可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会 秋吉風人・田中和人二人展『あれか、これか』

展覧会『秋吉風人/田中和人「あれか、これか」』
KAYOKOYUKIにて、2020年7月4日~8月2日。

秋吉風人と田中和人の二人による絵画展。両者の作品を交互に並べて紹介している。

秋吉風人の作品は、左右に画風の異なる作品を繋げた絵画。鑑賞者は画面の左右を眺めて、これが一つの作品である理由、すなわち左右の連関を想像しないわけにはいかない。左右で異なるデザインは、着物、漆器、焼き物など工芸の分野では「片身替り」として古くから見られる技法である。着物の場合、当初は生地の不足を補う実用的な理由もあったのだろう。川や橋が此岸や彼岸の境界を象徴するのなら、「片身替り」には両者を併存させることで対岸へのまなざしを日常に持ち込む、日本流の"memento mori"(死を忘るなかれ)が息づいているとも言えよう。だが、ベルリンの壁から米墨国境間のフェンスへと、グローバリゼーションという境界の溶解現象が招くアイデンティティー・クライシスが壁を再建する中、「あれも大事(That Matters)」と想像する力を鑑賞者に喚起するのが、本作品の狙いではないか。あれがなければ、これもないのだ。

田中和人の作品は、様々な色で描き込んだ縦長の画面の中央に、画面と相似形を成す単色か二色の色面の光沢のある写真を貼り込んでいる。作品の保護のためでもあるだろうが、アクリルのパネルで全体を覆っているのは、描画と写真とをまとめ上げる装置として機能させるためだろう。様々な色彩が乱舞しながら艶のない描き込んだ部分と、鏡面のような写真とはかなりコントラストが強いからだ。眺めているうち、描画と写真との強いコントラストは、風に漣が立った水面が落ち着きを取り戻すように和らいでいく。すると、ウィリアム・ターナークロード・モネの描いた世界のように、絵具の色彩が樹木の茂れる葉にも咲き乱れる花にも都市の家並みにも見え、単色やグラデーションによる写真が池や海の水面、あるいは夕空や夜空として立ち現れるだろう。あの作品の描く世界が、この作品にも描かれている。

映画『海辺の映画館 キネマの玉手箱』

映画『海辺の映画館 キネマの玉手箱』を鑑賞しての備忘録
2019年製作の日本映画。179分。
監督は、大林宣彦
脚本は、大林宣彦内藤忠司、小中和哉
撮影は、三本木久城。
編集は、大林宣彦と三本木久城。

時空を超える旅を続けていた爺・ファンタ(高橋幸宏)の乗る宇宙船が40年ぶりに故郷・尾道の海に舞い降りる。風景に遠い日々の記憶を重ねながら尾道の町をぶらついていると、瀬戸内キネマの館主・杵馬(小林稔侍)に遭遇し、今日をもって映画館の営業を終了すると告げられる。最終日のプログラムは「日本の戦争映画大特集」。受付係(白石加代子)がいつものように客を迎え入れる中には、向かいの島から渡し船でやって来る少女・希子(吉田玲)の姿もあった。「ピカ」・・・「ドン」。希子に思いを寄せる馬場毬男(厚木拓郎)、映画を取材する鳥鳳介(細山田隆人)ら老若男女の大勢の観客が席を埋めていく。爺・ファンタは最後部の座席のない壁際に腰を降ろし場内を見渡している。杵馬が長年にわたって愛用してきた映写機を励ましながら、上映が始まる。タップダンスの映像に、オーケストラ・ピットの楽団が演奏を重ねている。館外は嵐に見舞われ、大雨の中で一悶着を起こしたチンピラの団茂(細田善彦)が上映中の瀬戸内キネマを訪れる。スクリーンに歌い踊る希子の姿に夢中になった毬男は、鳳介や茂とともに画面の中に入り込む。希子や斉藤一美成海璃子)、芳山和子(山崎紘菜)、橘百合子(常盤貴子)らとダンス・アンサンブルに興じていたはずが、希子の姿をを追ううちに、いつしか、ええじゃないかの喧噪極まる幕末の江戸に迷い込むのだった。

