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芸術鑑賞の備忘録

展覧会『分離派建築会100年展 建築は芸術か?』

展覧会『分離派建築会100年展 建築は芸術か?』を鑑賞しての備忘録
パナソニック留美術館にて、2020年10月10日~12月15日。

西洋の建築様式に代わる新しい建築を個人の「芸術意欲」に基づいて生み出そうとした「分離派建築会」を紹介する企画。
西洋の建築様式を受容した後、日本独自の建築のあり方が模索された、分離派建築会誕生前夜を扱う「1. 迷える日本の建築様式」、分離派建築会を旗揚げした東京帝国大学建築学科出身者の卒業制作を展示する「2. 大正9年『我々は起つ』」、構造と形態の一体的な造形物を可能とした鉄筋コンクリート建築の可能性を彫刻に探った例を紹介する「3. 彫刻へ向かう『手』」、震災により加速した郊外開発を背景とした動きを辿る「4. 田園へ向かう『足』」、構造と美しさの両立の追求を建設された建造物に見る「5. 構造と意匠のはざまで」、合理主義・機能主義のモダニズム建築の流入期の反応を紹介する「6. 都市から家具、社会を貫く『構成』」、分離派建築会としての活動を終えた後の動向を追う「7. 散会、それぞれのモダニズム建築」の7章で構成。
展覧会タイトルの「ブンリ派」の文字の独特な形は、分離派建築会第5回作品展の会場入口に掲げられた看板から採られている。

【1. 迷える日本の建築様式】
明治建築の三大巨匠と言われる辰野金吾、妻木頼黄、片山東熊らの様式建築、辰野の教え子である伊東忠太武田五一によって紹介された西洋の新しい造型運動「セセッション」などが紹介される。美術偏重の建築動向に対し構造の重要性を指摘した辰野、建築は芸術ではないと主張した野田俊彦。建築が芸術であるとする立場をとり、豊多摩監獄(1915)を設計した後藤慶二は1919年にスペイン風邪のために36歳で死去した。分離派建築界誕生前の建築界の動向を写真や出版物などで紹介。

【2. 大正9年「我々は起つ」】
1920年東京帝国大学建築学科を卒業した石本喜久治堀口捨己、山田守、瀧澤眞弓、森田慶一、矢田茂は「分離派建築会」を名乗り、日本初となる卒業設計の自主展示を企画した。

分離派建築會の宣言
 我々は起つ。
過去建築圏より分離し、總の建築をして眞に意義あらしめる新建築圏を創造せんがために。
 我々は起つ。
過去建築圏内に眠つて居る總のものを目覺さんために、溺れつゝある總のものを救はんがために。
 我々は起つ。
我々の此理想の實現のためには我々の總のものを愉悦の中に獻げ倒るゝまで、死にまでを期して。
 我々一同、右を世界に向つて宣言する。
分離派建築會

石本喜久治の『涙凝れり(ある一族の納骨堂)』、堀口捨己の『精神的な文明を来らしめんために集る人人の中心建築への試案』、瀧澤眞弓の『山岳倶楽部』、矢田茂の『職工長屋』、山田守の『国際労働協会』、森田慶一の『屠場』の図面が紹介されている。

【トピック1. 平和記念東京博覧会、分離派建築会のデビュー】
東京府第一次世界大戦終結を祝して上野公園で『平和記念東京博覧会』を開催(1922年3月10日~7月31日)。当時の全国人口5596万人に対し、1103万人の来場者があった。工事顧問の伊東忠太は、東京府設営建物の設計のうち「意匠考案」の部分を若手に託した。瀧澤眞弓は工業館・化学工業館、染織別館、建築館、丘上の音楽堂を、堀口捨己は電気工業館、動力・機械館、航空・交通館、鉱産・林業館、池塔を、1921年白木屋で開催された第2回展より分離派に参加した蔵田周忠は丘上の郵便局、丘下の音楽堂を担当。会場案内図やデザイン思案、模型で紹介。

【3. 彫刻へ向かう「手」】
それまでの様式建築では柱や壁の表面に装飾が施され、構造と形態とが分離した関係にあった。それに対し鉄筋コンクリートは、構造と形態との一体化の可能性を秘めていたものの、むしろ機能主義のモダニズム建築への道を拓くものであった。分離派建築会の面々は、当時ヨーロッパで活躍中の彫刻家たちの作品に芸術としての建築のヒントを求めた。分離派結成にも影響を与えた白樺派の活動を通じロダンなど西洋芸術に触れていたのだ。

