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芸術鑑賞の備忘録

展覧会 江原梨沙子・岡部千晶2人展『ARCADIA』

展覧会『江原梨沙子・岡部千晶2人展「ARCADIA」』を鑑賞しての備忘録
MASATAKA CONTEMPORARYにて、2020年7月25日~8月14日。

ARCADIA」と題して、江原梨沙子と岡部千晶の絵画を紹介する企画。

江原梨沙子の作品は、「山水画」の形式を用いたシリーズ、パブロ・ピカソの描いたマルガリータ王女をテーマとしたシリーズ、ショーヴェ洞窟壁画に触発されたシリーズという3つのシリーズから構成されている。これら多様な作品群が「アルカディア(ARCADIA)」のもとにどのように統合されているのだろうか。
大辞林〔第4版〕で「アルカディア」は「古くから牧歌的理想郷の代名詞とされた」と説明されているように、アルカディアとは、牧歌的理想郷である。

 そもそもアルカディアとはギリシアペロポネソス半島中央に位置する山岳地帯の名称である。北はアカイア、西はエリス、東はアルゴリスそして南はラコニアとメッセニアに接していて、アルフェイオス川が流れ、支流も多く分岐している。流域はやや肥沃だが国土全体がほぼ山で占められ、牧畜が主力であり、アルカディア人は羊飼いが多く、音楽が好きで、牧神パンを地神として崇めている。(略)
 (略)アルカディアの地に自分たちの歌のテーマをおいたのはオウィディウスウェルギリウスであり、その作品のなかでアルカディアを、いまやついえた黄金時代に無垢な牧人が住む夢幻郷としてつくりだしたのである。とりわけウェルギリウスにあっては地図上にある現実の国というより心のなかにある国そのものであった。その『牧歌』はアルカディアをつむぎだし、西欧文化を縦断して今日に至る生きる伝統にまでなった。(中島俊郎『英国流 旅の作法 グランド・ツアーから庭園文化まで』講談社講談社学術文庫〕/2020年/p.66-67)

本来は実在の地域を指していたアルカディアは、例えば吉野が歌枕とされたように、ヨーロッパの詩人が歌い上げる中で理想郷へと変じていった。他方、東洋において一種の理想郷を描いたのが山水画であった。

 一般に東洋では、中国で漢代に興った「山水画」が、東アジアの諸地域に伝播して、風景の表現が各様に展開したと考えられている。「山水画」とは文字通り、山岳・渓谷や河水の自然景観を主題にした絵画の一ジャンルである。「神仙の住む場所としての山岳(名山)をあらわす、観念的、象徴的な形態から出発」した中国山水画は、同郷の神仙思想と密接な関わりをもって展開してきた。日本の風景表現は、この中国山水画を直接学び模倣することから出発した。奈良時代、8世紀ころのことである。この時代は、日本の風景自体が絵画の主題に取り上げられることはなかった。もっぱら、当時の絵師は、請来された中国の絵画を直接模写し、あるいはそれらを粉本にして絵を制作していたと推定される。(横浜美術館学芸員編著『明るい窓:風景表現の近代』大修館書店/2003年/p.28〔柏木智雄執筆〕)

江原が現代的景観を山水画に落とし込んだ作品群は、アルカディア的表現と言えるのだ。

金魚を眺めたり、燃えるキリンを眺めたりするマルガリータ王女の肖像のシリーズは、パブロ・ピカソの描いたマルガリータ王女のシリーズに影響を受けて制作されたものだという。ピカソの制作のきっかけには、幼いマルガリータ王女が暮らした宮廷で活躍したディエゴ・ベラスケスの作品があった。幼い王女の姿に、アルカディアを見出すことは不可能ではない。