爺・ファンタが一応は監督・大林宣彦アバターであろうが、むしろ、監督・大林宣彦が自らを映画にしてしまった作品という印象を受けた。冒頭からナレーションと文字とで矢継ぎ早にメッセージが送られてくる。どんな映画も観客へ向けてつくられてはいるのだろうが、この作品ほどあからさまに観客に思いを伝えようという作品も珍しい。必死に受けとめようとしているうちに、長尺のフィルムはあっという間に幕を閉じる。
中心的なキャラクターたちが複数のキャラクターへと変じていくという点で映画『クラウド アトラス』を彷彿とさせ、同作と同様、後を引く独特の味わいを生んでいる。
色遣いも印象的。
同じ場面を繰り返し用いるのは、映画の技法というより、詩のそれに親和性がある。中原中也の詩は著名な「サーカス」や「汚れちまった悲しみに……」をはじめ、映画で重要な役割を果たしている。

野卑時代

星は綺麗と、誰でも云ふが、
それは大概、ウソでせう

星を見る時、人はガツカリ
自分の卑少を、思ひ出すのだ

星を見る時、愉快な人は
今時滅多に、ゐるものでなく
星を見る時、愉快な人は
今時、孤独であるかもしれぬ

それよ、混迷、卑怯に野卑に
人々多忙のせゐにてあれば
文明開化と人云ふけれど
野蛮開発と僕は呼びます

勿論、これも一つの過程
何が出てくるかはしれないが
星を見る時、しかめつらして
僕も此の頃、生きてるのです

中原中也中原中也全詩集』角川学芸出版角川ソフィア文庫〕/2007年/p.655-656)

 

秋の夜に、
僕は僕が破裂する夢を見て眼が醒めた。

人類の背後には、はや暗雲が密集してゐる
多くの人はまだそのことに気が付かぬ

気が付いた所で、格別別様のことが出来だすわけではないのだが、
気が付かれたら、諸君ももつと病的になられるであらう。

デカダンサンボリスムキュビスム未来派
表現派、ダダイスム、スュルレアリスム、共同製作……

世界は、呻き、躊躇し、萎み、
牛肉のやうな色をしてゐる。

然るに、今病的である者こそは、
現実を知つてゐるやうに私には思へる。

健全とははや出来たての銅鑼、
なんとも淋しい秋の夜です。

中原中也中原中也全詩集』角川学芸出版角川ソフィア文庫〕/2007年/p.508-509)

「大根の葉っぱ」に踊る人々の姿は昔も今も変わらない。時代を動かすのは、権力闘争に関わる一握りの人間たちではなく、踊る人々であり、彼ら/彼女らの想像力だ。映画という虚構から平和という真実が出ることの希求。希子は繰り返し「嘘から出た実」と歌い上げる。
座敷童は、他者の許容の象徴。
厚木拓郎の持つある種の奇矯さはこの作品によくマッチしている。人を必死に殺そうとしない細山田隆人(眼鏡でずいぶん印象が変わる)と荒れ狂う坊主の細田善彦は男前。成海璃子はあの美貌にあの太い声がいい。TOHOシネマズで上映前に「現れる」ため勝手に親近感が湧いてしまう山崎紘菜も、とりわけ沖縄の女性を演じたシーンが魅力的であった。高橋幸宏大林宣彦のアヴァターになりきっていた。白石加代子は静かな佇まいでも凄みを放っている。能の人はナンチャンだったという驚き(ナンチャンを探せ!)。

