可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

映画『ゴッドランド GODLAND』

映画『ゴッドランド GODLAND』を鑑賞しての備忘録
2022年製作のデンマークアイスランド・フランス・スウェーデン合作映画。
143分。
監督・脚本は、フリーヌル・パルマソン(Hlynur Pálmason)。
撮影は、マリア・フォン・ハウスボルフ(Maria von Hausswolff)。
美術は、フロスティ・フリズリクソン(Frosti Fridriksson)。
衣装は、ニーナ・グロンランド(Nina Grønlund)。
編集は、ユリウス・クレブス・ダムスボ(Julius Krebs Damsbo)。
音楽は、アレックス・チャン・ハンタイ(Alex Zhang Hungtai)。
原題は、"Volaða land"及び"Vanskabte land"。

 

19世紀後半。デンマーク。ルーカス(Elliott Crosset Hove)が教会にやって来る。誰の姿もない暗い礼拝堂を抜け、階段を上がる。食事を取っていた主任司祭のヴィンセント(Waage Sandø)が卵の殻を剝きながら向かいに坐ったルーカスに告げる。安全に案内してくれる人物が見つかった。天候、川、氷河に精通した地元の人物だ。その人物は対価を求めるでしょうか? 勿論だ。彼の知識が必要になる。教会の建設の力にもなってくれるはずだ。かしこまりました。アイスランド島はデンマークとはまるで異なることを忘れてはならん。人々も気候も冬も全てが違う。冬が来る前に教会を建設しなくてはならんということが分かるな? 初雪の舞う前に教会を建てましょう。卵を食べ終えたヴィンセントはリンゴを剝き始める。火山が噴火して東海岸の多くの人々が避難している。私の旅に影響があるでしょうか? いや、火山の傍を通ることはないだろう。だが川の増水を見込んで川の流れを予測するのは難しい。火山は地球が着衣のまま脱糞したような悪臭を放つそうだ。臭気で正気を失うほどらしい。今は夏なので昼も夜も明るい。経験の無い者にとっては混乱して寝ることを忘れることもある。通訳から注意されました。お前を見ていると、30年前の自分を思い出す。私の方が少し丈夫だったろうが。土地や人々に適応せねばならん。さもなくばせっかくの冒険も無題になる。荷が重いと思うこともあるだろう。実際容易ではない。だからこそお前が選ばれたのだ。伝道のために遣わされた使徒たちのことを思い給え。彼らはやり遂げた。不可能なことはない。
聖堂でルーカスが肖像写真を撮影するため、ヴィンセントの背後に氷海を描いた幕を張る。
アイスランドへ向かう船。暗い船室に木箱が置かれている。
船の甲板にルーカスが写真機を立てる。向かいにはアイスランド人の乗組員が集まって坐っている。レンズを真っ直ぐ見るのが肝心だ。ルーカスのデンマーク語を通訳(Hilmar Guðjónsson)が逐一アイスランド語に翻訳して船員に伝える。じっとしていなくてはならない。まるで死者のように。船乗りたちが笑う。ルーカスがレンズの蓋を外し、数を数える。顔に白粉を塗った男たちが黙ってまじまじとレンズを見詰める。
船室で湿板写真に用いるガラス板や薬瓶を仕舞いながらルーカスが通訳に尋ねる。本は何て言う? 単数がボック、複数がバイクル。ボック、バイクル。現地の人みたいですね。黙れ。そうだ、黙れは何て言う? 言い方はいろいろありますよ。悪天候を説明する言葉が沢山あるように。
船は上下に大きく揺れる。船尾に並んで腰掛けるルーカスに通訳が雨に関するアイスランド語を教える。リーグニク。スッディ。ウルコマ。ウービィ。ヴァシュエーデス。とても全ては覚えられない。ウーハトリスニンク。デムパ。もういい。通訳は次々とアイスランド語の単語を口にする。全て雨の言葉なのか? そうです。ルーカスは覚えた単語を通訳に確認する。リーグニク(雨)。バトゥール(船)。プレストゥル(司祭)。マードゥル(男)。マードゥル、オク、プレストゥル(男の司祭)。
2人の漕ぎ手の小舟に乗り換えたルーカスと通訳が岸へ向かう。写真の機材を背負ったルーカスは浜辺を歩き、崩れ落ちるように坐り込む。ふと下に目を遣ると、海水に浸る砂の中に星のような葉が1枚覗いていた。ルーカスが手を伸ばす。
床下で眠っているルーカスの顔を犬がなめ回し、駆け廻る。思わずルーカスは微笑み、犬を撫でてやる。
雨の中、馬方たちが馬に荷物を積んでいる。親方のラグナル(Ingvar Sigurdsson)が書籍の量に驚く。誰が読むのかね? 司祭ですよ。ラグナルが馬と積荷を見て廻る。十字架を載せた馬がいる。どれくらい重いんだ? 何とかしますよ。分散させないと進みが遅くなる。半分に切っちまえ。生憎のこぎりがありません。

