可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

本 岡田温司『キリストと性――西洋美術の想像力と多様性』

岡田温司『キリストと性――西洋美術の想像力と多様性』(岩波新書〔新赤版1992〕/岩波書店/2023年)を読了しての備忘録

男性中心主義の教理を有するキリスト教にはかつて多様な性の有り様があったことを、中世からルネサンスにかけての土着ないし異端の絵画・彫刻を通じて示す。使徒ヨハネイスカリオテのユダ聖母マリアそれぞれとキリストとの関係を紹介する第Ⅰ部と、女性・母胎としてのキリストや、三位一体に両性を組み込む女性としての精霊、さらにはその聖母マリアとの繋がりを明らかにする第Ⅱ部の2部構成。口絵22点を始め図版多数。

目次
はじめに
第Ⅰ部 クィアなキリスト
 第1章 キリストとヨハネ
 第2章 イスカリオテのユダとキリスト
 第3章 マリアとキリスト
第Ⅱ部 交差するジェンダー
 第4章 もしもキリストが女性だったら
 第5章 「傷(ウルヌス)」、「子宮(ウルウァ)」、「乳首(ウベル)」
 第6章 「スピリット」とは何か
おわりに
参考文献

第1章「キリストとヨハネ」では、「最後の晩餐」に描かれるヨハネが女性的に表現されその性が曖昧にされているのみならず、キリストとの愛を巡りマグダラのマリアとライヴァル関係にあったとの語りが存在した。第2章「イスカリオテのユダとキリスト」では、、ユダがキリストにキスする姿が描かれる「キリストの捕縛」の絵画を中心に、キリストが肉体を神に引き渡す(十字架にかかる)べく裏切り者の役割を特にユダに担わせたキリストとの特別な関係が示される。第3章「マリアとキリスト」では、マリアがキリストの母であるのみならず教会に擬えられ、かつキリストが教会を花嫁と捉えた場合に花婿とされることから、マリアはキリストの妻であると解釈されたことが「聖母の被昇天」の図像で明らかにされる。第4章「もしもキリストが女性だったら」では、キリストは必ずしも男性である必要はないという想像力が、結婚を拒み十字架にかけられた女性ウィルゲフォルティスの伝承との混同を生じさせ、異性装のキリスト磔刑図が描かれたことが引き合いに出される。第5章「『傷(ウルヌス)』、『子宮(ウルウァ)』、『乳首(ウベル』」では、十字架上のキリストの脇腹の傷が女性器として描かれた作例を通じ、傷口=女性器を通じたキリストとの一体化の理想が証される。また、母乳が月経として排出されなかった血液であるとの当時の生理学的理解から、キリストに豊かな乳房を具えさせることで聖母マリアの役割をも担わせた珍しい図像が紹介される。第6章「『スピリット』とは何か」では、精霊(スピリット)を愛(カリタスという女性名詞)や知恵(ソフィア、ホクマーといった女性名詞)と捉えたことから、精霊を象徴する鳩に聖母マリアが伴う「三位一体」の図像が描かれたことが語られる。

 ユダヤ教キリスト教における最初の人間アダムもどこかこれ〔引用者註:2つの性が分離する前の完全な人間の形象としてのアンドロキュノスの神話〕に近いところがある。神が自分にかたどって創造したというアダム、そしてそのアダム(の肋骨)からイヴがつくられることになるわけだが、そうであるからにはアダムのうちにすでに女性が存在していたことになる。しかも神がその原型である以上、神もまた両性をあわせもつ存在である。こうした神やアダムの両性具有性もまた、グノーシス主義においては疑う余地のないこととされる。そこにはおそらくプラトン的な考え方もこだましている。
 あるいは、高名な宗教学者ミルチャ・エリアーデ(1907-86)も明らかにしたように、両性具有における反対の一致という深遠な理念は、ギリシア神話ユダヤキリスト教だけに限らず、およそあらゆる宗教に通底する文化横断的な神話の原型とみなすこともできるかもしれない(『悪魔と両性具有』)。(岡田温司『キリストと性――西洋美術の想像力と多様性』岩波書店岩波新書〕/2023/p.166-167)

オクシモロン(oxymoron)は両立しない言葉を結び付けることによる意外さにはっとさせる効果を生む。オクシモロンをシェイクスピアが多用するのは、両立しないことの中にこそ真実があると考えているからだろう。「両性具有における反対の一致」の普遍性に通じる。