展覧会 竹内公太個展『Body is not Antibody』

展覧会『竹内公太「Body is not Antibody」』を鑑賞しての備忘録
SNOW Contemporaryにて、2020年7月18日~8月14日。

エビデンス》は、交通誘導の警備員が手にしている赤色誘導灯を用いて暗闇でアルファベットなどの文字を描いた様子を、長時間露光により撮影した写真群。作者は写真から文字のみを取り出し、欧文フォント「エビデンス」を作り上げた。「証拠」を意味するエビデンス(evidence)をフォントの名称に採用したのは、その語源であるラテン語evidensの持つ「明瞭」や「視える」、そしてフォトグラフ(光画)の意味合いを考慮してのことだという。
ラテン語evidensは、英語でoutを表す"e"と英語でseeを表す"video"(現在分詞:videns)に由来する。そこに「~を最後までやり通す」や「~を最後まで(我慢して)見る」という意味を持つ英語"see out"が隠されている。作者は、2019年夏から2020年春にかけて、福島県の帰還困難区域で警備員をしていたという。原発事故の行く末を見届けようという作者の姿勢が窺える。もっとも、放射性物質の影響は、人間のライフサイクルを遙かに超えて持続する。「最後までやり通す」ことや「最後まで(我慢して)見る」ことは現実的には不可能だ。ところで、現在では写真という訳語が通用しているphotographは、光を意味する古代ギリシャ語φωτωに由来の"photo"と、擦る(=描画)を意味する古代ギリシャ語γράφω に由来の"graph"から生まれた語のため、かつては「光画」とも訳されたこともある(例えば、野島康三などの発刊した「新興写真」の同人誌は『光畫』と題されている。飯沢耕太郎『増補 都市の視線 日本の写真1920-30年代』平凡社平凡社ライブラリー〕/2005年/p.64)。赤色誘導灯(=光)が闇夜に描く(=画)文字は、壁面に擦りつけられるような痕跡を残すことなく空を切り、一瞬現れた後には消えてしまう。その刹那とは、放射性物質半減期に対する人間の生命の儚さである。最後まで見通すことを希求しながら叶わない、絶望のパフォーマンスとしての赤色誘導灯(=光)による描画。経済的な物差しでは価値を測ることのできない行為(=手業=arte=art)を、フォントに変換し、流通させることで、その価値を可視化する企てだ。

《文書1 王冠と身体》は、作者が手がけた「エビデンス」フォントを用いて、トマス=ホッブズの『リヴァイアサン』の有名な扉絵(アブラハム・ボス)のうち王冠と身体の部分だけを描画したもの。王の身体が人民の体によって形作られていることや、コロナウイルスの「コロナ」はギリシャ語で「王冠」を意味するκορώναに由来することに着目し、国民とコロナとの関係を表した。「恐怖や危機に瀕するとき、人々は進んで国という身体のための『抗体』にな」り、「コロナ禍でも、長期的な災禍にあって人が人に対して抗体反応のような振る舞いを」していることに対する疑問が制作の動機となっている。

 「自然状態(引用者註:共通権力が存在しない状態であり、ホッブズによれば「万人の万人に対する戦争」状態である)」にあると想定された人々が、平和のためには「自然法(引用者註:万人に共通する普遍的な倫理法則であり、ホッブズによれば、平和を維持・実現するための一連のルール)」の実現が必要不可欠と認識しながら実際にそれを守ることが困難なのは、一方では他者たちもまた「自然法」が命じる「信約(引用者註:契約当事者の一方もしくは双方の履行がまだ行われておらず、たんに将来における履行が信用されているにすぎない状態の契約)」を遵守するという保証がなんら存在しないからであるし、また、他方ではみずからがむしろそれを破ることによって利益を得られる可能性があるからである。そうした「囚人のジレンマ」的状況の解決を可能にする「共通権力」樹立のための「ただ一つの道」を、ホッブズはおおよそ次のように説明している。人々は一人の人間、ないしは複数の人々の合議体を指名して自分たちを代表させ、その者が共通の平和と安全に関する事柄について実行し、あるいは実行させるあらゆることを、自分自身が行うことと認め、そうすることで自分たちの意志と判断を、その者の意志と判断に従わせなければならない。これは、各人がお互いのあいだで、第三者たる「この者あるいはこれらの人々の合議体に権威を与えて、私の自分自身を統治する権利を譲る」という信約を結ぶことによって実現される。その信約によって一人の人間もしくは一つの合議体の権威のもとに合一した人民が「国家」であり、その権威を与えられた者が国家の「主権者」にほかならない。これがいわゆる「社会契約」にもとづいた「設立による国家」の生成である。
 ところで、国家の主権者の主要な役割は、たんに刑罰への恐怖によって人々の行為を規制することだけではない。「自然状態」においては何がみずからの安全に対する脅威であり、それを取り除くために何をなすべきかを判断するのは各人であり、その判断がおのおの異なってしまうことが互いの不信や争いを引き起こしてしまうのであるから、それを回避するには「共通の平和と安全」のために何をなすべきかの判定権を主権者に委ね、その意志と判断に各人が従わなければならない。しかも、主権者の意志決定をみずからの意志決定とする信約を一度取り交わしてみずからをその「臣民」とした人々には、等しく主権者の命令に服する「義務」が生じるが、主権者のほうはその信約の当事者ではないために、「臣民」に対していかなる義務も負わないのである。ホッブズは、この主権者と臣民とのあいだにはいかなる信約もないとする論点と、主権者の決定や行為を自分たち自身のものとして責任を担うのはその主権者たちを自分たちの代表とした臣民のほうであるとする論点を繰り返し援用しながら、主権者の権力の絶対性を弁証していくが、その論法は現代民主主義社会の常識を前提とすると、いかにもあざとい絶対主義擁護でしかないように思えてしまう。
 だが、歴史的文脈に置き戻して考えるならば、ホッブズが直面していた現実はむしろ、財政的基盤を欠いたまま「王権神授説」を振りかざして絶対君主たろうとした国王と、慣習法によって伝統的に認められてきた権利を盾に主権者の命令に服さない臣民たちとの敵対によって惹き起こされた内戦の悲惨さであった。ホッブズの最も有名な著書のタイトルに用いられた「リヴァイアサン」とは、旧約聖書の「ヨブ記」によれば「地上に比較されうるもの何ものもなく、怖れを知らぬように創られた」怪物であったが、そのリヴァイアサンになぞらえて「すべての驕り高ぶる子ら」を沈める強大な力をもつよう彼が期待した国家は、「不死なる神」ならぬ「可死なる神」であり、現に革命期には「仮死」状態にあったのである。(小林道夫責任編集『哲学の歴史 第5巻 デカルト革命』中央公論新社/2007年/p.92-94〔伊豆藏好美執筆部分〕)