 現代でも牧歌はそのアルカディアを子供のなかに求め、存続している。機械文明のなかで田園を子供のなかに見出したのである。
 子供は汚れをしらず新鮮な自然であると当時に、個人にとって幼児期は無垢な時代というわけである。羊飼いである子供は、アルカディアという場所よりも時間の世界で生きはじめたわけだ。このふたつの側面が牧歌の一変形としての子供崇拝を枠組みとして機能し、現代文化のなかでひとつの表象としての位置をしめるようになっている。(中島俊郎『英国流 旅の作法 グランド・ツアーから庭園文化まで』講談社講談社学術文庫〕/2020年/p.78-79)

田園風景を見出すことは無理としても、宮廷という狭い空間にとらわれて幼少期を過ごした王女に「無垢な時代」を投映することは可能だ。ベラスケス、ピカソ、そして江原へと時代を超えて描き継がれる中で、マルガリータの穢れの無さは純化され、アルカディア化されていったとも言えよう。ここで江原は、マルガリータをガラスの鉢にとらわれた金魚を眺める姿として描くことで、自由を奪われた衆人環視の存在としてのマルガリータを浮き彫りにし、男性による一方的な理想化という一種のまなざしの暴力さえ描いて見せている。

現在知られる中では最古級の絵画であるショーヴェ洞窟壁画をテーマとした作品は、洞窟という閉鎖環境である点、また、原始時代という文明の発達前の自然に近い状態という点で、アルカディア的と言えよう。野菜の入っていた段ボールを支持体に採用しているのは、かつて中身が入っていた段ボール「箱」に洞窟としてのイメージを重ねるとともに、生活と絵画との密着を示すためであろう。幾星霜を耐えてきた壁画の持続性を、段ボールの一時的な存在と対比させることで現代文明のはかなさを強調する意味合いもあるのかもしれない。この壁画をテーマとしたミクストメディアの作品2点には《Astronomical observation》というタイトルが冠されている。天体観測も天球という想像上の壁を眺めるものであり、他方、洞窟壁画も暗闇を見上げるものである点では、両者に類比が認められる。何より、星々を繋げて動物を描いてみせるのは、原始時代からの変わらぬ人々の習性とも言えるのである。さらに、このミクストメディアの作品には、壁画のイメージを表すとともに、鏡のように機能する銀色のパーツが埋め込まれている。鑑賞者が画廊という洞窟にいることを気付かせる装置であろうか。または、山水画において鑑賞者のアヴァターとして機能する画中人物が描かれる機能を、鑑賞者を映す「鏡」に代替させ、鑑賞者をアルカディアを遊歩させる仕掛けであろうか。あるいは、マルガリータの眼に映じた金魚鉢の自己像を追体験する拵えかもしれない。いずれにせよ、作品世界に鑑賞者を引き込むためのものであることに間違いはなさそうだ。

岡部千晶は、異形の存在を含めた多様な生物が跋扈する世界を描く。中には人類滅亡後の世界を牛耳るキツネのような生物の肖像《世界のなりたち》や、鳥・ペンギン・ヒトのキメラ的生物が武力支配する海岸を描いた《進化の岸辺》といったポスト・アポカリプス的作品もあり、ホモ・サピエンスにとっての牧歌的理想郷を過去に投映しようとする「アルカディア」からは明らかに外れていよう。但し、本来的なアルカディアが一種の逃避的ユートピアであるとするなら、虚構世界における思考実験として、アルカディアを包摂する広義のユートピアの呈示と解することは可能である(ユートピアの定義については、菊池理夫「ユートピアの終焉?:ユートピアの再定義に向けて」『法学研究:法律・政治・社会』1994年12月号(第67巻第12号)p.181-188参照)。異種間の性愛をテーマとした《ささやかなzoo》や、獣頭人や人魚や直立歩行の烏賊など多様な存在がプールという水を湛えた地球を象徴する場で共楽する《pool》などからは、生命誌的観点から自然史を捉え直し、主体を人間から生命へと拡張したユートピアが窺える。村田沙耶香と松井周の原案による舞台『変半身』と響き合う世界観である。

