可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

映画『よこがお』

映画『よこがお』を鑑賞しての備忘録
2019年の日本・フランス合作映画。
監督・脚本は、深田晃司
原案は、Kaz

美容師の米田和道(池松壮亮)はある日、初めて来店した客のリサ(筒井真理子)から指名を受ける。不思議に思う米田が指名の理由を問うと、亡くなった夫と同じ名前だからなどという。リサは仕事を辞めたので、豊かな黒髪をばっさりと切り、明るいブラウンに染めたいリクエストする。どんな仕事をしていたのかと尋ねて介護の仕事だと理解した米田がいろいろな家庭を見られて面白そうだと言うと、美容師だっていろいろな人の頭を見ているでしょうと返される。数日後、米田が仕事に出るついでに空き缶を出そうと集積所に行くと、リサに出くわす。近くのマンションに住むというリサから一人暮らしは何かと不安なので連絡先を教えて欲しいと頼まれた米田は、成り行きでそれに応じる。仕事に向かう米田を見送ったリサは踵を返し、あるアパートの一室へ向かう。そこは通りを隔てて、米田の部屋を臨む部屋だった。リサは殺風景の部屋で安酒を飲みながら、米田の動向を窺うのだった。
リサこと白川市子はかつて訪問看護師をしていた。市子が担当する中に、地元の美術館に作品が収蔵される画家・大石塔子(大方斐紗子)がいた。きめ細やかなサーヴィスを提供できる市子に、気むずかしい塔子は家族以上に信頼を置いていた。塔子の孫娘の基子(市川実日子)も市子の仕事ぶりに強い感銘を受け、介護福祉士を目指すほどであった。そんな基子のため、市子は資格取得のための勉強を手助けしてやってもいた。ある日、基子の妹で高校1年生のサキ(小川未祐)も、塾へ向かう前に数学を見て欲しいと市子に頼む。市子・基子・サキが喫茶店で机を囲んで勉強していると、あっという間に時が経ち、サキは慌てて塾へ向かう。そこへ市子の甥の鈴木辰男(須藤蓮)が母(市子の妹)の使っていない教材を持って来る。市子が基子の役に立てようと辰男に頼んでおいたのだ。次の日、塔子の定期検診のため、医師の戸塚健二(吹越満)とともに市子が大石家を訪問すると、母・洋子(川隅奈保子)の様子がおかしい。サキが昨晩、塾から帰宅していなかったためであった。

 

リサ/市子のストーリーが並列され、断片的に進行する。最初は十分に把握できないが、展開するにつれて、きちんと噛み合ってくる。見終わった後になって、基子が市子との関係について、進行中に思い描いていたのとは異なっていたことに気が付いた(ヘテロセクシャルのバイアスだろう)。

基子が市子を動物園に連れ出して語り合い、秘密を打ち明けあう。その内容が対照的なもの(陰=凹=隠れる・陽=凸=露わにする)になっている。そして、そこに図らずも明らかになった齟齬は、市子の手に基子が手を重ねるシーン、そして、基子が市子を置いて駆け出す、動物園からの帰り道の横断歩道のシーンにおいて、決定的なものとして表される。後者は、基子の暴走の予兆となる。
夜の公園での基子と市子との語り合い。基子にとって夜の暗い公園は、基子の打ち明け話に出て来た「押し入れ」に市子と入っているのと同じなのであった。

市子の抱く、押し入れの中で、男と抱き合うイメージ。それに対して、市子が、裸身を晒すのは、基子への相反する感情を表すか。

美術館のシーン。モンドリアンが描いたひまわりにリサが自らを投影する。リサが紹介するカタログで読んだ作品についての解釈。カクシャク(矍鑠)とハクシャク。当事者以外がつくるストーリー。そして、読み間違い(=誤解)に気付かない人々。

車は運転する本人の象徴。暴走する車両と「サイド」ミラーに映る横顔(プロフィール)。

「被害者」とは誰か。あるいは「加害者」とは誰か。被害を受けながら救われない人と、加害しながら裁かれない人々。被害・加害の相対化。

映画『ペット2』

映画『ペット2』を鑑賞しての備忘録
2019年のアメリカのアニメーション映画。
監督は、クリス・ルノー(Chris Renaud)。
共同監督は、ジョナサン・デル・バル(Jonathan del Val)。
脚本は、ブライアン・リンチ(Brian Lynch)。
原題は、"The Secret Life of Pets 2"。