VolumenのSymphonieとして建築を創作したい。
機械製圖が病的に發達させた線を殺して、より立体的な、より自然的な、より進化的なLinienlosの形態に於て建築美を表現したい。
Linienlos 土や石を以て學んだ彫刻が線的傾向のみに走ならかつた樣に、人間の造つた車や船が直線と平面から曲線と曲面へ進化して來た樣に、鑄式建築に於ては架搆󠄂式の形骸を捨てゝ。
模型と實物に於て建築美を洗煉したい。
一九二四年 山田守

オズヴァルト・ヘルツォーク《アンダンテ》(1918)、ヴィルヘルム・レームブルック《ものを思う女の頭部(ほっそりした首の少女の頭部)》(1913/1914)、アレクサンダー・アーチペンコ《歩く女》(1912)などの彫刻作品、分離派のメンバーの先輩に当たる岩元祿の彫刻(旧京都中央電話局西陣分局の壁面を飾るものの写真、複製)、彫刻的な建築模型(再制作石膏と映像)などによって、彫刻と建築との関係を示す。

【4. 田園へ向かう「足」】
郊外の家に暮らし、都心のオフィスビルで働く職住分離型の生活が姿を現す中、田園や地方に目を向ける分離派建築会のメンバーがいた。農閑期の生活を支えるための農民美術運動を興した山本鼎から拠点となる研究所の設計を依頼された瀧澤眞弓、田園性と都市性とを兼ね備えた近代住宅を模索した堀口捨己今和次郎に師事して民家をライフワークとした蔵田周忠である。瀧澤眞弓「日本農民美術研究所」、堀口捨己「紫烟荘」、蔵田周忠の民家や「日本聖公会聖シオン教会会堂」などが図版や写真や模型などで紹介される。

【トピック2. 関東大震災、新しい東京】
関東大震災後の帝都復興事業により、幹線道路、復興小学校、復興小公園などが整備されていった。山田守や第4回展(1924)から参画した山口文象が永代橋八重洲橋などの橋梁デザインに関わった。永代橋の模型や八重洲橋の図面を、面目を一新した東京の姿を写した雑誌記事「大東京の性格」(稲垣鷹穂編、堀野正雄写真)や関東大震災の記録映像とともに紹介。

【5. 構造と意匠のはざまで】
関東大震災からの復興に当たり、分離派建築会メンバーも公共的建築を手がけ、構造の合理性と建築の美との一致点を追求した。山田守は自然の造形を理想としつつ、反復や連続といった実現可能な自然のモティーフを「リズム式」と名付け導入した(東京中央電信局など。なお、山口守については「フリーデザイン クレマトリウム」が一見して忘れ難い。フランシスコ・デ・ゴヤ伊東忠太経由で咀嚼したような妖怪的建築)。蔵田周忠の京王閣アールデコの装飾)や旧多摩聖蹟記念館(丘陵に突如現れた楕円を重ねた建物)、森田慶一の京都帝国大学楽友会館(森谷延雄の室内装飾も魅力)や京都帝国大学農学部正門、石本喜久治の東京朝日新聞社(窓の形状の使い分け、壁面を緑と黄で塗り分け)や山口銀行東京支店(縦長の出窓とアーチ)を写真、図版、模型などで紹介。『分離派建築会の作品 第三』の表紙デザイン(赤い紙に黒文字で「分離派***/建築會***/作品****/第三****/千九百***/廿四年***」)も魅力的。

【6. 都市から家具、社会を貫く「構成」】
合理主義・機能主義のモダニズム建築が流入し、幾何学的な構成による前衛芸術が隆盛となる中、人口集中が進む都市部の住宅問題解消が喫緊の課題とされ、建築の扱うテーマは都市計画へと広がっていった。山田守の千住郵便局電話事務室(窓の上下に入れられた水平のボーダー、角のカーブが)、石本喜久治白木屋百貨店(各階の床スラブを外へ貼り出すことで描かれる水平線)、堀口捨己や蔵田周忠が手がけた住宅などが写真、図版、映像、模型などで紹介される。

【7. 散会、それぞれのモダニズム建築】
1928年の第7回展を最後に分離派建築会の展覧会は開かれることがなかった。個々のその後の活動を紹介する。蔵田周忠の関わった「等々力ジードルンク」は住戸31戸とクラブハウス、店舗、バス発着所、汽罐室、変電所なども設置される日本初のジードルンク計画だったが、実現したのは蔵田の設計した4棟のみであった。陸屋根と壁の白色パネルがモダンな印象を与えたという。他に山口文象の日本歯科医学専門学校附属医院(講堂は、途中退室者のため教壇に対して椅子を縦に設置)、石本喜久治の旧横須賀海仁会病院(平面が円弧を描く。現存するも建て替え計画が進行中)など。山田守らが渡欧した際の記録映像、板垣鷹穂と堀口捨己の編集による『建築様式論叢』も紹介。