展覧会 藤野麻由羅個展『回遊庭園』

展覧会『藤野麻由羅展「回遊庭園」』を鑑賞しての備忘録
アートスペース羅針盤にて、2020年8月3日~8日。

表題作《回遊庭園》など庭ないし池水をテーマとした絵画で構成される藤野麻由羅の個展。

薄墨の太い輪郭の丸みを帯びた形で前栽や石などを捉え、淡い色使いも相俟って、琳派中村芳中を思わせる柔らかな印象を持つ作品群。どちらかと言えばファンシーな画面の中で、池水が墨で表現されているのが特徴的。無論、《冴ゆる夜の》のように夜の情景であれば黒い水面は必然であろうが、《池泉庭園》など他の作品でも水を黒く表しているものがある。小さな池に花が浮かぶ《庭の星》と題された作品から、水面を天球に見立てる狙いがあるのだろう。《池泉庭園》に描かれる「八橋」は、光琳のものよりは、北斎の諸国名橋奇覧の造形に近い。だが、同じく伊勢物語をテーマにした「禊図」を想起させるようなジグザグを描く八橋は、橋脚がなく浮遊するように描かれる。この浮遊感覚にも池水と宇宙との類比が認められよう。《上の庭》、《回遊庭園》、《池泉庭園》、《冴ゆる夜の》、《庭の星》といった庭ないし池泉を描いた作品が、画面の橋の図像などで緩やかに結び合わされ、会場が回遊式庭園に見立てられている。回遊式庭園は江戸時代になって生み出されたものだそうだが(進士五十八『日本の庭園 造景の技とこころ』中央公論新社中公新書〕/2005年/p.44)、時代的にも琳派芸術との相関性が認められる。

映画『カラー・アウト・オブ・スペース 遭遇』

映画『カラー・アウト・オブ・スペース 遭遇』を鑑賞しての備忘録
2019年製作のポルトガルアメリカ・マレーシア合作映画。111分。
監督は、リチャード・スタンリー(Richard Stanley)。
原作は、H・P・ラブクラフト(H. P. Lovecraft)の小説「宇宙からの色(The Colour Out of Space)』.
脚本は、リチャード・スタンリー(Richard Stanley)とスカーレット・アマリス(Scarlett Amaris)。
撮影は、スティーブ・アニス(Steve Annis)。
編集は、ブレット・W・バックマン(Brett W. Bachman)。
原題は、"Color Out of Space"。

 

