可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会 みさかほ穂個展『本当のことは言えない』

展覧会『みさかほ穂個展「本当のことは言えない」』を鑑賞しての備忘録
新宿眼科画廊〔スペースM〕にて、2023年7月7日~12日。

女性の身体をモティーフとしたモノクロームの絵画「本当のことは言えない」シリーズ10点を中心とした、みさかほ穂の個展。

《本当のことは言えない02》(788mm×547mm)は白い紙にペンで、右脚で立ち左脚を軽く上げた女性の身体を下から見上げるように描いた作品。画面右側の上部に臀部が位置し、そこから下に向かって太く力強く表現された右脚が伸びる。また右上の臀部から画面中央を躱す左脚は、その先で足の裏を見せる。臀部から小さな背中を経て左上の隅に頭があり、顔が覗く。白いジェッソが塗られた、台形に近い形の上部とそれより小さい震える輪郭の下部で構成されている、作家に特徴的な表現の目が描き込まれている。ドスンと重力を感じさせる太い右脚が下に降ろされるのに対し、左脚がに持ち上げられて捻られ、女性が振り返るように左下に顔を向けている。とりわけ左足の捻れが臀部を軸とした渦を強調する。それは、表現されていない陰部すなわち空白地帯――「本当のことは言えない」のメタファーである――を「眼」とする「颱風」である。鑑賞者の眼を颱風の眼に引き寄せる仕掛けなのだ。また、画面下部には余白が十分に残されていながら、右脚の太腿よりも太く表現された脹ら脛が中途で斜めにカットしているのも巧妙である。この切断によって、躍動感や不安定さが鮮烈なものとされている。

くちうつしでおしえて
おしえられぬものをくちうつしで
わたしははずかしい姿勢のままでなにも考えていないから
こころを虚ろにしたままだから
あなたたちのこわばったくちびるで
あなたたちのささくれたゆびで
あるかたちないかたち
なぞっていって
わたしの目にうつるのは冬の風景だけ
わたしのくさってゆく器官にきざんでいって
くちうつしで
むななしい愛の遊戯だけでなく
むなしいいたみだけでなく
おしえられるものをおしえてはいけないものを
わたしは脚をひろげ
わたしははだか電球に腰をつきだして
セーターのけだま気にしながら
いつまでもはずかしい器になっているから
セメダインの管になりつづけているから
くちうつしで
びわれたくちびるで
なぞってほしい
わたしの後頭部におくりこんでほしい
わたしの知らない
あなたたちの知ることのない
あたらしいきょうきのことを
あたらしくひきのばされるもののことを
朝吹亮二「詩集<opus>:15」『朝吹亮二詩集』思潮社〔現代詩文庫〕/1992/p.62)

「はずかしい姿勢のままでなにも考えていない」女性たち。「本当のことは言えない」シリーズの女性たちの白いジェッソで覆われた目は、「冬の風景」を映し出す。「冬の風景」とは、白い紙=余白である。「虚ろ」な「こころ」だ。空白(=虚ろなこころ)は読み取ることが出来ない以上、鑑賞者は描線(=身体)をなぞり、言葉を用いることなく発せられる言葉――「本当のことは言えない」のだから――をいつまでも読み取ろうとするだろう。

 詩人は読者に自分と同じように対象を見るように迫る。世界を見るように強い、人間を見るように強いる。自身の視野を強いるのだ。
 支配とはまず自己の身体を支配することだが、この事実を強く意識すること、要するに「自立」することなしに、「孤独」は成立しない。身体を支配するとは、まず手足を支配することであり、それは手足をよく見ること、その働きを凝視することである。手足のこの対象化から、人の手足すなわち身代わりになることを覚え、人を手足すなわち道具にすることがはじまる。
 手足の対象化は、まず手足の延長としての道具――より長い手、より固い拳、より鋭い爪、さらには飛ぶ拳としての礫――を生むが、まったく同じ論理によって奴隷が成立することについては繰り返し述べた。支配の機構はしばしば人体――頭、片腕、手下、手先――になぞらえられるが、これは原始的な比喩ではない。いまも用いられている根源的な比喩だ。(三浦雅士『孤独の発明 または言語の政治学講談社/2018/p.313)

「本当のことは言えない」シリーズでは、片脚の先の切断が特徴的であが、上半身(胴)で切断した女性を描いたドローイングのシリーズでは、画面の右下の隅を切断し、その切断面に沿って作家名を記したものがある。恰も家畜の所有を示すような手法が採用されている。身体の切断とは、家畜化であり、奴隷化のメタファーであろう。

 小林〔引用者註:小林秀雄〕流にいえば、犬も猫も奴隷を持たない、ただ人間だけが奴隷を持つ、これは考えてみればまことに興味深いことであって、畢竟、言語の問題に帰着するのである、ということになる。サディズムマゾヒズムも人間にだけあるというのに似ている。これも言語の問題なのだ。(略)言語を持つことによって、人間は自分を自分の奴隷にしたのである。そうすることによって、他人の奴隷になることもできるようになった。そして人間は、この機微を会得することによって、動物の家畜化に成功したのである。
 自分を自分の奴隷にするということは、家畜にするというのと変わらない。人間は自分を自分の家畜にしたのである。そうすることで他人の家畜になることもできるようになった。逆に、人間を奴隷にし、動物を家畜にすることもできるようになった。
 (略)
 自分を自分の奴隷にすることによってはじめて、自分は自分の主人になることができる。それを主体的というのだ。この仕組を人間は一般に精神と身体の分割によって成し遂げる。むろん、精神が主人で身体は奴隷。思い通りの身体を養うことによって人ははじめてその人になるのである。(略)
 (略)
 田村隆一の詩でもっとも有名なフレーズは「言葉なんかおぼえるんじやなかつた」である。詩集『言葉のない世界』の詩「帰途」の冒頭である。第一連を引く。
言葉なんかおぼえるんじやなかつた
言葉のない世界
意味が意味にならない世界に生きてたら
どんなによかつたか
 背後に小林の思索と同じものが流れていることは歴然としている。「様々なる意匠」に、言葉は「依然として昔乍らの魔術を止めない」と書きしるした小林の思索である。(三浦雅士『孤独の発明 または言語の政治学講談社/2018/p.240-242)

「言葉のない世界」、すなわち「意味が意味にならない世界」に生きていれば、「本当のことは言えない」事態も生じない。だが、そのような世界は人間の世界ではない。作家は、「思い通りの身体を養う」作品を通じて、田村隆一同様、逆接的に、言葉のある世界、すなわち人間を讃えるのである。「あたらしいきょうきのことを/あたらしくひきのばされるもののことを」自らに調教し、「自分を自分の奴隷にする」とともに、「自分は自分の主人になる」。