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芸術鑑賞の備忘録

展覧会『伊藤久三郎展』

展覧会『伊藤久三郎展』を鑑賞しての備忘録
バンビナートギャラリーにて、2024年3月22日~4月13日。

京都における抽象画の先駆者・伊藤久三郎(1906-1977)を紹介する企画。

伊藤久三郎は1928年、京都市立絵画専門学校で日本画を学んだ後に上京し、一九三〇年協会洋画研究所で洋画を学ぶ。1929年に《ハムのある静物》が初入選して以降、二科展に出品する。1939年には九室会の結成に参加した。

 古賀春江を失った二科会に新風をもたらしたのは、二科展の一室に出品作をまとめて展示された画家たちであった。1933年の第20回展以降、抽象やレアリスム傾向の作品が「第九室」に一括して展示されるようになる。古画は、前衛芸術を標榜する「アヴァンガルド洋画研究所」の設置を切望していた。
 福沢一郎の『シュールレアリズム』に「二科のアヴアンギヤールドの画家」として苗が挙げられたのは、東郷青児と高田力三、そして伊藤久三郎と高山宇一である。伊藤や高山は1933年に、高井貞二ら二科会の新進画家とともに「新油絵」を結成していた。東郷は「所謂シユールレアリズムの応募作品」が年々増加する現状に対して「あの部屋に並べられる作品は相当吟味されなければならない」と述べいている。第九室には「日本画壇のアヴアンが・ギャルド」としての期待が高まっていた
 吉原治良と山口長男、峰岸義一、山本敬輔、広幡憲、高橋迪章、桂ユキ子(ゆき)の7名を発起人として前衛傾向を示す画家の結集を提唱し、1938年10月、ついに二科会の内部に「九室会」が発足する。発起人のほか斎藤義重や伊藤、井上、鷹山を含む29名が参加し、東郷と藤田嗣治が顧問に迎えられた。
 1939年5月、高井や伊藤研らが新たに加わり第1回九室展が開幕する。機関誌『九室』1号を発行し、大阪でも第1回展が開催された。(略)
 1940年3月、第2回展の開催とともに『九室』2号を発行し、再び大阪巡回展が開かれる。(略)戦中の九室会としての活動としては、1943年5月の第3回展が最後となる。抽象とシュルレアリスムが、対立ではなく差異として一室に共存していた第九室の可能性は、その双方を否定する「不気味」な時局によって押し流されていく。(早見豊・弘中智子・清水智世編著『『シュルレアリスム宣言』一〇〇年 シュルレアリスムと日本』青幻舎/2024/p.136〔清水智世執筆〕)

《パン其の他》(1000mm×803mm)(1930)は、コンクリートの打ちっぱなしか灰色の壁の部屋にやや明るい灰色のテーブルがあり、その上に皿に載せたバゲット、背の高い瓶、白い布を敷いた蓋付きの鍋、さらに青い題名が入った洋書が並べられている。床は黄土色を混ぜた灰色で、壁、テーブルと同系色である。瓶、バゲット、洋書、布から床へととまるでミルクが瓶から流れ落ちるように連なっていく。左上の開口部からは、遠くの岩山と雲とを望む。空もくすんだ水色で、室内と室外との境はそれほど明瞭ではない。ところで、板橋区立美術館で開催中の「シュルレアリスムと日本」展に出展されている渡辺武の《風化》(1939)は、灰色の壁、市松模様の床でミシンに向かう女性を描いた作品である。花柄のワンピースを縫う女性は作業をするには華やかに思える紫色のワンピースを身に付け、指先には赤いマニキュアが塗られている。伊藤の《パン其の他》に比べるとかなり鮮やかである。もっとも、ミシンの木製の台の一部は先が我、俯く女性――表情は見えない――の髪は自らの壁の壁に溶けていく。ミシンから垂下がるワンピースによって視線を床に向けると、なぜか床には青空を背にした山の光景が、地面に出来た水溜まりのように映っている。女性の背後の狭い扉は開かれ、茶色い大地が空を背に広がるのが見える。2つの作品には10年の開きがあるので――また渡辺が帝国美術学校に入学するのは1934年のことなので――渡辺は伊藤の作品を目にしてはいないだろうが、渡辺の《風化》は人や物や室内外の境界が不明瞭に連なっている点で伊藤の《パン其の他》と同じ主題を扱っているようである。それは不気味な時局によって全てが灰色に覆われていく世界――例えば、国家総動員法の施行は1938年――を予兆ないし体験である。

《パン其の他》の隣には、40年後に描かれた《1st trial》(909mm×727mm)(1970)という作品が掛けられている。銀を背景に灰色の円と黄の縁を持つ黄土色の三角形を僅かに中心から外れた位置に縦に並ぶ。円には縦横の線が崩れた格子状に引かれ、白や赤の矩形が蠢くように散らされている。三角形は底辺がやや傾いで、不安定さを感じさせる。《1st trial》は抽象絵画であり、一見すると画題通り「パン其の他」を描いた作品とは似ても似つかない。だが、《パン其の他》の「灰色」の画面、床の「黄土色」、鍋や皿の「円」、窓外の山と雲の作る45度、45度、90度の「三角形」という色やモティーフは《1st trial》と共通している。《1st trial》は、《パン其の他》で行った最初期の試み(≒1st trial)、すなわち境界を溶解させる実験を、40年という時を隔てた別の作品との間で再度行って見せているのだ。不安定な三角形は、経済成長一辺倒となった社会のメタファーではないか。破綻はすぐ近くに迫っている、と。