水文学者のウォード・フィリップス(Elliot Knight)は、ダム建設の環境調査のため、アーカム西部にある森を訪れていた。森を貫流する川の岸辺で、辺りに護符や結界らしきものを飾り付け、少女が一人、祈りを捧げている場面に遭遇する。少女の名はラヴィニア・ガードナー(Madeleine Arthur)。秘術を記した『ネクロノミコン』に基づいて、ミカエル、ガブリエル、ラファエル、アウリエルの四大天使の名を呼び、癌に冒された母テレサ(Joely Richardson)の恢復と、自らの自由とを祈っていた。ウォードに気が付いたラヴィニアは慌てて儀式を中断する。ウォードに川のこちら側は私有地だと告げ、儀式が無駄になってしまったとぼやいて、白馬に乗って去る。ラヴィニアが帰宅すると、ポーチに父ネイサン(Nicolas Cage)が座っていて、ヘルメットを付けずに乗馬していることなどラヴィニアに小言を言い、テレサに見つかる前に馬を厩舎に入れるよう言いつけるが、既にテレサはポーチに出てきてラヴィニアを見咎めていた。馬を連れて厩舎に向かったラヴィニアは、「葉っぱ」の味を覚えたベニー(Brendan Meyer)を見つけ、馬の世話を任せる。夕食はネイサンがフランス風の煮込み料理を用意する。テレサの療養のため、ネイサンは一家を引き連れてかつて父親が暮らしていた地所に移り住み、トマトの栽培やアルパカの飼育を行っていた。ラヴィニアは田舎暮らしを受け入れられず、ファーストフードの味を恋しがる。テレサは投資顧問をしており、ネットでの顧客のやり取りが延びたため、遅れて食卓に着いた。まだ母親に甘える年頃の末っ子のジャック(Julian Hilliard)は、皿洗いの当番だと言われて不満を漏らす。ジャックが眠りにつき、ベニーが宇宙についてネットで調べ、ラヴィニアがベッドで『ネクロノミコン』を広げ、ネイサンがテレサを愛撫している最中、強い光が屋敷を包み込む。驚いたジャックは母親のもとへ行こうと寝床を抜け出す。轟音が響き渡り、ネイサンとテレサは慌てて部屋を出ると、廊下にいて動揺しているジャックに気が付く。前庭には強い輝きを放つ何かが墜落していて、周囲には異臭が漂っていた。翌朝、ネイサンの通報を受け、保安官のピアース(Josh C. Waller)がトゥーマ市長(Q'orianka Kilcher)を連れて視察に来た。トゥーマ市長は東海岸の飲料水を供給するための大規模なダム開発を推進していた。近くの森でキャンプしていたウォードも駆け付け、落下物は隕石だろうと判断する。ネイサンはウォードから遠ざけようとラヴィニアにテレサのもとに行くよう言いつける。ラヴィニアはテレサからウォードの腕の中に倒れ込まんばかりに気がある様子が見て取れると言われて傷つく。ウォードはベニーの案内で、森で暮らすヒッピーのエズラ(Tommy Chong)のもとを調査のために訪れる。元電気技師だというエズラは小屋の付近に監視カメラを設置していた。ベニーとウォードとを迎え入れたエズラは、「隕石」についても既に把握していて、「ジャワ」だと言って濁った水を差し出す。ウォードは水道管の錆を疑うが、水道ではなく井戸水だというエズラに、水質検査を申し出る。井戸の傍に見慣れない真っ赤な花が咲いたり、通信障害がひどくなったりと、「隕石」の落下から、ガードナー家に異変が続き、それに伴って家族の精神にも徐々にきしみが生じ始めていた。

 

森の情景の描写に重ねられるウォード・フィリップス(Elliot Knight)の語りには、魔女の話題が取り上げられ、続くウォードとラヴィニア・ガードナー(Madeleine Arthur)の邂逅では、ラヴィニアの「儀式」が描かれる。魔女と森との結びつきから、ダム建設という環境(森林)破壊に対する自然(森林)の側からの報復という要素は考えられていよう。また、宇宙からの色(The Colour Out of Space)という表現に不可視の存在の影響力を読み取り、「隕石」の落下をもって放射能漏れの象徴と捉えることも可能だろう。だが、それよりも、母親の病気のような1つの変化をきっかけに、それまでの家族の関係が変容し、破綻するという要素の方が強く前面に出ている。そして、安易な救済が存在しない潔い作品である。
家族の「変容」の描写も含め、見る人を選ぶ作品ではある。
家族の引っ越し、森、小説原作の映画として、2019年にケヴィン・コルシュとデニス・ウィドマイヤーとが監督した『ペット・セメタリー』と比較して見るのも一興だろう。

映画『ウルフ・アワー』

映画『ウルフ・アワー』を鑑賞しての備忘録
2019年製作のイギリス・アメリカ合作映画。99分。
監督・脚本は、アリステア・バンクス・グリフィン(Alistair Banks Griffin)。
撮影は、カリッド・モタセブ(Khalid Mohtaseb)。
編集は、ロバート・ミード(Robert Mead)。
原題は、"The Wolf Hour"。

 