ジャック・ラッセル・テリアのマックス(Patton Oswalt)とニューファンドランドの雑種デューク(Eric Stonestreet)が飼い主ケイティ(Ellie Kemper)と散歩していると、自転車で通りがかったチャック(Pete Holmes)が目の前で転倒してしまう。心配するケイティと目を合わせたチャックとは一瞬で恋に落ち、二人は結ばれる。小型犬のマックスは、以前は小さな子供の存在を快く思っていなかったが、ケイティとチャックとの間にリアム(Henry Lynch)が生まれると、その教育係を自認し、溺愛するまでになる。幼いリアムのことを心配するあまり神経症に陥ったマックスは、ケイティに動物病院に連れて行かれ、エリザベスカラーを付けられてしまう。それから間もなく、チャックはケイティ、リアム、そしてマックスとデュークを伴って、おじの牧場へと旅行に出る。その牧場は誇り高き牧羊犬ルースター(Harrison Ford)が取り仕切る世界だった。ところで、マックスは、牧場へ向かう前、同じアパートメントに飼われているポメラニアンギジェット(Jenny Slate)に蜂のおもちゃを託していた。ギジェットはマックスとの間の子供のようにそのおもちゃを大切にしていたが、うっかり階下の猫屋敷に落としてしまう。やはり同じアパートメントに住むウサギのスノーボール(Kevin Hart)は、飼い主のモリー(Kylie Hart)に正義のヒーローのコスチュームを着せられ、すっかりその気になっていた。そんなスノーボールのもとにシーズーのデイジー(Tiffany Haddish)が現れ、セルゲイ(Nick Kroll)のサーカス団に囚われたホワイトタイガーの救出を依頼するのだった。

 

動物の何気ない仕種の可愛らしさの前では、派手な冒険活劇は添え物に過ぎない。飼い主と動物たちとの日常を淡々と描いてもいいのではないかと思ってしまうが、ドタバタのストーリーがこれでもか展開する。しかも、愛玩動物、家畜、野生動物、サーカスに使われる動物のうち、サーカスの動物のみ「虐待=悪」として描かれ、他の動物の福祉についてはほぼ不問に付されている(動物病院のシーンはペットの問題点を若干指摘するものであるのかもしれないが)。ここまで動物と人間との関係を単純化することなく、もっと複雑な関係をコメディとして呈示することはできないだろうか。キャラクターの可愛らしさ、リアムとマックスやデュークの親しさなどに結局は持って行かれてしまうのが怖い。制作者の狙い通り、エンドロールに登場するスノーボールにも簡単にやられてしまうのだ。

展覧会『TOKAS-Emerging 2019 第1期』

展覧会『TOKAS-Emerging 2019 第1期』を鑑賞しての備忘録
トーキョーアーツアンドスペース本郷にて、2019年7月20日~8月18日。

公募で選出した、谷崎桃子、砂田百合香、小田原のどかの作品をそれぞれ個展形式で紹介。

 

谷崎桃子『lonely girl もう時間』について。
7点の絵画と1点の立体作品に加え、《第三者としてのオブジェクト》と題された4点の立体作品を展示。
《2010.5.29 I believe》を除き、モノクロームを中心に部分的に色彩が加えられた、落ち着いた雰囲気の作品群。布(ヒョウ柄)、眼鏡(レンズ)とシガレット(立ち上る煙)が、複数の作品で用いられるモチーフ。
ヒョウ柄の布はカムフラージュのように画面に溶け込む。否、ヒョウ柄の世界に人やモノが取り込まれているのだろう。布、柄、毛皮。ヒョウは縁語のように「表(ヒョウ)」面をたぐり寄せる。タブロー(=絵画)は「表」である。ディスプレイという表面に覆われた世界の表象としての絵画。
描かれた眼鏡のレンズには、人物や風景が映り込む。2枚のレンズには異なる光景が表され、眼鏡が置かれた状況からはずれたイメージが描き込まれている。レンズが映し出す二重のズレ。眼前の出来事をディスプレイ越しに見やる現実の象徴か、あるいは、「色眼鏡」(=主観)による世界把握の表象か、はたまた複眼的思考の謂か。
《第三者としてのオブジェクト》にはコンクリートやガラス、あるいは魚も含む。とりわけ花や灰皿の存在は、絵画にも描かれているため、絵画の平面性や虚像としての性格を際立たせることになる。紫煙は絵画の儚さを虚ろさの象徴とも言える。だが、煙の存在を定着させる絵画の力も同時に誇示する。その反転可能性は、《After falling love》の倒立した女性像にも表されている。