 キリスト教にはもともと「~でないもののように(ホース・メー)」という開かれた教訓がある。あまり聞きなれない言い回しかもしれないが、たとえば、男は男でないもののように、日本人は日本人でないもののように、考えたり行動したりできるということである。つまり、わたしたちが生きていくうえで求められているのは、自分とは異なったり反対だったりするような、さまざまな立場の他者の存在をいかに想像し尊重できるか、ということである。(岡田温司『キリストと性――西洋美術の想像力と多様性』岩波書店岩波新書〕/2023/p.205)

キリスト教でないかのようなキリスト教の図像を通じて、想像力の可能性を詳らかにする好著である。

展覧会 飯田美穂・石井海音・黒宮菜菜三人展『The Three Graces』

展覧会『飯田美穂・石井海音・黒宮菜菜「The Three Graces」』を鑑賞しての備忘録
三越コンテンポラリーギャラリーにて、2024年4月3日~15日。

人々の「寝る」姿を描いた名画に取材した飯田美穂、大きな目を持つ少女をモティーフに映像を主題とする石井海音、蝋で固めた画面に描画する黒宮菜菜の3名の絵画を展観。

飯田美穂は人々の「寝る」姿を描いた名画を題材にした絵画のエッセンスを提示する。《Image, Louvre, Eugene Deveria》(608mm×725mm)は、ウジェーヌ・ドゥヴェリア(Eugène Devéria)の《Jeunes femmes assises》(1827)を単純化した作品。椅子に坐る女性が右肘で頭を支えて眠りに落ち、彼女の隣ではもう1人の女性がやはり椅子の背に凭れてまま眠っている。女性の顔は、2本の短い線による目と赤い点の口のみで、平安絵巻の引目鉤鼻よりいっそう簡素である。また、ドゥヴェリアの作品では鏡の蔭から若い紳士が女性の様子を窺っているが、飯田作品では男性は暗がりの中に表わされていない。他方で、絵画の額縁までも作品の中に描き出している。《Image, Henri Toulouse-Lautrec》(912mm×1166mm)の1点は、アンリ・ド・トゥールーズロートレック(Henri de Toulouse-Lautrec)の《Dans le lit》(1893)に基づく。ベッドで枕を並べて眠る2人の人物が布団から顔を出している。これと近しい主題・構図の作品が、2人の幼児が眠る、国立西洋美術館所蔵《眠る二人の子供》(1612-1613)に基づく《Image, Rubens》(457mm×532mm)である。両作品では寝具は眠る顔をトリミングするための装置となる。《Image, Louvre, Fragonard》(608mm×727mm)は、ベッドで女性が幼児のような天使に脱がされている場面を描いた、ジャン・オノレ・フラゴナール(Jean Honoré Fragonard)の《La Chemise enlevée》(1770)を金色の額縁ごと写し取ったもの。フラゴナールが女性の臀部から脚を浮かび上がらせるべく女性と天使の顔を影の中に落とし込んだのに対し、作家は光溢れる中、女性が天使を持ち上げてあやすようである。女性が作者や鑑賞者の視線の客体から、天使を見詰める主体へと反転している。《Image, Harunobu Suzuki》(726mm×910mm)は、鈴木春信の浮世絵版画(1768-1770)を下敷きにした作品で、春信からジュリアン・オピー(Julian Opie)に近付いている。春信は家具調度の幾何学的な線により、男女が坐って口付けを交わす口元に視線を誘っていたが、作家は頬を寄せ合う形に変更している。同題・同サイズの《Image, Henri Toulouse-Lautrec》(912mm×1166mm)のもう1点は、ロートレックの《Au lit le baiser》(1892-1893)に取材し、ベッドで抱き合い口付けを交わす男女を描く。淡い色彩であっさりと描かれた上に、滲みや垂れるなどもあり、エドヴァルド・ムンク(Edvard Munch)の水彩画のような風情である。上記作品はいずれも油彩作品だが、《Untitled, mirror》(312mm×225mm)は紙の作品。喜多川歌麿の「ねがひの糸ぐち」シリーズの1点の一部に基づく。鏡とそこに映った女性の右足だけをトリミングしつつ、黄とピンクのトレーシングペーパーを重ねて貼ることでまぐわう男女を抽象的に表現している。