1977年7月。ニューヨークのサウスブロンクスにある古いアパートメントの一室。様々なモノが室内を埋め尽くし、出せず仕舞いになっているゴミ袋からは悪臭が漂っている。アメリ東海岸を襲う猛烈な熱波のために茹だるような暑さが続く中、ベッドではジューン・リー(Naomi Watts)が大量の汗をかきながら眠っている。不意にインターホンの音がけたたましく鳴る。眠りを妨げられたジューンが応答して声をかけるが、聞こえてくるのは雑音だけ。窓から身を乗り出しアパートメントの入口を眺めるが、人影は確認できない。テレビやラジオは、犯行をほのめかして社会を震撼させている「サムの息子」を名乗る連続殺人犯や、荒廃が進むサウスブロンクス一帯で散発する不審火など、不穏なニュースを伝えていた。ジューンは『家長(The Partriarch)』という小説で一世を風靡した作家だが、その小説をめぐって不幸な出来事が起こった。一族とは縁が切れて、祖母の暮らしていた部屋に隠遁して一歩も外に出られない状態に陥っていた。家賃の取り立てに来るギャングにはドアの下から紙幣を忍ばせ、食料品やタバコはメキシコ人のグローサリーにデリバリーを依頼していた。ゴミを出そうと窓からロープで下ろすと、途中でゴミ袋の重さに持って行かれたロープで手のひらを怪我してしまい、消毒して包帯を巻く処置をとる。インターホンが鳴る。グロサリーの配達だった。いつもと違う黒人の男はフレディ(Kelvin Harrison Jr.)と言った。ドア越しにやり取りをして、16ドル少々の支払いに20ドル紙幣を渡す。釣りは出せないと言う。持ち歩かないのかと尋ねると、ここらの治安を考えろと返される。釣りはいいと告げて紙袋を受け取り去らせるが、引き留めてゴミを出させることにする。駄賃を要求するフレディーに今渡したと告げるが、それは配達のチップだと、3ドルを要求される。結局、洗面台を使って汗を流させることでゴミ出しを引き受けさせることに。去り際に配達の前にもインターホンを鳴らしたかと尋ねると、何のためにそんなことをと否定される。生活費が尽きようとしていた。担当編集者に電話をして再度の前借りを頼むが、既に一冊分は渡してある、いつ仕上がりそうかと言われ、1ヶ月ほどでと答えると、楽しみにしていると電話を切られる。やむを得ず作家仲間のマーゴット(Jennifer Ehle)に電話をかけ、やはり再度となる無心を依頼する。都会を離れて暮らすマーゴットはジューンが治安の悪いサウスブロンクスに未だ滞在していることに驚きつつ、無心には応じて手渡しにいくという。ジューンは仕事で家にいないと断るが、押し切られる。インターホンが鳴り、マーゴットが現れる。最初はドアでやり取りをしていたが、ついに部屋に招き入れる。マーゴットは部屋の惨状に驚き、部屋の片付けをしようと言い出す。

 

昼夜構わず突然鳴り響くインターホンのブザー、テレビやラジオから流れてくる恐ろしい犯罪のニュース、窓の外には屯する柄の悪い連中、そして熱波による耐え難い暑さ。それらが神経をすり減らした女性の作家ジューン・リー(Naomi Watts)を追い詰める。
祖母の部屋はジューンが救いを求めた祖母との思い出の空間であり、ジューンにとっては唯一の避難所として機能している。ジューンは外に出ることが出来ないため、祖母の部屋を舞台とした演劇作品のような作品となっている。その空間には、古びて乱雑でありながらも、抑えられた明度と色調とによって、どこか祖母の品位や庇護を感じさせる秩序が辛うじて残されている。

展覧会『雨足に沿って 舵をとる』

展覧会『雨足に沿って 舵をとる』を鑑賞しての備忘録
アキバタマビ21にて、2020年7月4日~8月9日。

大崎土夢、小山維子、千原真実、堀田千尋、松本菜々による展覧会。


松本菜々《黒潮(椰子の実)》について

壁面に掲げられたパネルは、左端が縦に銀色で塗りこめられ、左上の約9分の1の区画には椰子の木の林を水色でメッシュ状に雨に煙るかのように描き、その他の部分はやや色味の異なる水色で埋められている。絵画の右手には、少しだけ距離を離して黒い布が貼られ、余った部分が床の前の鉄枠へゆったりとかけられ、さらに残りの部分が床へと垂らされている。黒い布が敷かれた部分から少し間を空けて水色のアロハシャツとその脇に椰子の実が置かれている。さらに光沢のある糸がその先に置かれている。