アブラハム・ボスの描いたリヴァイアサン(=国家)の主権者は王であった。そのため、身体が人々の組み合わせで描かれているのに対し、頭部は《みかけハこハゐがとんだいゝ人だ》的表現にはなっておらず、顔が普通に表されているのである。コロナ禍に直面している日本は王政ではないため、作者は顔の表現を省いたのだ。もっとも、それがゆえに、コロナウィルスを象徴する王冠(κορώνα)が直接身体(=国家=国民の集合体)に覆い被さる(=襲う)結果となっている。また、アブラハム・ボスの人々が「エビデンス」フォントの文字に置き換えられたことで国民の疫学(=統計)的把握を表現してみせ、さらに「エビデンス」フォントのもととなった誘導灯の赤い光が黒い文字に切り替えられることで、点灯から消灯へ、すなわち人々の手が感染を防ぐためにつながれることなく封じこめられている様を表している。そこへ重ねて、人々が国家のための抗体(antibody)として機能してしまっていることを展覧会タイトルで鮮やかに示してみせている。

《文書2 エイリアン》は、《文書1 王冠と身体》(=リヴァイアサン=国家)の向かい側の壁に貼られた「エビデンス」フォントの"A", "L", "I", "E", "N", "S"の文字と、その前に置かれたベンチから成る。これは、「長期的な災禍にあって人が人に対して抗体反応のような振る舞いをする」「『抗体』に識別される側」としてのエイリアン(ALIENS)の立場に身を置くための装置である。作者は、エイリアンを、「本来は自分のものである財産や権利を譲渡することで、人間があるべき本質を失う」ことを意味する「疎外(alienation)」に結びつけ、細胞内に共生する別の生き物(=エイリアン)としてのミトコンドリアに注目する。抗体として機能するより、ミトコンドリア(=エイリアン)として国家=身体に存在する道を選びたいというのだ。確かに、エイリアン(A-LIEN-S)の中には、(英語に無理矢理フランス語を見出せば)他者(=Autres)と自己(=Soi)との絆(=LIEN)の可能性が見えてくる。

映画『ストレンジ・フィーリング アリスのエッチな青春白書』

映画『ストレンジ・フィーリング アリスのエッチな青春白書』を鑑賞しての備忘録
2019年製作のアメリカ映画。78分。
監督・脚本は、カレン・メイン(Karen Maine)。
撮影は、トッド・アントニオ・ソモデビーリャ(Todd Antonio Somodevilla)。
編集は、ジェニファー・リー(Jennifer Lee)。
原題は、"Yes, God, Yes"。