石井海音の絵画には、顎から頬にかけて緩やかな円弧を描く線に、下に凸の二次曲線の頂点がほとんど接するような縦長の大きなな目を持つ漫画キャラクターのような少女が登場する。《スクリーン》(325mm×440mm)には、粉雪の舞う中、紫のハイネックのセーターを着た「少女」の胸像が左に45度傾いて描かれている。下に大きな指と液晶ディスプレイの枠が覗くことから、スマートフォンあるいはタブレットのカメラで目の前の少女を映し出している場面と考えられる。少女に降りかかる粉雪は、画面の中のみならず、少女に向けられたスマートフォンあるいはタブレットにも舞い散る。雪が画面の内外あるいはイメージと現実とを繋ぐ。《瞳を泳ぐ》(530mm×455mm)には、葉のパターンのデザインされたやや淡い青紫のシャツを着た「少女」の両目に、海を背にした白いワンピースの少女の姿が映る(同題・同サイズで「少女」の顔を大きく表わした作品が隣に並ぶ)。青紫のシャツの「少女」と瞳の中の白いワンピースの少女とは同じ向きに髪が靡く。《スクリーン》同様、《瞳を泳ぐ》でも瞳の内外、イメージと現実とに同じ風が吹く。その不可視の風を可視化すべく、波飛沫と思しき銀色の粒が画面に散らされている。《外に出たい手》(1120mm×1940mm)の画面は左右に2:1に分割され、左側の画面には右手を軽く顎を支える「少女」の顔を、右側の画面に2階建ての建物の6つの窓からそれぞれ突き出された腕が描かれる。どちらにも大きな銀杏の葉が舞い、そのうち1枚が左右の画面の境界に跨がるとともに、「少女」の顔と建物の壁面に銀杏の樹と思しき斑の影が映ることで、2つの場面が同じ場所である可能性を示唆する。建物の窓から伸ばされる腕は、スマートフォンを操作するディスプレイ越しのコミュニケーションのメタファーであろう。映像を介さない現実の接触を求めているようだ。《外は寒いのので中に入れて下さい 1》(1455mm×1455mm)には、雪の舞う高原ないし山間部の集落にある1軒の民家の結露した窓から「少女」が外を眺める姿が描かれる。「少女」が手でガラスを拭い、曇りが消えた部分に紫の壁紙を背にした「少女」の姿が現われる。曇ったままの窓は鏡のように窓外の集落の景色を映し出す。すっかり葉を落とした街路樹の向こうに似たような木造の民家がいくつも姿を見せる。雪によって覆われ始めた道ではケンタウロスが「少女」に向かって右手を挙げている。「少女」は無表情でその心の裡は読み取れない。《外は寒いのので中に入れて下さい 2》(1455mm×1120mm)は、《外は寒いのので中に入れて下さい 1》に姿を現わしたケンタウロスの胸像。ケンタウロスの目には家の中から姿を見せた少女の姿が映っている。目の映像とともに、降りかかる雪が2つの世界を繋ぐ。屋内の「少女」と屋外の異形の存在との邂逅は、移民や難民の受け容れのメタファーであろう。戸惑っているようにも見える「少女」に対し、ケンタウロスの微笑みが事態の好転への兆しを示唆する。

黒宮菜菜は蝋を用いた画面で絵を生み出す。「Whaite scratch」シリーズは、蜜蝋では固めた画面を削ることでモティーフを表わしている。《Whaite scratch―袖を振る》(235mm×285mm)はベージュの画面を削って女性が舟(円弧)の上に立ち腕を羽搏くように上下に振る姿が下地の黒い絵具によって描き出される。《Whaite scratch―魂の舟》(235mm×285mm)は舟の上の馬と鳥の姿がベージュの画面に暗赤色で彫り出される。《空(から)の馬、空(から)の舟 #2》(740mm×920mm)の、葦や日陰鬘といった植物がその形が浮き立つように蝋で塗り込められたごつごつした画面には、赤みがかった色彩で舟の上に立つ馬と馬の首を撫でる(?)女性の姿がぼんやりと浮かび上がる。《船に乗る》(1325mm×1640mm)の、葦、薄、日陰鬘、定家葛、米、大麦、粟、黍、大豆、小豆を蝋で固めた凸凹の暗緑色の画面には、水辺に浮かぶ船に横たわる女性と、周囲の草叢の鳥たちの姿が白く表わされる。《空の馬、空の舟 #2》や《船に乗る》のモティーフは画面からある程度離れないと認識できない。実際の植物を画面に塗り込めるという制作の過程には儀式を想起させるのみならず、舟(船)・鳥・馬といった魂を運ぶモティーフと相俟って、作品と距離を取らせて近寄り難くする仕掛けは、作品に神聖さを吹き込んでいる。