 

19世紀後半。デンマーク。ルーカス(Elliott Crosset Hove)は主任司祭のヴィンセント(Waage Sandø)からアイスランドに教会を建設する使命を受けた。湿板写真の技術を持つルーカスは、アイスランド島の踏査のため海路で直接目的の集落を目指さず、島を陸路で横断する旅程を取る。そのためヴィンセントにより地元民のラグナル(Ingvar Sigurdsson)が案内に雇われた。ルーカスは通訳(Hilmar Guðjónsson)とともにアイスランド人の船でアイスランドに渡る。馬の扱いにも現地の環境に疎いにも拘わらずルーカスは自分の要望をラグナルに押し通そうとする。他方、デンマーク語が分からないことをいいことにラグナルはルーカスの要望を無視して我流を貫く。ルーカスの一行に深い川、峻嶮な山岳が立ちはだかる。疲労に加え、次第に厳しさを増す寒さがルーカスの気力を殺いでいく。

(以下では、冒頭以外の内容についても言及する。)

19世紀後半、デンマーク人司祭が伝道のためにアイスランド島を横断する物語。アイスランドで発見された、デンマーク人司祭が撮影した7枚の湿板写真に触発されて作られたことが冒頭で示される。
主任司祭のヴィンセントからアイスランド島に教会建設を託されたルーカスは、アイスランドの環境にも馬の扱いにも不慣れだが、自らの判断を押し通そうとする傲岸さがある。アイスランド島の案内を務めるラグナルはデンマーク語を解さず、ルーカスの話に聴く耳を持たない。通訳が介在しない限り、両者は言いっ放しとなる。
湿板写真の撮影ために写真機のレンズを向けることは、ルーカスが眼差しの主体であることを暗示する。すなわちルーカスはアイスランドの支配者として君臨しようとするのである。もっとも、厳しい自然環境に適応できないルーカスは支配者たることはできない。通訳とルーカス自らの落馬が権威の失墜の象徴である。
ラグナルが聞いた――と言っているが本人の?――ウナギの夢の話は、ラグナルもまたかつて支配者たらんとしてその地位を失ったことを暗示する。
ルーカスは空虚な存在であり、その空隙を満たそうとして欲望がある。建設する教会が空虚なルーカスの象徴である。ルーカスは教会が完成していないとの理由で新郎新婦に婚姻の祝福を与えないし、完成した教会をある行為のために用いてしまう。
生命は土に還ることが九相図的なイメージにより描かれる。
雨を含んだふかふかとした地衣類が印象的。