2000年代初頭のアメリカ。アリス(Natalia Dyer)はカトリックのハイスクールに通う真面目な11年生。日曜日には父親(Matt Lewis)とともに教会に通っている。結婚するまでセックスすべきではないし、倫理の授業で先生の言う通り、自慰も控えるべきだと考えている。周囲で飛び交う性的な内容のスラングにも疎く、せいぜい親友のローラ(Francesca Reale)と映画『タイタニック』のラヴシーンを話題にするくらい。それでも性的な興味の高まりは日々抑えられなくなってきている。ある日の帰宅後、チャットを楽しんでいると、突然、"HairyChest1956"というユーザーから、裸の男女が写った写真を添付したメールが着信する。男性の腕に生えた濃い体毛に興奮したアリスは、写真を求められてローラと一緒の写真のローラの部分をスキャンして送信する。喜んだ相手から誘われるがままにチャットでセクシャルなやりとりをして、アリスはつい下着の中へと手を伸ばす。そこへ母親から夕食の準備が出来たと声がかかる。姦淫する者は地獄へ落ちるという「ヨハネの黙示録」の一節がアリスを悩ませているところへ、アリスがウェイド(Parker Wierling)と"salad tossing"というアリスにとっては意味が分からない変態行為に及んだという噂が立ち始めた。教師のヴェーダ(Donna Lynne Champlin)までがその噂を信じたらしく、アリスは優等生として礼拝で果たしてきた役割を先生から外されてしまう。悩みは大きくなる一方だが、告解でマーフィ神父(Timothy Simons)に打ち明けられる内容とはとても思えなかった。ベス(Teesha Renee)が学校のリトリート・センターで行われる4日間の合宿に参加して変わったのに気が付いたローラは、アリスを誘って合宿に参加することにする。合宿参加者を迎えた上級生のリーダー役の中には、がっしりした体に甘いマスク、しかも腕の毛の濃いクリス(Wolfgang Novogratz)がいて、アリスは一目で夢中になってしまうのだった。

しかし、臆病な者、信じない者、忌むべき者、人殺し、姦淫を行う者、まじないをする者、偶像を拝む者、すべて偽りを言う者には、火と硫黄の燃えている池が、彼らの受くべき報いである。これが第二の死である。(「ヨハネの黙示録」第21章第8節)

少女が社会の建前と本音の齟齬に気付きつつ大人になっていく過程を描く青春映画。狭い世界から飛び出してごらんという、思春期の少年・少女に対するメッセージは明快で、地味ながら痛快さも味わえるのではないか。カトリックのハイスクールを舞台にするのは、建前と本音の齟齬が大きいとの判断もあったのだろう。むしろ、時代をあえて2000年代初頭に設定したのは何故なのかが気になった。
少女の性への興味を扱ってはいるものの、描写自体は極めて穏健。「エッチな青春白書」という副題は間違いではないかもしれないが、「エッチな」は外した方が、より幅広く訴求できたのではないか。なお、「ストレンジ・フィーリング」は、アリス役のNatalia Dyerが「ストレンジャー・シングス」という連続ドラマに出演しているからだろう。原題が"Yes, God, Yes"のため、担当者が邦題に頭を悩ませたであろうことは容易に想像がつく。
真面目だけれど危なっかしい行動に出てしまう多感な少女アリスをNatalia Dyerが好演。

展覧会『デイジーチェーン 第1期』

展覧会『トーキョーアーツアンドスペースレジデンス2020成果発表展「デイジーチェーン」第1期』を鑑賞しての備忘録
トーキョーアーツアンドスペース本郷にて、2020年7月4日~8月10日。

2019年度にトーキョーアーツアンドスペース(TOKAS)のレジデンス・プログラム参加作家による滞在制作作品を紹介。第1期は、1階展示室では、「ミュトスとの対話」を共通のテーマにTOKASレジデンシーで滞在制作した、しまうちみか、チャリントーン・ラチュルチャタ、大坪 晶の3名それぞれの作品を、2階展示室では、井原宏蕗(ベルリンのクンストクアティア・ベタニエン)、キム・ジヒ(TOKASレジデンシー)、李継忠(TOKASレジデンシー)の作品を、3階展示室では、北條知子(ベルリンのクンストクアティア・ベタニエン)と衣真一郎(ケベックのセンター・クラーク)の作品を展示している。


井原宏蕗の展示について
展示空間の右側壁面に展示されている《worm in progress-tokyo》は、手前側にミミズの糞塚を並べ、奥側にミミズの糞塚を焼成したものを並べている。左手壁面には、ミミズの糞塚を用いて制作されたネックレスや指輪などとそれらを装着した模様を撮影した写真が展示されている。