展覧会 天野雛子個展『COLOR and STORY』

展覧会『天野雛子「COLOR and STORY」』を鑑賞しての備忘録
GALLERY b.TOKYOにて、2024年4月8日~13日。

人物、動物、植物をモティーフとした絵画16点で構成される、天野雛子の個展。

最初に目に入るのは、女性と彼女に耳打ちするもう1人の女性の上半身を描いた《ウワサ好き》(910mm×727mm)。耳打ちされる女性の髪は青く、緑がかった白色のスリップ(あるいはキャミソール)を身に付け、正面を向いている。影の表現か顔の右側(向かって左側)は黒く、なおかつ右側(向かって左側)の目からはマスカラが落ちたために(?)黒い涙を流している。耳打ちする女性は茶色い髪で、ピンクのキャミソールを身に付けている身体は相手に、顔は正面に向けられている。声が漏れないよう左手を耳元近くに寄せている。目の表現により描き分けた純粋さと狡猾さとを、寒色と暖色との対照によって強調している。
メイン・ヴィジュアルに採用されている《積もったね》(652mm×530mm)は、下側3分の2を雪が覆い、上の3分の1は青空を背に並ぶ2人の子供の顔が覗く。顔は朱とクリームとでそれぞれ塗りつぶされ、目だけがはっきりと表現されている。ほぼ正面を向けた顔の目だけがアイコンタクトをとるように相手に向けられている。

紫のボンネットを被り歯を見せて笑う女性の顔を画面一杯に描いた《Untitled》(652mm×530mm)の右側には、オランウータンの顔だけを捉えた《とびきりの笑顔》(455mm×380mm)が並ぶ。頭部の毛は燃え立つように逆立ち、レモン色の背景と相俟って、向日葵のイメージを呼び込む。オランウータンを笑顔に見せるのは下に凸の円弧として表わされた結んだ口が作る線である。頭髪と口の線は、《Untitled》の女性の被るボンネットと彼女の顔に沿った紐と相似する。《ウワサ好き》や《積もったね》では画面に2人の人物を配することで物語を表わしていたが、《Untitled》と《とびきりの笑顔》では別個を並列することで物語を呼び込もうとしているようだ。

《Eating》(1620mm×1330mm)には、しゃがんでリンゴ(?)を食べようとする、オランウータンだけが描かれる。オランウータンは黄とオレンジの毛で覆われていて、青や水色などで塗られた顔と、口元近くで「リンゴ」を手にする紫の爪とに鑑賞者の目は自然と引き寄せられる。激しいタッチと燃え立つような色の体に比して、寒色による顔や爪は冷静さや繊細さを感じさせる。

《Blooming Ⅰ》(910mm×1167mm)と《Blooming Ⅱ》(910mm×1167mm)とはいずれも赤い花が画面を埋め尽くす。《Blooming Ⅱ》では茶の枝や緑の茎、背景の草の緑やペールオレンジの光などにより円形などに単純化された赤い花が引き立てられるが、《Blooming Ⅰ》では赤やピンクの花がより高い密度で画面を覆い、赤やピンクが背景を占める割合も高いために、渾然一体としている。フォーヴィスム(Fauvisme)を思わせるのは、近くにオランウータンの絵画が並ぶせいではなく、花が咲く、その息吹を画面に表わそうとしているためである。
作家のフォーヴィズムが遺憾なく発揮されている作品に《藤の花》(910mm×727mm)がある。藤の花は光の粒と背景化した紫の色彩とに分離していて、タイトルを知らなければとても藤を描いたものだとは分からないだろう。だが、ほとんどインスタレーションと化した吉村芳生《無数の輝く生命に捧ぐ》の精密描写による凄みとは真っ向から対立する、得体の知れ無さが魅力である。
主に緑と紫の落ち着いた色彩でタッチは穏やかであるものの、地学で学ぶ地層の断面図のような《ベジタブル》(652mm×530mm)。何の野菜を描くのかは窺い得ないが、その某かの野菜の向こうに大地=地球(the earth)を見通そうとしていることだけは間違いない(その証左に、《土の中》(273mm×220mm)という作品も展示されている)。