展覧会『伊藤久三郎展』

展覧会『伊藤久三郎展』を鑑賞しての備忘録
バンビナートギャラリーにて、2024年3月22日~4月13日。

京都における抽象画の先駆者・伊藤久三郎(1906-1977)を紹介する企画。

伊藤久三郎は1928年、京都市立絵画専門学校で日本画を学んだ後に上京し、一九三〇年協会洋画研究所で洋画を学ぶ。1929年に《ハムのある静物》が初入選して以降、二科展に出品する。1939年には九室会の結成に参加した。

 古賀春江を失った二科会に新風をもたらしたのは、二科展の一室に出品作をまとめて展示された画家たちであった。1933年の第20回展以降、抽象やレアリスム傾向の作品が「第九室」に一括して展示されるようになる。古画は、前衛芸術を標榜する「アヴァンガルド洋画研究所」の設置を切望していた。
 福沢一郎の『シュールレアリズム』に「二科のアヴアンギヤールドの画家」として苗が挙げられたのは、東郷青児と高田力三、そして伊藤久三郎と高山宇一である。伊藤や高山は1933年に、高井貞二ら二科会の新進画家とともに「新油絵」を結成していた。東郷は「所謂シユールレアリズムの応募作品」が年々増加する現状に対して「あの部屋に並べられる作品は相当吟味されなければならない」と述べいている。第九室には「日本画壇のアヴアンが・ギャルド」としての期待が高まっていた
 吉原治良と山口長男、峰岸義一、山本敬輔、広幡憲、高橋迪章、桂ユキ子(ゆき)の7名を発起人として前衛傾向を示す画家の結集を提唱し、1938年10月、ついに二科会の内部に「九室会」が発足する。発起人のほか斎藤義重や伊藤、井上、鷹山を含む29名が参加し、東郷と藤田嗣治が顧問に迎えられた。
 1939年5月、高井や伊藤研らが新たに加わり第1回九室展が開幕する。機関誌『九室』1号を発行し、大阪でも第1回展が開催された。(略)
 1940年3月、第2回展の開催とともに『九室』2号を発行し、再び大阪巡回展が開かれる。(略)戦中の九室会としての活動としては、1943年5月の第3回展が最後となる。抽象とシュルレアリスムが、対立ではなく差異として一室に共存していた第九室の可能性は、その双方を否定する「不気味」な時局によって押し流されていく。(早見豊・弘中智子・清水智世編著『『シュルレアリスム宣言』一〇〇年 シュルレアリスムと日本』青幻舎/2024/p.136〔清水智世執筆〕)

《パン其の他》(1000mm×803mm)(1930)は、コンクリートの打ちっぱなしか灰色の壁の部屋にやや明るい灰色のテーブルがあり、その上に皿に載せたバゲット、背の高い瓶、白い布を敷いた蓋付きの鍋、さらに青い題名が入った洋書が並べられている。床は黄土色を混ぜた灰色で、壁、テーブルと同系色である。瓶、バゲット、洋書、布から床へととまるでミルクが瓶から流れ落ちるように連なっていく。左上の開口部からは、遠くの岩山と雲とを望む。空もくすんだ水色で、室内と室外との境はそれほど明瞭ではない。ところで、板橋区立美術館で開催中の「シュルレアリスムと日本」展に出展されている渡辺武の《風化》(1939)は、灰色の壁、市松模様の床でミシンに向かう女性を描いた作品である。花柄のワンピースを縫う女性は作業をするには華やかに思える紫色のワンピースを身に付け、指先には赤いマニキュアが塗られている。伊藤の《パン其の他》に比べるとかなり鮮やかである。もっとも、ミシンの木製の台の一部は先が我、俯く女性――表情は見えない――の髪は自らの壁の壁に溶けていく。ミシンから垂下がるワンピースによって視線を床に向けると、なぜか床には青空を背にした山の光景が、地面に出来た水溜まりのように映っている。女性の背後の狭い扉は開かれ、茶色い大地が空を背に広がるのが見える。2つの作品には10年の開きがあるので――また渡辺が帝国美術学校に入学するのは1934年のことなので――渡辺は伊藤の作品を目にしてはいないだろうが、渡辺の《風化》は人や物や室内外の境界が不明瞭に連なっている点で伊藤の《パン其の他》と同じ主題を扱っているようである。それは不気味な時局によって全てが灰色に覆われていく世界――例えば、国家総動員法の施行は1938年――を予兆ないし体験である。

