可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会『ブルーノ・ムナーリ 役に立たない機械をつくった男』

 

展覧会『ブルーノ・ムナーリ 役に立たない機械をつくった男』を鑑賞しての備忘録
世田谷美術館にて2018年11月17日~2019年1月27日。

イタリアの美術家ブルーノ・ムナーリ(1907~98)の回顧展。

ブルーノ・ムナーリはミラノ出身。両親の仕事のためにバディーア・ポレージネで子供時代を過ごすが、1925年にミラノに戻り、未来派を主導したフィリッポ・トンマーゾ・マリネッティに出会う。未来派は伝統的な美を否定し、工業化社会を賛美する芸術運動で、ムナーリが参加した頃(1927年)には、ジャコモ・バッラやフォルトゥナート・デペロといった第二世代が活躍していた。その名も《未来派(Futurista)》と題された作品(1931年)では、直線的な太い朱の描線を大胆にひいた上からグレーの輪郭線を添えた女性のトルソが描かれるが、左太ももが前方へと歩み出すように突き出され、スピード表現を追求した未来派の一端を窺わせる。その後、機械さながらの単純な部分が整然と配されるも、全体から編み出される何でも無い運動をする《役に立たない機械(Macchina Inutile)》(1933年など)というモビール作品が作られていく。制作にあたっての素描が残されており、未来派的な「動きを表す絵画」から実際に絵画を動かす実験を行っていたと考えられる。

戦後になると、MAC( Movimento Arte Concreta)に参加。そこでは、画面に表された形や色や動きがそれ以外の何物も表していない芸術作品が追究された。ムナーリも、画面上のある形を際立たせるために背景や地を設定することを否定して、画面上の全ての色彩と線が同じ働きをする絵画(「陰と陽(Negativo-Positivo)を目指す。《〈陰と陽〉の説明的素描》(1950年)でこの考え方の具体的な説明が行われているが、赤・黒・黄の紙を組み合わせて画面構成を試行した《〈陰と陽〉のための習作》(制作年不詳)が分かりやすいだろう。実際、「地」をつくらないために画面(板)をカットしてしまっている作品すらある。

50年代後半には、コラージュから一歩進め、恐竜の骨や土器の欠片から全体像を想像する、考古学の復元を利用した作品づくりを行っている。《空想のオブジェの理論的再構成(Riconstruzione teorica di un oggetto immaginario)》(1956年など)と題された一連の作品では、例えば、楽譜の断片を台紙に置き、そこから線を引いて、新たな作品を構想している。
また、1枚の紙を切ったり折り曲げたりすることで「彫刻」を産み出す《旅行のための彫刻(Scultura da Viaggio)》のシリーズ(1958年など)は、美術品の持ち運びを可能にしようという野心作だ。

60年代後半にはコピー機を用いて、画像の読み取り時に画像を動かすことで、「複製」のための機械から「一点物」の作品をつくる《オリジナルのゼログラフィーア(Xerografia originale)》(1967年)のシリーズを発表している。

ムナーリは、同じ形の集合が結果として様々な形になる造形の仕組みに着目した。それまでの美術作品は自然のある一つの側面だけを切り取っているにすぎず、繰り返しの構成を利用すれば、自然の全領域を想起させることが可能だと考えた。スタンプを使って誰でもが絵を描ける、美術に参加できるという考え方も、組み合わせ(組み合わせる人)次第で作品の表れは変わってくるという判断があった。

地と図という関係を排する試みや誰でもが美術に参加する企てには平等への志向を、平面から立体作品を生み出したり考古学のアイディアを美術へ導入する実験には脱領域の志向を、触覚への着目は視覚中心への反省の志向が認められ、ムナーリを回顧することに現代的意義が大いに認められる。だが何より「役に立たない」こと(それは「あそび」と言い換えられるだろう)に目を向けさせることが素晴らしい。タイトルに「役に立たない」を採用することでその点をフィーチャーした点も評価したい。

展覧会『幕末の北方探検家 松浦武四郎展』

展覧会『生誕200年記念 幕末の北方探検家 松浦武四郎展』を鑑賞しての備忘録
静嘉堂文庫美術館にて2018年9月24日~12月9日。

幕末に蝦夷地を6回調査した探検家であり、好古家としても知られた松浦武四郎(1818-1888)を紹介する企画。

武四郎の生地は伊勢国一志郡須川村(現三重県松阪市)。お伊勢参りの伊勢街道を辿れば四日市東海道に出られた。15の時に江戸へ出奔し連れ戻されるも、以後諸国を放浪、対馬から朝鮮へ渡ろうとして失敗したこともあったという。長崎で蝦夷地が海防に重要であると知り、蝦夷地の調査に乗り出す。6回に渡る調査を敢行し、内陸部まで詳細な地図を作成した。1869(明治2)年には蝦夷地の新たな名称に「北加伊道」を選んでもいる。武四郎と蝦夷地をめぐる品々を紹介するのが本展の前半の柱。