 「名も知らぬ遠き島より流れ寄る椰子の実一つ……」の歌は島崎藤村が愛知県渥美半島の先端伊良湖岬に流れ着いたココヤシの実の話を友人の柳田国男から聞いたことがヒントになってつくられたものである。(中西弘樹『漂着物学入門 黒潮のメッセージを読む』平凡社平凡社新書〕/1999年/p.12)

タイトルの《黒潮(椰子の実)》から判断して、絵画の椰子の木から落ちた実が海に入り、黒潮の流れに乗って遠く離れた高緯度の海岸に漂着した様子を表すのだろう。椰子の木の繁茂する海域から沿岸流に乗って黒潮へという流れをキャンバスとそれから少し離れた黒い布で、黒潮の流れと距離とを黒い布の屈曲で、漂着元と漂着先とを壁と床という異なる平面で、漂着先の海岸に寄せる波をアロハシャツで、それぞれ表す。汀の高い位置にまで打ち寄せた波の跡を糸で表現するのも心憎い。

 漂着生物の中にはココヤシやオウムガイなど、その生物の繁殖圏を越えて漂着してくるものも少なくない。とくに日本列島は沿岸を黒潮が流れているので、たえず熱帯や亜熱帯から南方の生物が供給されている。海流の状況が現在のものとあまり変わりなければ、過去においても同じように漂着していたと考えられる。(中西弘樹『漂着物学入門 黒潮のメッセージを読む』平凡社平凡社新書〕/1999年/p.39-40)

漂着物は海からの贈り物として、かつては人々の生活の中に組み込まれていた。

 日本は周囲を海で囲まれた島国であるため、そこに生活する生物もヒトも海からいろいろな影響を受けている。陸上動物であるヒトは海岸を通して海とかかわり合いをもってきた。海岸には海藻、海産動物のほか、木切れやゴミなどいろいろな物が打ち寄せられている。これらは遠く外国から漂流してきたものもあるし、航海中に時化にあって難破したり、積み荷がくずれて流れてきたものもある。いずれにしても、海辺にすんでいる人たちにとっては、これらの漂着物は海からの贈り物であり、古くから生活物資として利用してきた。とくに沿岸にすむ人びとにとっては、毎日の薪から、ワカメ、テングサなどの海藻や魚介類、さらに日用品や道具類、あるいはそのものになる原料、材料など生活に役立つあらゆるものを漂着物から得ていた。したがって、毎日海岸を歩いて漂着物を探すことは大切なことであり、浜歩きとか磯まわりなどと呼ばれていた。(中西弘樹『漂着物学入門 黒潮のメッセージを読む』平凡社平凡社新書〕/1999年/p.47-48)

また、「漂着」するのはものだけではない。人もまた海の向こうから姿を現す。

 ハーンのこのエピソード〔引用者註:加賀浦の村での村人とラフカディオ=ハーンとの間の、交換を通じた暗黙のコミュニケーション、一種の「沈黙交易」〕は、私に、遠く太平洋を隔てた南米チリの荒れ果てた海岸イスラ・ネグラに後半生を過ごした、意識の航海者である詩人パブロ・ネルーダの、自伝における次のような少年期の回想をすぐに連想させる。