映画『天気の子』

映画『天気の子』を鑑賞しての備忘録
2019年の日本のアニメーション映画。
監督・原作・脚本は新海誠

ある島に住む高校1年生・森嶋帆高(醍醐虎汰朗)は、東京で自活することを企てる。東京へ向かうフェリーに乗船した帆高は、猛烈な降雨が予測されることから甲板から立ち退くようアナウンスが流れると、帆高は、船内に戻る人の波をかき分けて、一人甲板に向かう。予測通り、バケツをひっくり返すような雨が甲板に落ちてくる。突然船が傾き、帆高は船外へ放り出されそうになるが、男(小栗旬)に手をつかまれ、辛うじて難を逃れた。「命の恩人」を自称するその男に食事やビールをたかられた帆高は、下船の際、東京で困ったことがあれば連絡するようにと名刺を渡される。そこには「A&Kプランニング 須賀圭介」とあった。新宿のネットカフェを拠点にアルバイト先を探す帆高だが、16歳の家出少年に仕事は見つけられなかった。ネットカフェの利用料を払うのも厳しくなった帆高は、雑居ビルの片隅で雨露をしのいでいたところ、男(木村良平)に蹴り出される。その際ゴミ箱から散乱した中に拳銃が入っている袋を見つける。3日間マクドナルドで凌いでいると、帆高の困窮を見かねた女性クルー(森七菜)からハンバーガーを渡される。東京に出て以来つらいことばかりだった帆高は、幸福を感じて味わうのだった。その後、偶然、その女性が手を引かれてホテルに連れこまれるのを目撃した帆高は、一飯の恩義に報いるためにも意を決して彼女を救うことにする。男は先日帆高を蹴り出した男で、意趣返しと勘違いした男は、帆高に馬乗りになって殴りつけた。帆高は拳銃を取り出し、発砲してしまう。男が発砲にあっけにとられている隙に、女性は穂高を引っぱって走り出すのだった。

 

雨が延々と降り続き、夏に雪が降る「異常」気象を描くことで、正常と異常との境界、そしてその絶対性に疑義を呈する寓話。

気象を「異常」とする基準とは何か。近代になって始められた観測のデータだ。「観測史」とはせいぜい百数十年という短期間である。だが、天気そのものは比較にならない長さで持続してきた現象だ。たどすれば、わずかな資料で「異常」を判断することは妥当と言えるだろうか。
例えば、田端駅などを通るJR京浜東北線の線路は、縄文海進の際の海岸線に一致する。海岸線は、地質学的レベルで俯瞰すれば、移ろうものである。巨視的な観点で考えれば、基準は変化するのだ。
ところで、家族とは何か。現在、家族制度を規制(線引き)する法は、やはり近代になって導入された仕組みである。徴税や徴兵、その他近代国家を支えるユニットとして近代的な家族制度は創設されたものであって、現在の家族法も、数次の改定を経たものであるとはいえ、原則、近代的な国家制度の枠組みにある。すなわち、現行の家族法が、普遍的な家族のかたちを定めたものではないのである。法規が守ろうとするのとは異なるかたちの家族もありうるのではないか。両親を失った姉弟の自活や、養育権を失った父親の子への愛情などを描くことを通じて、正常な家族と非正常な家族との間の線引きを問う。是枝裕和監督の『万引き家族』が扱ったテーマである。

森美術館で開催中の塩田千春の個展『魂がふるえる』でも、家族制度などのつくる壁がテーマの1つとして掲げられていた。また、塩田千春の展示で示されていた反転可能性は、含まれる水の量から積乱雲が巨大な水圏(生態系)であることを指摘する『天気の子』と共鳴する。