《パン其の他》の隣には、40年後に描かれた《1st trial》(909mm×727mm)(1970)という作品が掛けられている。銀を背景に灰色の円と黄の縁を持つ黄土色の三角形を僅かに中心から外れた位置に縦に並ぶ。円には縦横の線が崩れた格子状に引かれ、白や赤の矩形が蠢くように散らされている。三角形は底辺がやや傾いで、不安定さを感じさせる。《1st trial》は抽象絵画であり、一見すると画題通り「パン其の他」を描いた作品とは似ても似つかない。だが、《パン其の他》の「灰色」の画面、床の「黄土色」、鍋や皿の「円」、窓外の山と雲の作る45度、45度、90度の「三角形」という色やモティーフは《1st trial》と共通している。《1st trial》は、《パン其の他》で行った最初期の試み(≒1st trial)、すなわち境界を溶解させる実験を、40年という時を隔てた別の作品との間で再度行って見せているのだ。不安定な三角形は、経済成長一辺倒となった社会のメタファーではないか。破綻はすぐ近くに迫っている、と。

展覧会 佐藤絵莉香個展『Home ground』

展覧会『佐藤絵莉香「Home ground」』を鑑賞しての備忘録
長亭GALLERYにて、2024年3月23日~4月7日。

工場地帯のハウス、地方競馬のホースなど、作家の地元である川崎の臨海部をモティーフにした絵画で構成される、佐藤絵莉香の個展。

《TIME》(1940mm×1303mm)には疾走する馬を操る騎手の姿が画面一杯に描かれている。競走馬はキャラクター化される街のモティーフであり、騎手は作家自身である。人馬一体となって地元を駆ける。

《KEIHIN》(530mm×410mm)は、茂みを背景に舌を出す犬の顔を大きく表わした作品。青空に黄の文字で"KEIHIN"と京浜工業地帯であることが示される(犬の顔の脇に見える下段の2つのNは不明。JFEの前身企業の1つは「日本鋼管」だが時間を遡り過ぎることになってしまう)。犬の顔の中央に縦に伸びる赤と白のラインは、昼間障害標識となっている煙突で、炎を吐き出していることからフレアスタックが行われているのだろう。夜、灯りの点いた部屋が点在するマンション(?)に顔を重ねた《OKAERI》(333mm×242mm)や、家並に輪郭線の一部を"J"の文字で表わした犬の顔を重ねた《ジェイ》(410mm×273mm)、三角形の切妻屋根の家に丸の目や弧の口を描き入れてキャラクター化した「House soldier」シリーズ(各273mm×220mm)など、街の光景を童話の世界に変えてみせる。また、色取り取りの積木が家並のように積み上がる中黙々と作業する猫の姿を描いた《つみき工場》(1167mm×727mm)という童話の一場面のような作品もある。とりわけ作家の創作姿勢が明瞭なのは、《Light catcher》(1620mm×1120mm)である。鳥の絵が落書きされたコンクリートの壁を背景に、目を付けてキャラクター化された蜘蛛の巣が2つ並んでいる。蜘蛛の巣には青、赤、黄の四角形や円が無数に散らされている。作家は、誰も目を向けることのない街の片隅の、水滴が附着した蜘蛛の巣に、光を捉える存在を見出したのである。

