展覧会『広がるコラージュ』を鑑賞しての備忘録
目黒区美術館〔展示室A〕にて、2024年2月17日~3月24日。
身近にある様々な素材を切り取り、組み合わせる手法であるコラージュは、パブロ・ピカソやジョルジュ・ブラックにより油彩画に布や紙片が貼り付けられた作品が制作されたのをきっかけに、従来の芸術表現を問い直す機運の中で再発見される。次第に多様な広がりをもって制作に用いられるようになり、現在では、その発想を読み取れる作品が数多く存在する。目黒区美術館の所蔵品からコラージュに関連した作品を特集陳列する企画。展示室Aを会場に「色、かたち、デザイン」、「異質なイメージの組み合わせ」、「異質なテクスチュアの組み合わせ」の3章で構成される。なお、展示室B・展示室Cでは飯田善國を特集する別企画を開催。
で、実際にエルンストがやったのはこういうことです。たまたま19世紀後半から第一次世界大戦前にかけてのベル・エポックの銅版画の挿絵とか、商品カタログの図版とか、科学の本や図鑑などのイラストのようなもの、いずれも銅版画や古拙な写真ですが、そういう作者がだれとも知れないような既成の図版をながめていると、たとえば商品カタログに描かれている靴なら靴のようなものが、幻覚のように自分にとりついてきたといっています。
ブルトンの「自動記述」の場合とちょっと似た表現があるんですけれども、あるいはエルンストもそれに似せて書いたのかもしれない。ともかく書物からうかびあがるようにして、既成の図版がチラチラ自分につきまとい、ある幻覚をよびおこした、と。そのときエルンストは、それぞれのイメージがまったく自発的に、思いかげなくたがいに結びつきあいはじめるということを、実際に体験したわけです。自分の目の前でそういうオブジェたちが、それぞれ別のなりたちの図版たちが、おたがいに結びついたり離れたりしはじめた。そこで彼はそれらをハサミで切り取って、本来は関係のない別のイメージ同士をノリで貼りあわせてみます。それが「コラージュ」のいちばん最初の実験です。
(略)要するに、既成の図版を切りとってきて、それを別の図版のなかに貼りこんでできあがる作品がまずコラージュの基本的なもので、『百頭女』の百数十枚の絵もすべてそれによっているわけですね。
それにしても、コラージュは不思議なものです。一件簡単で、だれがやったって似たようなものができそうに思えるけれども、じつはそうじゃありません。やっぱりエルンストのつくったコラージュがいちばんいいですね(笑)。それは、もちろんエルンストの主観があらわれているからじゃなくて、そもそもコラージュが何かということがちいちばんみごとにとらえられているからだとおもいます。つまり、これも国語辞典が日本における「シュール」の定義でいっているような、主観にもとづいた勝手な幻想をつくるために既成の図版を利用するというものではありません。そんなふうだったらそれは単にシュジェ(主体)の芸術ですけれども、エルンストが見いだしたのはオブジェ(客体)のほうでした。
「オブジェクティフ」といえば「客観的」という意味ですが、ここでは客観性が問題になるのは、つまり、自分の目の前で、図版の部分同士が自発的に結びつく現象に立ちあったということです。既成の図版のXとYがを自分が主観的に結びつけたというのではなく、それらがおたがいに結びついていくる状況を自分が観客のように見た、とエルンストはいっているんです。観客のように客観的に見ながら、創造に参加する結果になったということです。
そのとき、エルンストはおもしろい考えにとりつかれました。これまで近代人は、絵画、美術作品は人間主体が創造するもので、人間というのは創造する力をもっているという一種の神話を信じていたけれども、それはウソではないかという。ランボーの考えたことと似ています。そして、創造するんじゃなくて、創造されるのだという。「オン(on)」という不定の何かによって創造される何かに立ちあうのが画家なんだというふうに、まるで錬金術師みたいなことを考え始めたわけです。
その体験を通じて、コラージュはエルンストによってさまざまな実践と思考に高められ、その後のシュルレアリスム絵画のひとつの流れになりました。(巖谷國士『シュルレアリスムとは何か』筑摩書房〔ちくま学芸文庫〕/2002/p.75-78)
エルンストの言う「オブジェクティフ」、すなわち作者は創造の主体ではなく立会人であるといった立場がコラージュの根幹にある。芸術家や理性を主体とする表現の問い直しが目論まれていた。だが会場に並ぶ作品にはその類の作品はほぼ見られない。新聞などの印刷物だけでなく、木片や、金属類などが含め画面に接着させるパピエ・コレ(papier collé)ではあるが、異物の導入によりコントロールしきれない不自由さを作品に取り込もうとしているに過ぎない。和紙や紙粘土を使って支持体ごとの作り変えすら行われている。ウジェーヌ・アジェの写真、福沢一郎 《大砲のある静物》や柄澤齊の「肖像」シリーズなどパピエ・コレを用いない作品を「異質なイメージの組み合わせ」として無理矢理コラージュ展の中に組み込んでいる。コラージュでは無く、デペイズマン(「本来あるべき場所から物あるいはイメージを移して、別のところに配置したときにそこに驚異が生まれるということ。巖谷國士『シュルレアリスムとは何か』筑摩書房〔ちくま学芸文庫〕/2002/p.85参照)である(まさかその組み込みこそデペイズマンというわけではあるまいが)。結果として「異質なテクスチュアの組み合わせ」に奇を衒うために異物を画面に取り込むばかりの張りぼてが浮かび上がってしまった。異物を絵画に持ち込む美術史的意義が詳らかにされると良かったのではないか。