可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会 松田修個展『こんなはずじゃない』

展覧会『松田修(厄年)展「こんなはずじゃない」』を鑑賞しての備忘録
無人島プロダクションにて、2020年12月5日~2021年1月16日。

《奴隷の椅子》は、2020年にスナック「太平洋」を畳んだT(仮名)という女性のオーラルヒストリー。写真を元にしたコンピューター・グラフィックスにより、口を動かし、発言内容に合わせて微妙に表情を変えるTが、関西地方のある「新地」の近くで生まれ育ち、「働いたことがない」が自慢の男との間に子を授かり、実母のスナックで接客業の道を歩み始め、自分の店を持ってからコロナ禍の最中に営業を終えるまでが語られる。スナックを訪れる客は店名に比してあまりに狭小な店内に感嘆の声を上げたらしいが、「太平洋」には客室乗務員になって世界中の国を訪れることが夢だったというTの切実な思いが籠められている。題名は、Tの息子(現在は東京で詐欺師まがいのアーティストになっているとか)がそんなTの来し方を聞いて、スナックに置かれたソファを「奴隷の椅子」と評したことに基づく。映像を鑑賞するために用意された、南洋の美しい砂浜を思わせるソファはその実物だという。なお、Tは息子の発言に当意即妙に切り返しており(作品でご確認頂きたい)、接客業一筋に生きてきた女性の機智と手練とを感じさせる。Tの映像の背景には、何気ない風景だが一人の子供の姿が映った写真が採用されている。また、映像の最後には、Tの写真で顔お覆ったおそらくT縁の人物が登場し、Tの思いを代弁するかのように、無言のまま画面を見据えている。Tの思いは縁ある人物によって引き継がれている。作家によって「奴隷の椅子」はTの住む世界を離れ、今、遙か太平洋の彼方へと漕ぎ出した。

南太平洋のタヒチ島に渡ったポール・ゴーギャンが描いた《我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか》(1897-1898)。その原題(D'où venons-nous? Que sommes-nous? Où allons-nous?)の音訳をタイトルに冠した映像作品では、女性器記号の落書きが「口」を開くようにして「我々はどこから来たのか」と問いかける「ヴァギナ・モノローグ」。ゴーギャンの女性遍歴を踏まえ、畢生の大作も便所の落書きや「ポエム」と変わらないものだと揶揄するものなのか。あるいはヴァギナに日陰にある声なき者の姿を見て、その思いを代弁しようとするものか。

ゴーギャンはマルキーズ諸島のヒバオア島で没したが、マルキーズならぬマルキーニョスを冠した作品が《超生活マルキーニョスの観測記録》。かつて赤瀬川原平らが「無用の長物」としての不動産を街中に発見し、制作する意図なく生まれた「超芸術」として採集したのに倣い、路上生活者の生活の中に彫刻を見出すもの。

路上への眼差しから生まれたと思しき《呪い》は、道や柵や塀などに現れる線を撮影した映像を短い間隔で繫いでいった作品。格付けを表す「上、中、下」や位置づけを意味する「右、左」を唱える声が怨嗟のように繰り返されて映像に重ねられるが、鑑賞者は瞬間的に映し出される線に上下や左右といった判断をすることは難しい。敢えて咳き込む音も取り込まれ、ウィルスが人を「上、中、下、右、左」という区別(差別)することなく感染することが強調される。

南太平洋からインド洋へ。ラージクマール・ヒラーニ監督の映画『PK』(2014)は、宇宙人PKの目を介し、宗教上の禁忌などの宗教的行為に見られる不可解について訴える作品である。PKは、人が神へかけた電話が混線しているとの表現で誤りを訴える。同作に出演していた俳優のスシャント・シン・ラージプートが、2020年に自ら首を吊って命を絶った。《首釣り》は、高い位置に固定された釣り竿の先に取り付けられた釣り糸による輪が踊るように跳ね、その傍の床に脚立が置かれたインスタレーション。首「吊り」の背景に存在する、姿の見えない首を吊らせている者を示唆するため「釣り(fishing)」が組み合わされたらしい。ところで、インターネット上の詐欺行為を「フィッシング(phishing)」というが、"fishing"ではなく"phishing"と表記されるのは、電話回線の不正使用、すなわち意図的な混線によりネットワークへ侵入する"phreaking"に由来するとの説がある。行為者にはたとえやむにやまれぬ理由があったとしても、自死の選択は、神へかけた電話(願掛け)が混線して(誤って)いるのに等しいとの訴えが響いてくる。

インド洋から紅海、地中海を経て黒海へ。ドナウ川を遡上する。榎忠は、かつて半身の体毛を剃って東側(共産主義政権)諸国のハンガリーに向かう《ハンガリー国へハンガリ(半刈り)で行く》というパフォーマンスを行った。《排除の構造》は、長髪の作家がビデオカメラに正対して(この構図からして榎忠の作品をイメージさせる)、学歴などが生む社会の格差構造について解説する映像作品だが、突然、自らの頭髪の話題に転換する。髪が生える位置による格差を是正すると言うのだ。頭頂部の毛髪(有産階級を表す?)を刈って、側頭部の髪の毛で遊んで様々な髪型にアレンジする。髪=カミ=上のあり方に対する異議申し立て。

そして、我々はどこへ行くのか。