展覧会 塩田千春個展『魂がふるえる』


展覧会『塩田千春展:魂がふるえる』を鑑賞しての備忘録
森美術館にて、2019年6月20日~10月27日。

大がかりなインスタレーション《不確かな旅》、《静けさのなかで》、《集積:目的地を求めて》をはじめ、塩田千春の活動を網羅的に回顧する企画。

冒頭は、金色の腕が手の平に鍵を受けている立体作品《手の中に》。赤い糸を縫い込んだ絵画を壁面に並べた狭い通路を抜けると、赤い毛糸が張り巡らされた空間に出る。《不確かな旅》と題された巨大なインスタレーションは、黒い鉄で出来た大小形の異なる6艘の舟それぞれに赤い糸が搦み合うように張り巡らされ、壁面や他の舟との間にヴォールト状の形を生み出している。
続くのは「クロノロジー」と題されたコーナー。幼稚園児の際に描いたひまわりの絵から始まり、絵画の制作から《絵になること》を皮切りにパフォーマンスへと移行した大学時代、アブラモヴィッチなどの女性アーティストに影響を受けた留学時代、ドイツを拠点にして以降のベッド(《眠っている間に》)やドレス(《アフターザット》)を用いた活動がアーカイヴとして紹介される。
巨大な円柱を赤と黒の糸で巻いた《赤と黒》、様々なオブジェを赤い糸で結んだ《小さな記憶をつなげて》などを挟み、焼け残ったピアノや椅子と黒い糸とを組み合わせた大規模なインスタレーション《静けさのなかで》が展示されている。
鏡(《時空の反射》)や窓(《内と外》)を用いたインスタレーションが並び、その先には舞台美術のアーカイヴがある。
最後は、多数のスーツケースを赤いロープで吊るした《集積:目的地を求めて》を展示する空間。手前から奥に向かってロープの長さが徐々に短くなり、徐々に高い位置に浮かんでいく。そのまま冒頭の《不確かな旅》へとつながっていくようである。ドイツの小学生に魂について尋ねたインタヴューをまとめたヴィデオ作品が展覧会の掉尾を飾る。

 

すべて生命、生と死とをテーマにした作品だ。

幼稚園児の際に描いた《蝶がとまっっているひまわり》の筒状花(ひまわりの花の中央部)の赤茶色、大学時代に描いた最後の絵画《無題》に塗られた深紅、オーストラリア留学を経て行ったパフォーマンス《絵になること》での赤いアクリル塗料、《DNAからDNAへ》と題した大学で行ったパフォーマンスで試用した赤い糸と、赤色と赤い糸が、初期作品から血管を可視化した映像作品《ウォール》などを経て、《不確かな旅》などの現在の作品まで続いている。
へその緒、灰、糸を用いたインスタレーション《物質としての存在のありあり方》や、鶏卵の周りに牛の顎骨を並べた《私の死はまだ見たことがない》などは生と死との連環をテーマにしている。
荘子の「胡蝶の夢」を題材にした《眠っている間に》は、ベッドを糸で編み込んでいった作品。実際にベッドに人を横たわらせて、眠っている姿を現実と夢との狭間として表したという。糸で繭のようにくるむ仕種は、蛹の表象であり、新たな生への変移でもある。すると、燃やされたピアノや椅子を黒い糸でつなぎ合わせた《静けさのなかで》も、死(燃やされた物体)を繭のようにくるむことで、再生へと接続させるようだ。
《内と外》は木製の窓を壁のように並べた作品。これは生物を表すのだろう。生物が壁をつくることで内部と外部とを隔て周囲に広がる環境から自らを守りながら、外部との接続を保たなければ生命の維持を図ることができないことの表現と考えられる。

《土の中》という絵画では、地上(=見えているもの)と地下(=見えていないもの)とのつながりを示していた。作者は、見えないものを見えるようにした。ならば、鑑賞者は、作者のサジェスチョンに従い、作品の見えるものから、何が見えなくなっているのかを考えるべきだ。《集積:目的地を求めて》で赤いロープに吊るされたスーツケースは、モータによって、波間に漂うように揺れていた。波止場に立つと耳に入る、チャプチャプとした音が聞こえるようだ。見えていないものは水であった。冒頭の《不確かな旅》から舟が設置されていたではないか。会場を水が絶え間なく循環している。この展覧会は、塩田千春の枯山水すなわち宇宙であった。