あるとき、私の家の裏で私の世界の小さな物やちっぽけな生き物を探していて、垣根の板に穴を一つ見つけた。その隙間を通して見ると、私の家の土地と同じような耕していない自然のままの土地が見えた。私は数歩あとへさがった。何かが起こりかけているのが漠然と分かったからだ。突然、一本の手が現れた。私と同じ年ごろの男の子の小さな手だった。私が近寄ったときには、手がなくて、その場所にちっぽけな白い羊があった。それは色あせた毛の羊だった。羊を滑らせるための車輪はとれてなくなっていた。そんなにきれいな羊は、私はそれまで一度も見たことがなかった。私は自分の家へ引き返し、代わりの贈り物をもって戻ってくると、それを同じ場所に置いておいた。それは開きかけた松かさで、私が大好きなものだった。男の子の手はもうどこにも見えなかった。あんな子羊はそれ以来もう二度と見たことがない。それは火事でなくなった。そして、この年になったいまでもなお、おもちゃ屋のまえを通るときには、私はこっそりショーウィンドーを見る。だが、その甲斐はない。あんな子羊はもうまったくつくられていないのだ。

ネルーダの父親は、鉄道員としての砂利列車の運転を任されていたが、父親とともに鉄路に沿ってチリ南部のアラウカニア地方の町々を移動した幼少期のネルーダにとって、ガラスの針のような雨が一年中降り注ぐこの地帯の家は、まるで港にたどり着きかねて冬の大洋をただよう一艘の貧弱な船のような姿に見えた。仕上げられていない部屋、未完成の階段。野営地のような仮設の家とその裏手にある垣根で囲まれた小さな庭で、こんな少年たちの「沈黙交易」がひそやかに営まれていたのである。顔のない、小さな浅黒い手だけがわずかに介在するだけの、この贈与交換の儀礼――。そこで、白い羊の玩具と開きかけた松かさという、お互いに予想もしない「寄物」は、人間の意識の汀に寄りついてくる漂流物のようにして、群島としての無垢の魂の波打ち際にあるとき漂着する。ネルーダにとってのアラウカニア地方の家や庭が、つかのまの寄留地にしか見えなかったように、あるいはハーンが描写した日本海沿岸の浦浦の家が廃船で組み立てられたようなかりそめの構造物としか見えなかったように、こうした沈黙交易の現場では、地所も所有物の転変も、すべては自然界からの贈与の環によって律せられていた。そこで「所有」することは、「与える」ことの連鎖によって成立する信の構造に裏打ちされるような何かであるにすぎず、それ以上のものではかったのである。
 ブロニスラフ・マリノフスキーが、フィールドワークにもとづく近代人類学の先駆として、1922年に刊行した著作『西太平洋の遠洋航海者』で詳細に描き出したトロブリアンド群島の島伝いに成立する贈与交換の環「クラ」の構造もまた、所有という観念が、無私の贈与がもたらすコミュニケーションへの信頼によって裏打ちされていた世界の構成原理であった。そこで所有することは、寄りつくものをいただき、ふたたびそれをどこかに向けて与えてゆくという行為の連鎖にほかならなかった。群島世界では、異人はその世界に神話的贈与をもたらす「寄留者」であり、汀に流れ着く異物もまた異世界からの神秘的な「寄留物」「寄物」として深い信仰と崇拝の対象にさえなった。(今福龍太『パルティータⅡ 群島-世界論』水声社/2017年/p.57-59)

「漂着」ないし「無私の贈与」とは、命を与えられることそのものだ。是枝裕和は『空気人形』(2009年)で、偶然に命(=心)を持ってしまった男性用の性欲処理人形(空気を入れて膨らませる構造のもの=「空気人形」。ラブドール)を描くことで、人もまた命を与えられてしまうものであり、風に吹かれる(『創世記』第2章第7節における「命の息」を連想させる)タンポポの綿毛に漂着する生命、生命の無私の贈与を象徴させた。また、生の充実を水滴(雫)やガラスの輝きに重ね、空気人形とある少女との間での一種の「沈黙交易」を行わせている。《黒潮(椰子の実)》もまた、漂着する椰子の実に、「無私の贈与」としての生命が重ね合わされており、この作品の呈示自体が観客との間の非言語的なコミュニケーション(=「沈黙交易」)として機能している。