮影が禁じられ(秘匿され)ていたハノイの姿を一端を覗き見させていると評しうる。さらに、福島の風景写真のシリーズでは、タイトルを「福島」ではなく「Fukushima」とすることで、写真には写らない放射性物質の存在を想起させ、やはり見えない(秘匿された)部分を鑑賞者に透視させるかのようだ。