武四郎は放浪癖だけでなく蒐集癖も強かった。諸国を歩き回る彼がいかにして成し遂げたのか不思議でならないが、資料的価値の高い珍品・逸品のコレクションを形成した。当時このような品々のコレクターは「好古家」と呼ばれた。同好の士である蜷川式胤や町田久成との縁で、新政府開催の博覧会(1871年)に石螺(アンモナイトの化石)や雷斧(磨製石斧)を出陳している。また、コレクションの主要作品を画家に描かせてカタログ『撥雲余興』も刊行している(1877年。1882年には二集も)。武四郎の蒐集品を紹介するのが後半の柱である。なお、静嘉堂には、約900点の武四郎のコレクションが収蔵されているとのこと。

武四郎は生前に河鍋暁斎に依頼して自らの涅槃図を描かせた。この一事をとっても武四郎の奇人ぶりは明白だが、作品(本展では複製を展示)自体もまた振るっている。勾玉などが数珠つなぎの3キロもある大首飾りを身につけ眠る武四郎。その足下に泣き崩れる妻。周りには彼のコレクションがびっしりと並び、浮世絵から抜け出た美女が雲に乗って武四郎を迎えに来る次第。本展では、涅槃図に描かれた武四郎のコレクションが実際に並べられ、対応表まで添えられている。そこにはエジプト新王国時代(紀元前14世紀)の遺物も含まれている。

展覧会『ミヒャエル•ゾーヴァ新作絵画展』

展覧会『ミヒャエル•ゾーヴァ新作絵画展』を鑑賞しての備忘録
メグミオギタギャラリーにて、2018年11月6日~24日。

ドイツの美術家ミヒャエル・ゾーヴァ(1945年~)の絵画展。
映画『アメリ』(ジャン・ピエール・ジュネ監督、2001年)に絵が用いられたことが世界的に知名度を挙げたきっかけという。
妻ステファニー・グリッツ-ゾーヴァの人形とあわせ十数点の作品が紹介されていた。

ギャラリーの一番奥に、巨大なヒトデが描かれた作品があり、とにかくその作品の印象が強く残った。
巨大な倉庫のような建物の屋内の壁に巨大なヒトデが掛けられていて、それを左下の位置から見上げる2人の男性がいる。ヒトデの真下には車止めのようなものがあり、線路が画面手前に向かって伸びるとともに、左右2箇所ずつある扉へ分岐している。扉は全て閉ざされているが、左右の壁の高い位置には窓があり、強い日差しが差し込んでいる。ヒトデはその光によって輝き、光の当たらない部分との印象がかなり異なっている。
ヒトデはドイツ語ではSeesternなので「海の星」ということになる。日が落ちる前に、巨大ヒトデが壁から降ろされて、列車でしかるべき場所へと運搬されるというようなストーリーを想像した。

都心でもようやく紅葉のシーズンを迎えた。深省の器の、竜田川をイメージして描かれた、明らかに巨大なもみじ饅頭のようなカエデと、ゾーヴァのヒトデとを比べてみたくなった。

展覧会『ピエール・ボナール展』

展覧会『オルセー美術館特別企画 ピエール・ボナール展』を鑑賞しての備忘録
国立新美術館にて、2018年9月26日から12月17日。

オルセー美術館の所蔵作品を中心としたフランス人画家ピエール・ボナール(1867~1947年)の回顧展。

ピエール・ボナールは、ゴーギャンの影響のもと結成されたナビ派の一員。1890 年にパリのエコール・デ・ボザールで開かれた「日本の版画展」を見て浮世絵の影響を受けた作風は、批評家フェリックス・フェネオンに「日本かぶれのナビ」と名付けられるほどだったという。

ボナールの作品の中に、浮世絵の影響がどのように現れているかをたどるのが面白い。
屏風形式の《乳母たちの散歩、辻馬車の列》(1899年)では、余白を広くとり、シルエットによる表現を用いるとともに、子供たちが遊ぶ輪や車輪など円の繰り返しによるリズムを生んでいる。余白を活かしている作品には《浴盤にしゃがむ裸婦》(1918年)が、円の繰り返しは本展のメイン・ヴィジュアルでもある《猫と女性 あるいは餌をねだる猫》(1912年頃)のテーブルや皿とマルト(ボナールの恋人で、後に妻となる)の顔などと共鳴している。《化粧台》でも緑とグレーにより統一された画面に、小物や器などが作る円が頻繁に描き込まれている。また、《化粧台》の中央の鏡にはトルソのように女性の裸体が映っているが、大胆に人物やモチーフをカットする手法も浮世絵の影響だろう。《ボート遊び》(1907年)では映画の手法さながら、巨大な画面の下部に正面を向いた数名の少女たちが乗るボートが描かれているが、画家がボートに乗っているかのようにボートの前部はカットされている。《テーブルの上のリンゴの皿》(1910-12年)のテーブルも大胆にカットされている。

