可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会 ハーヴィン・アンダーソン個展『They have a mind of their own』

展覧会『ハーヴィン・アンダーソン「They have a mind of their own」』を鑑賞しての備忘録
ラットホールギャラリーにて、2019年2月22日~5月18日。

ジャマイカ系イギリス人のハーヴィン・アンダーソンの、ジャマイカの風景をテーマにした絵画を紹介する企画。

《Verdure》は、鬱蒼とした茂みをとらえた作品。様々な緑色が重ね合わされるが、形は曖昧で樹種の識別は難しい。ところどころ垂れるように定着した絵具は、蔦のような植物か、あるいは雨垂れであるかもしれない。

メイン・ヴィジュアルに採用されている《speech bubble》はハマベブドウの木陰の人物を描いた作品。《Verdure》が熱帯をイメージさせるのに対し、黄緑と灰色を中心に淡い色が画面を占めるこの作品では、木がつくる陰もグレーで表され、照りつける強い日差しより、浜辺を吹き抜ける風を思わせるような穏やかな印象を受ける。作者は、両親の故国ジャマイカに自らのルーツを尋ねる。その問いかけこそ「吹き出し(speech bubbke)」に書き込まれているものだろう。大きく枝葉を広げるハマベブドウは、ジャマイカに根を降ろし、子孫を残してきた人々の姿を表している。だが、問いかけるべき相手(黒人男性)は幹の向こう側に佇んでいる。木(ジャマイカ)の奥に広がる海の向こうに目を向けるよう、その人は無言のまま作者へと教え諭す。《speech bubble》の隣には、樹上に立つ(木に「登った」)人物を描いた《Study for Ascension I》があり、より高みから遠くを眼差すよう促している。遠く離れた場所に祖先(さか「のぼった」人々)や戻るべき場所が存在するのだろうか。あるいは、幻影(bubble)を追い求めることなく足下を見つめるべきだろうか。

展覧会 松川朋奈個展『Love Yourself』

展覧会『松川朋奈「Love Yourself」』を鑑賞しての備忘録
Yuka Tsuruno Galleryにて、2019年3月9日~4月6日。

松川朋奈がシングルマザーを取材して制作した「Love Yourself」シリーズを紹介する絵画展。

母と子とを描いた作品を中心に、観葉植物を描いた作品が差し挟まれている。いずれも極めて写実的で、産毛や毛穴のような細部が入念に描き込まれている。また、それぞれに物語を想起させるタイトルが付されている。

《それでも、私が母親であることには変わりない》は、ピアスを外す女性を描いた作品。顔の左下部分(口から左耳にかけて)を画面左上に、左肩を画面右下に、画面の中心はピアスを外す両手が占めている。目に焼き付くのは、手に刻まれた細かな皺の数々だ。ファンデーションで塗り込められることのない裸の手こそ、生きてきたことの証しであり、作者はそこに崇高を見ている。ピアスや指輪などの煌びやかなアクセサリーは、執拗に描き込まれた皺を引き立てる脇役へと退く。表情をうかがうことはできないが、口許を伝う光が心情を訴え、静かな画面の中に潜む出来事へと鑑賞者を誘う。

私は、どんな環境にあっても、ひとり親が自分たちの行いを恥ずべきではない、自分の行動を強く信じるべきだと考えている。日本のすべてのひとり親が、子どもと自分自身を強く愛する気持ちを持つことを願って。

自らを愛することなくして他者を愛せようか。シングルマザーである作者が、同じ境遇にある者へ贈る"Fight Song"である。

展覧会『ピエール セルネ & 春画』(2)

展覧会『ピエール セルネ & 春画』を鑑賞しての備忘録
シャネル・ネクサス・ホールにて、2019年3月29日~4月7日(後期)。

写真家ピエール・セルネの《Synonyms》シリーズと、春画とを合わせて展示する企画。

鈴木春信《稲光》について。
雷雨を避けて蚊帳に逃げ込む男女の姿を描く。一人の男は既に蚊帳の中に入って着物に包まり、女性が後からその蚊帳に入り込む。そこへもう一人の男が、蚊帳に入りきっていない女性の背後から交接する場面が描かれる。
エクレア(éclair au chocolat)の名称の由来の1つに、稲妻(éclair)のように素早く食べるという説があるが、まさにエクレア=稲光のように女性を味わう情景である。稲光を部屋の右上からちょろりと射し込ませているのは、素早く挿入される陽物を表すのであろう。蚊帳と女性の着物も捲られる動作の類比になっている。