展覧会 佐々木成美個展『As the Body』

展覧会『佐々木成美「As the Body」』を鑑賞しての備忘録
LOKO GALLERYにて、2024年3月15日~4月13日。

身体をモティーフとした絵画と焼き物で構成される、佐々木成美の個展。

展示作品のうち最大画面の《無題》(2273mm×1818mm)には、施釉により黒光りする楕円の陶板が画面上端の中央に、同じく黒光りする手を模した焼き物が画面左右の端の真ん中に取り付けられ、左右の手から褐色のオレンジ、淡い黄、紫の線が、さながら磁界観察実験の砂鉄のように、彎曲しながら放射しつつ伸びる。楕円の陶板はその形状と位置と両の手の存在と相俟って頭部であり、左右の放射状の描線は腕に、その重なりは胴となり、人形(ひとがた)が浮かび上がる。
なお、最大画面の《無題》と同じモティーフの表わされた無題作品が別に2点(各1620mm×1303mm)あり、それらには陶板が取り付けられていない。(1階に展示された)《無題》では画面中央附近の2つの中心から黄褐色の線がS字を描きながら放射状に伸びていく。その中途から外延に近付くに連れて周囲に紫が広がっていく。(2階に展示された)《無題》では画面右側から黄褐色の線が弧を描きながら放たれ、赤味を帯びた紫、そして紫の中に溶け込んでいく。画面下部では紫の描線がくるりと円を描く。

最大画面の《無題》の近くの床には、人物頭部を象った赤茶色の素焼き《月相》(180mm×230mm×150mm)と、指で円を作るように軽く握られた右手の焼き物《手》(250mm×150mm ×150mm)とが置かれている。《月相》の眼窩にはガラス製の眼球が取り付けられているために、素朴な作りに比してかなり強い生々しさを感じさせる。右側を床に着ける形で設置され、左側には耳などを黒い釉薬が覆っている。満月がかけ始めた状況を表わすようだ。《手》が軽く握られているのはピンホール効果を得るための仕草である。《月相》と相俟って《手》は天体観測を表わすことになる。

レベッカ》(1070mm×650mm×120mm)の黄褐色と紫により模糊とした画面の上部には、円形とその開口部のような楕円とが描かれている。楕円の周囲には毛のような細い線が表わされている。画面の左右の上端からそれぞれ両端がくるりと曲がるS字を模した大小の暗緑色の焼き物が引っ掛けられて連ねられ§状に垂らされている。《ソフィー》(630mm×1100mm×100mm)が同じモティーフを扱い、やはりS字の焼き物が両側に垂らされている。

《リオ》(350mm×320m×70mm)は黄褐色、白、黒で構成される。画面いっぱいに光と闇との楕円とその周囲を飾る∩字の白い線とが描き込まれている。画面の天には黒い釉薬を施された焼き物の5つのチューリップのような花が、それぞれ葉のないのたうつ茎の先に付いている。左隣の《ブライアー》(370mm×360mm×70mm)は画面が黄褐色、赤紫、白となり、楕円を囲う白はpに近い形状で描かれ、絵画の上に添えられた焼き物のチューリップの茎には赤褐色にベージュの斑が浮く。さらに左に並ぶ《キャス》(350mm×310mm×70mm)は画面の基調も、5本のチューリップも白である。《リオ》・《ブライアー》・《キャス》の画面の中心モティーフは穴であり、目であり、顔のである。曲がりくねるチューリップは蛇に見える。

両脚を揃え、両腕を真横に伸ばした女性の身体を表わした、小さな黒釉の陶器《Wearing Sculpture, As the Body》(60mm×50mm×5mm)は、隣に並んだ、同じモティーフを黄褐色で描いた《Drawing》(440mm×36mm×25mm)と併せ見ると、十字架にかけられた女性に見える。だが、黒で描かれた女性像《Drawing》(440mm×36mm×25mm)では、腕や脚がすっと伸ばした線が描き込まれ、飛翔しているようだ。翻って、十字架に打ち付けられていたかに見えた《Wearing Sculpture, As the Body》もまた、飛翔のイメージに変貌するのである。