「でもとにかくさ、だだっぴろいライ麦畑みたいなところで、小さな子どもたちがいっぱい集まって何かのゲームをしているところを、僕はいつも思い浮かべちまうんだ。何千人もの子どもたちがいるんだけれど、他には誰もいない。つまりちゃんとした大人みたいなのは一人もいないんだよ。僕のほかにはね。それで僕はそのへんのクレイジーな崖っぷちに立っているわけさ。で、僕がそこで何をするかっていうとさ、誰かがその崖から落ちそうになる子どもがいると、かたっぱしからつかまえるんだよ。つまりさ、よく前を見ないで崖の方に走っていく子どもなんかがいたら、どっからともなく現れて、その子をさっとキャッチするんだ。そういうのを朝から晩までずっとやっている。ライ麦畑のキャッチャー、僕はただそういうものになりたいんだ。たしかにかなりへんてこだとは思うけど、僕が心からなりたいと思うのはそれくらいだよ。かなりへんてこだとはわかっているんだけどね」(J.D.サリンジャー村上春樹〕『キャッチャー・イン・ザ・ライ白水社/2006/p.293)

作家は工業地帯で光を捕まえる人であった。

映画『ブルックリンでオペラを』

映画『ブルックリンでオペラを』を鑑賞しての備忘録
2023年製作のアメリカ映画。
102分。
監督・脚本は、レベッカ・ミラー(Rebecca Miller)。
撮影は、サム・レビ(Sam Levy)。
美術は、キム・ジェニングス(Kim Jennings)。
衣装は、マリナ・ドラジッチ(Marina Draghici)。
編集は、サビーヌ・ホフマン(Sabine Hoffman)。
音楽は、ブライス・デスナー(Bryce Dessner)。

 

オペラハウスで行われているパーティーカウンターテナーのオペラ歌手(Anthony Roth Costanzo)がビゼーの「ハバネラ」を歌う中、黒いコートを着たスティーヴン・ローデム(Peter Dinklage)が参加者を避けながら出口へ向かう。オペラの作曲家であるスティーヴンの資金調達が目的であるにも拘わらず、両手をポケットに突っ込み下を見たまま歩き、声を掛けられても反応しない。夫を探しに来た妻のパトリシア・ジェサップ=ローデム(Anne Hathaway)が観葉植物の影にいるスティーヴンを目敏く見つけ出す。またこんなこと。落ち着くんだ。財団の理事長ダフティン・ハヴァフォード(Gregg Edelman)が見えてるの。挨拶した方がいいわ。できないよ。作業が進捗してるとだけ伝えて。帰りたい。仕事を続けたくないの? パトリシアがハヴァフォードを呼ぶ。初めまして、パトリシア・ジェサップ=ローデムです。夫を紹介させて下さい。スティーヴン・ローデムです。遂に念願が叶い、お目にかかることができました。長年あなたの作品を愛好してきました。どうも。こちらはフランク・ホール(Bryan Terrell Clark)。最近加わった理事です。よろしく。新作の進捗状況はいかがです? 大丈夫。2週間後に初稿を拝見したいと話してましてね。
ティーヴンとの会話を終えたダフティンがフランクに説明する。5年前、スティーヴは精神を病んでしまってね。失踪したんだ。曲が書けなくなりひどい鬱になった。それにしても、彼女がセラピストなら私も是非結婚したいね。
ジュリアン・ジェサップ(Evan Ellison)は年下の恋人テレザ・ジスコウスキー(Harlow Jane)と自室で朝を迎えた。ベッドの上でキスを交わし、見つめ合う。私たち変わったかな? ジュリアンがインスタントカメラを取り出し、ベッドに横になって2人の姿を撮影する。
南北戦争の再現劇に参加したトレイ・ラファ(Brian d'Arcy James)が帰宅する。裏庭ではテレザがトランポリンで、ターニャ(Tamya Taylor)とミランダ(Grace Slear)がボールで遊んでいた。エプロンを着けたトレイが勝手口から出て、大音量で流れる音楽を止める。ラファさん、こんにちは。戦いはどうでした? 上手くいったよ。気にかけてくれるなんてありがたい。マグダレーナ・ジスコウスキー(Joanna Kulig)が食材を運んで来て、トレイがバーベキューコンロで調理を開始する。誰が勝ったの? 面白いことを言うな。君たちも参加したらいい。歴史を学ぶべきだ。ボンネットを被ったりして。パイ食べ放題だよね? マスケット銃をくれるなら行ってもいい。そういや今日はマスケット銃の銃身が汚れてたな。当時は毎晩掃除されていたんだがな。
皆が食卓を囲む。トレイがパンは右回りで回してくれとテレザに言う。いいけど、何で? いつも右側に回すだろ。戸惑わずに済む。そんな格好で寒くないのか? 別に。上着を着なさい。見てる方が寒い。明日は早朝に法廷に行く。6時45分に出る。君も仕事か? トレイがマグダレーナに尋ねる。テレザの弁当は今晩用意しておくわ。大きな事件なの? 親による誘拐事件だよ。親権のない母親が息子をアーカンソーに連れ去ったんだ。父親が訴えたんだ。どうして見つかったの? この手の訴えなら驚くほど早く道路が封鎖されるんだ。
ティーヴがピアノに向かって曲を捻り出そうと弾いてみるが上手くいかない。できない。またですか! 隣で台本作家のアントン・ガトナー(Aalok Mehta)が叫ぶ。この案を気に入ってたじゃないですか。気に入っていたよ。もう我慢の限界だ。スティーヴ、伝えなければならないことがある。何だ? オファーがありました。誰から? レイフ・ガンドル(Samuel H. Levine)。レイフ・ガンドルだと? 私を嫌っているのか?