ボナールには、「不意に室内に入ったとき一度に目に見えるもの」を描く狙いがあった。そのために素早く行ったスケッチと記憶とを頼りにカンヴァスに向かって不意のイメージを再構成したという。理由は定かではないが一時は取り組んでいた写真撮影(本展の第3章「スナップショット」で紹介)に、ある時期から関心を持たなくなったらしい。撮影した作品が残されていないのだ。画家として、写真では残すことのできない、絵画ならではの表現を追究したかったのかもしれない。ボナールは「絵画、つまり視神経の冒険の転写」という言葉を手帖に残しているという。

本展の仏題は"Pierre Bonnard, l'éternal été"で、展示の最後にも「終わりなき夏」(第7章)というセクションが用意されているのだが、よく意図を汲むことができなかった。本展の日本語タイトルに「終わりなき夏」が採用されなかったのも主旨が不分明であったからではないか(本展の監修者はオルセー美術館のイザベル・カーン)。浮世絵の影響を主題に絞り込んだ方が明快な企画になり、日本での開催にふさわしかったのではないか。

展覧会『インベカヲリ★写真展 ふあふあの隙間』(2)トークイベント

インベカヲリ★×飯沢耕太郎 トークイベントを観覧しての備忘録
ニコンプラザ新宿 THE GALLERYにて2018年11月23日。

『インベカヲリ★写真展 ふあふあの隙間』会場内で、写真評論家の飯沢耕太郎がインベカヲリ★にインタヴューする形で進行した対談。

インベは、ライター修業中に挫折した際にカメラを手にし、自らを被写体に、自身の中にある「モンスター」のような感情を表現することでストレスを解消していた。その写真は周囲から好反応を得たが、セルフポートレイトではいずれ限界を迎えるだろうと判断。モデルの感情を引き出し、その感情をもとに作品作りをする現在のスタイルを築く。もっとも当初は、モデルの中に自分の共通点を見出しがちであったためか、違う人をモデルにしていても同じ人物を撮影したと受け取られることもあったという。

飯沢は、写真家とモデルとの関係はときにこじれる「面倒な」ものであるとしたうえで、インベのように写真家とモデルとが対等な関係で「コラボレーション」するスタイルは、世界の写真史を見渡してもユニークなものであると指摘した。

インベによれば、男性は写真と撮られるのに社会的な動機・理由があるという。そのためイメージが固まってしまう。それに対し、女性が撮られたい動機は衝動的で、モデルの心理に分け入っていく楽しみがある。モデルの側に撮られたい時機がある。作品作りで一番重要なのは、作品という終着点に向かってモデルと一緒に歩いて行くこと。そのためにモデルと話して情報を引き出していくのだという。

初めは個々の写真にタイトルをつけることもなかったほど写真とテキストとを切り離し、鑑賞者に作品から自由なイメージを引き出してもらおうと考えていた。しかし会場ではしばしば写真の説明を求められ、それに答えると作品を面白いと思ってもらえる経験を重ねるうちに、考えを変えたという。本展は作品に文章をつけた初めての試みで、文章は作品の解説としてではなく、小説のように書きたいと考えているという。

インベはPENTAX67という巨大なカメラを使って撮影を行ってきた。ガッシャンというシャッター音が被写体だけでなく周囲の人をも撮影現場を意識させ、緊張感を生んだ。本展の作品で初めてニコンD850というデジタルカメラを用いた。喧騒の中では被写体はシャッターが切られたかどうかも分からないため、モデルに自由に動いてもらい、インベがシャッターチャンスを狙うスタイルで撮影した。水中撮影や夜間撮影など、デジタルカメラだから可能な表現もあった。

飯沢は作品のサイズをもっと大きくするなど出力や・展示のあり方だけでなく、スライドショーや動画などのデジタルの技術を活かした撮影手法への挑戦を提案した。そして、過去作品と比べ、インベの作品がモデルから抽出したものを作品に結実させる精度が極めて高いと賞賛した。

 

来場者から撮影場所についての質問があり、池のような撮影場所が実は巨大な「水たまり」であることが明かされたが、インベの作品が、スタジオではなくロケハンにより様々な場所で撮影されていることも作品の大きな魅力になっていることに気付いた。街を行き交う女性の中に隠されたモンスターを暴き出すインベのスタイルは、日常空間に非日常性を、非日常的な空間に日常性を持ち込むことで強化されているのだ。

現実と全く関係のないフィクションも、創作性を全く欠いたドキュメンタリーもない。インベの作品は、フィクションとドキュメンタリーとの重なり合う領域を、明快なイメージとそれを遠巻きにするタイトル・テキストとで、エンターテインメントとして呈示しているのが魅力だ。