ペインティング、ドローイング、焼き物といった種々の作品に共通するのは、対極にあるものが同時に存在することである。最大画面の《無題》に描かれるのは光と同時に闇である。《レベッカ》や《ソフィー》では混沌(≒闇)の中に開口部が設けられることで光が射す。《月相》は天体が人の顔として表わされることで(文字通り現実に)地に置かれ、地上の《手》は天体を眼差すことで宙に浮く。《Wearing Sculpture, As the Body》は拘束と解放、あるいは死と生とであるとともに、キリストを男性から女性へと変換しもする(なお、岡田温司『キリストと性 西洋美術の想像力と多様性』はキリストを女性として捉える伝統があったことを示す)。
女性の身体という観点から改めて最大画面の《無題》を眺めると、光と闇の交錯する人形(ひとがた)は誕生と死であり、秩序と混沌の象徴と解される。光と闇とを表わす黄と紫とは、黎明であり下舂の色である。渦巻くのは胎の形成であり、放散は死である。個物は全体からの拡散に過ぎず、収縮により全ては1つになる。宇宙は無限の周期で反復する(共形サイクリック宇宙論)。
作家はその指で小さな輪を作り、無限遠を覗こうとしている。

展覧会 カワイハルナ個展『反復のすき間』

展覧会『カワイハルナ「反復のすき間」』を鑑賞しての備忘録
銀座 蔦屋書店〔インフォメーションカウンター前〕にて、 2024年3月30日~4月26日。

幾何学的形態を何かの装置のように描き出した絵画6点(キャンヴァスを支持体とした3作品と紙に描いた3作品)で構成される、カワイハルナの絵画展。

キャンヴァスに描いた《円形パターン》(720mm×910mm)はごく淡い青味のある緑の画面に、レモン色の八角形の枠に収められた12個の白い球が描かれる。8つの角ごとにあるくすんだ藍色の薄い板が白い球を2つと1つと交互に仕切っている。白い球のそれぞれの下側には三日月状の薄い灰色の部分があり、八角形の枠のレモン色は面により濃いものと薄いものとに塗り分けてある。何より、斜め横から描き出したように見える角度の付け方によって、立体的に表現される。上側の8つの球はぎっしり詰められることで落ちないように見える。他方、下の4つの球は両脇に隙間があるために、自重で下に寄ってきたようだ。球、枠、板が力学の法則に従っているように見えるために、作品は冷たい幾何学的抽象画から遊離して、具体的な装置を描いた絵画として姿を現わす。遠目に見るとコンピューターで描き出力したかのようだが、実は手書きで塗り斑や筆触が表情となっているのも人肌を感じさせる作品となる所以である。
同じくキャンヴァス作品《反復》(450mm×330mm)にもレモン色の枠に収められた白い球が描かれている。灰色の画面に描かれるレモン色の枠は直方体である。2つの白い球体が茶色い細い棒により縦に串刺しになって連ねられ、その間にもう1本の棒が挟まれている。
キャンヴァス作品《間を遮る》(910mm×720mm)には2枚の衝立のような枠が並び、その間を遮る白い板や、それら全てを結び付ける、重しで支えられる白い帯が描かれる。レモン色の画面に、窓のように大きく穿たれた部分を持つ衝立が2枚、黄色と黄褐色のものが前後に並ぶ。その間にワ冠状の白い板が、2枚の衝立から垂らされた白い帯によって浮かされている。白い帯が2枚の衝立の前後で暗いオレンジ色の三角柱状の重しで引っ張られることで、白い板の重みを支えているらしい。《円形パターン》と《反復》とがいずれも白い球の間を遮る作品であったのに対し、《間を遮る》では白い板と白い帯によって衝立の大きな開口部が遮られ、視界に対する干渉の程度が増すことで「間を遮る」感覚が前面に出ている。同時に、遮蔽の白い板を支える白い帯が重しで引っ張られている点に、装置としての印象が強められている。
役に立たない装置、あるいは目的を持たない装置というのは、装置が何らかの目的の手段となっていないということである。そのような装置を繰り返し描き出す作家は、イマヌエル・カント(Immanuel Kant)の「目的の国(Reich der Zwecke)」を作品に出現させようとしているのかもしれない。