 

オペラの作曲家スティーヴン・ローデム(Peter Dinklage)は5年前に鬱病に罹り作曲から遠ざかった。治療を担当した精神科医パトリシア・ジェサップ=ローデム(Anne Hathaway)と結婚し、パトリシアの連れ子ジュリアン・ジェサップ(Evan Ellison)と3人で暮らし、再起を図っている。パーティーで新作に資金を提供する財団の理事長ダフティン・ハヴァフォード(Gregg Edelman)から2週間後に初稿を見せてもらいたいと要求されるが、アントン・ガトナー(Aalok Mehta)の台本に興味を失い新作は頓挫。愛想を尽かしたアントンにレイフ・ガンドル(Samuel H. Levine)のもとに去られてしまった。パトリシアから羽目を外して見知らぬ人と交流するよう背中を押されたスティーヴンは、飼い犬リーヴァイとともに散歩に出かける。スティーヴンは立ち寄ったバーで朝から飲んでいたカトリーナトレント(Marisa Tomei)に声をかけられる。彼女は親の曳船を引き継いだ船長で、スティーヴンは船に招かれる。寝室に通されたスティーヴンはパトリシアから恋愛依存症であると告白された。
テレザ・ジスコウスキー(Harlow Jane)は2歳年上のジュリアンと交際していた。テレザの母マグダレーナ・ジスコウスキー(Joanna Kulig)は妊娠のために学業を遣り果せなかったことを悔いて娘の恋愛に気を揉んでいたが、清掃婦として働くパトリシアの家で娘に恋人がいることを知る。マグダレーナの同棲相手でテレザの義父であるトレイ・ラファ(Brian d'Arcy James)はテレザから紹介されたジュリアンを快く思わなかった。

(以下では、冒頭以外の内容についても言及する。)