展覧会『ポーラ ミュージアム アネックス展2019 創生と技巧』

展覧会『ポーラ ミュージアム アネックス展2019 創生と技巧』を鑑賞しての備忘録
ポーラ ミュージアム アネックスにて、2019年3月20日~4月14日。

ポーラ美術振興財団による若手芸術家の在外研修助成制度に採択された作家を紹介する恒例企画(監修は木島俊介)。2019年後期は「創生と技巧」と題し、川久保ジョイ、池ヶ谷陸、木村恒介、柳井信乃の作品を展示。

柳井信乃《Happy and Glorious》について。

バッキンガム宮殿で"God Save The Queen"を独唱する作家の姿をとらえた映像に、本を囓るネズミの姿などを加えた映像作品《Happy and Glorious》と、映像に登場したネズミに囓られた本を展示している。

「動物の無言やナショナリズムといった他者性をテーマにして、社会に抑圧されている記憶―無意識の記憶にあるトラウマを、どのようにユーモアを使って解放できるかを探究し」た作品。

本を与えることでネズミとのコミュニケーションを図る。本を通じて、人と動物との間にある境界を乗り越えることが目論まれている。だが、本は読むものというルールの通用する人間と、本は囓るものというルールが支配するネズミとの境界は、本を媒介にすることでかえってクリアになり、その溝は深くなる。

イギリスにとって外部の存在である作者(「foreiner」と印刷されたTシャツを来ている)は、イギリス国歌を歌うことで、イギリスと自己との間にある境界を乗り越えようとする。イギリス国民にとって国民を統合するよう機能するはずの国歌は、外国人が歌うことによって(その発音によって)、その者の異質性を浮き彫りにしてしまう。国民連帯のツールは外国人を探知する装置へと変貌し、イギリスの国境がかえってクリアになってしまう。

文化が持つ排他的性格を明らかにするだけではない。2つの映像のアナロジーは、作者がネズミに与えられた本の役割を果たす結果、王宮の警備員を本をかじる(=作者を排除する)ネズミへと変えてしまうのだ。

展覧会『移植』

 

展覧会『移植』を鑑賞しての備忘録
無人島プロダクションにて、2019年3月28日~29日。

「死」と「再生」をテーマにしたグループ展。

ストレートに「死と再生」とを扱っているのは、風間サチコの木版作品《不死山トビ子》。噴火する富士山の前を駆け抜ける新幹線。列車にはねられたかのように舞う女子高校生・不死山トビ子。そして「GAMEOVER」の文字が。その下には上下を反転させた版木を置き、噴煙は「RESET」を描き、「GAMEOVER」はの文字も「WE LOVE」に置き換わっている(実際にはLOVEはハートマークで表されている)。カタストロフは再生となりうるが、死なくしては再生も難しい。

松田修4分33秒の間、カメラに向かって変な顔を作り続ける映像作品を上映。環境音から注意をそらさせることを目論むのか、鑑賞の笑いを作品に取り込もうと企むのか。無音の4分33秒は長く、顔の動きのヴァリエーションには限界がある。ジョン・ケージへのレクイエム(死)なのか、マッシュ・アップ(再生)は不明だ。

朝海陽子は街で見かけた忘れ物や落とし物を撮影した写真を展示。失われたもの(死)が帰ってくる(再生)という日本社会の特質を可視化した。

小泉明郎は自らの夢に出てくる(再生される)映像が幼時に見た特撮作品の映像であることに気が付いた。夢のイメージの断片を実際の特撮作品から切り取りつなぎ合わせ、そこに天皇明仁の即位礼の報道で流れた音声を加え、映像作品とした。文化の刷り込みがもたらす力を訴える。毒山凡太朗の《君之代》にもつながるテーマを扱っている。

八木良太エジソンが死者との交信を可能にする発明に取り組んでいたことに着目し、黒電話の受話器を用いた、非可聴域の音声受信機を出展している。過去の偉人の追求したテーマを自らの作品へと吸収することで、偉人の再生を図った。作者が関心を寄せるように、科学とオカルティズムとのつながりは面白い。インポッシブル・アーキテクチャー展(埼玉県立近代美術館)では、実現不可能な建築が新たな建築を生み出す土壌になったことが示されていたが、芸術における創造だけでなく、オカルティズムのような想像も、社会を変えていくきっかけとなっているのだろう。