スランプに陥ったオペラ作曲家スティーヴンはバーで出会った曳船の船長カトリーナとの情事を題材に新作オペラ――船に男性を誘い込み、拒まれたために斧でその首を切断する魔女の物語――の創作に成功する。頭部の切断という行為に着目すれば、ルーカス・クラナッハ(Lucas Cranach)やグスタフ・クリムト(Gustav Klimt)が描いたユディトを、愛を拒まれた相手の首を手に入れる点ではオスカー・ワイルド(Oscar Wilde)のサロメを連想させる。
カトリーナはスティーヴンを曳航する曳船そのものである(スティーヴンの飼い犬リーヴァイもまたリードを手にする主人を引っ張る、曳船のメタファーである)。スティーヴンは目的の場所までカトリーナに導かれることになる。。
トレイ・ラファは法廷速記者で、弁護士並に法律に精通し、高卒ながら大卒者よりも高給取りだと自負する。義理の娘テレザは間違いを認めない人物だと評価している。彼の速記や歴史知識はどれほど正確なものかは定かではない。彼は枠組みに囚われて生きている。家と裁判所や南北戦争の再現劇との間を自動車で行き来する。対照的なのがカトリーナである。カトリーナ号が融通無碍に海を渡るように、カトリーナもまた自由に世を渡る。
ティーヴはトレイと同じく、思考の型に囚われていた。魔女役のクロエ(Isabel Leonard)にカトリーナのイメージを再現させようと必死になるあまり、クロエの演技を否定してしまい、演出家のスーザン(Judy Gold)によってリハーサルから退場させられることになる。スティーヴはカトリーナと交流するうちに呪縛から解放される。無重力スペースオペラを生み出すのがその象徴である。

展覧会 堀込幸枝個展『明るい水』

展覧会『堀込幸枝「明るい水」』を鑑賞しての備忘録
ギャラリー椿にて、2024年3月23日~4月6日。

水槽の水を描く表題作「明るい水」シリーズを始め、水をテーマとした油彩画で構成される、堀込幸枝の個展。

《明るい水 1》(1620mm×1305mm)には淡い紫の画面に2つの直方体のガラス製と思しき水槽が並ぶのが正面よりやや左側から描かれる。右側の水槽ではそれぞれの水槽には半分よりやや高い位置にまでやや黄緑に濁った水が入っている。右側の水槽には何かは分からないが白いものが水面近くに浮く。左側の水槽には隣の水槽の白いものが作る影か隅に映る。画面全体が靄がかかるように霞む。濁った水は「明るい水」とは言い難い。ちょうど右側の水槽では角が作る線が光の屈折により水面を挟んで連続しないように、あるいは右側の水槽の白い何かの影が左側の水槽に現われるように、ズレている。恐らくは作家の関心が光の屈折に象徴される、水による視覚効果にこそある。
実際、《雨との距離 1》(320mm×410mm)では、縦の方向の筆運びにより淡い群青ないし灰青で塗られた画面の中央に、黄色や赤が浮かび上がる。人物か洗濯物か、その他の何かは分からない。ただ雨が降る中で――さらに窓越しであるかもしれない――モティーフを捉えたものだろう。ここでも水によってもたらされる視覚効果に関心が向けられている。また、本展作品作品中で一番明るい色遣いの《湿度といろ 1》(380mm×455mm)では、緑の濃淡により草原と奥の茂みとが、恰も水をたっぷり含ませて描いた水彩画のような趣で、ぼんやりと表わされている。雨が降っているにしては明るさがあり、画題から空気中の水蒸気の効果を誇張して表現したのかもしれない。ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー(Joseph Mallord William Turner)の《湖に沈む夕日(Sun Setting over a Lake)》(1840)、さらには等伯の《松林図屏風》に連なる試みではないか。
翻って、《明るい水 1》は紫色の画面に緑味を帯びた水を描いた水槽を描いた作品である。淡い紫と緑とは、クロード・モネ(Claude Monet)がジヴェルニーに水の庭を造って描いた「睡蓮」連作の一部に見られる色の組み合わせを想起させる。水槽も池も人工的な水の環境である。作家が表わした模糊とした白い何かは、モネの育てた睡蓮に比せられる、人工環境下で生まれる生命を表わしたのかもしれない。それは希望の光であり、それを育む水こそ「明るい水」である。そこには必然的に影が随伴する。