展示室の手前で上映されている5分強の映像作品《Making of "worm in progress-berlin"》では、作者が滞在したベルリンのクンストクアティア・ベタニエンを出て、近隣の公園(?)の植え込みを物色してミミズの糞塚を軽快に拾い集めていく様子が紹介されている。ミミズが土壌形成に多大なる貢献をしているのは一応知っていたが、この映像を見るまで、ミミズの「糞塚」というものを全く知らなかった。

 ミミズが世界の歴史において果たしてきた役割は、ほとんどの人が思っているよりも大きい。湿潤な土地ならばほぼどこにでも、とんでもない数のミミズがいる。しかもそのサイズにしては筋肉の力も強い。イングランドの多くの場所では1エーカーごとに乾燥重量にして1年に10トン以上の土がミミズの体内を通過し、そこここの地表に運び上げられている。結果的に、表層の腐植土全体が、数年ごとにミミズの体内を通過している。古いトンネルが崩れることで、腐植土はゆっくりとではあるが絶えず動いており、それを構成する土の粒は互いにこすり合わされている。このようなやり方で、新たに表層に出た土は、土壌中の炭酸に絶えずさらされており、岩の崩壊に関してさらに大きな効果を発揮すると思われる腐植酸の作用にもさらされている。腐植酸の生成は、ミミズが食べる大量の腐りかけの葉が消化される間に促進されるようだ。したがって、表層の腐植土を形成している土の粒子は、土の分解と崩壊にとってきわめて好都合な条件にさらされている。しかも、もろい岩の粒子の相当な量が、ミミズの筋肉質の砂囊の中で、石臼の役を果たす小石によって機械的にすりつぶされる。
 細かくしりつぶされた湿った糞は、地表に運び上げられると、どんなに緩い斜面でも降雨中に流れ下る。さらに細かい粒子は、ゆるい傾斜地でも遠くまで流される。糞塊は、乾燥すると崩れて小球になることが多く、斜面を転がりやすくなる。土地が平らで草に覆われている場所や、湿潤なため塵が飛ばされないような場所では、地表が浸食されることはそれほどないような印象を受けやすい。しかし、ミミズの糞塊は、湿っていてねばついているときは特に、雨を伴う卓越風によって決まった一方向に吹き飛ばされる。こうしたいくつかの作用により、地表の腐植土がどんどん厚く堆積することは妨げられる。また、厚い腐植土層は、地中の岩や岩屑の崩壊をいろいろなかたちで阻止する。(チャールズ・ダーウィン渡辺政隆〕『ミミズによる腐植土の形成』光文社〔古典新訳文庫〕/2020年/p.293-294)

《Making of "worm in progress-berlin"》で紹介されていた《worm in progress-berlin》では、展示室の床にミミズの糞塚と焼成したミミズの糞塚を並べていた。孫悟空がお釈迦様の掌の上から逃れられないように、人間がミミズの糞塚の上で生活をしていることを伝えるためだろう。

 広い芝生を見て美しいと感じるにあたっては、その平坦さによるところが大きいわけだが、それほど平坦なのは、主としてミミズがゆっくりと均したおかげであることを忘れてはいけない。そうした広い土地の表面を覆う腐植土のすべては、何年かごとにミミズの体内を通過したものであり、この先も繰り返し通過することを考えると不思議な感慨に打たれる。鋤は、きわめて古く、きわめて有用な発明品である。しかし、人類が登場するはるか以前から、大地はミミズによってきちんと耕されてきたし、これからも耕されていく。(チャールズ・ダーウィン渡辺政隆〕『ミミズによる腐植土の形成』光文社〔古典新訳文庫〕/2020年/p.299)

それでは、作者がミミズの糞塚を焼成したのは何故なのか。高温で焼くと、炭素の鎖状の化合物が解体され、酸素化合物に変わってしまう(無機化)。焼成における、酸素が結びつくという現象に作者が着目したからではないか。「土」に「酸素」を結びつけるとは、創世記において神が人間を生み出す行為、「土塊+息=人間」を思わざるを得ない。そして、人間が土塊からを生み出すものは、「ゴーレム(=人造人間)」である。

 まずは、われわれの主題に一番直接に関係しているバビロニア・タルムード、ネズィキーン巻、『サンヘドリン篇』での以下の記述を見ておく必要がある。

 ラバは人間を造った。そしてその人間をゼイラ師に遣わせた。ゼイラ師はその男に語りかけたが、返事をえられなかった。そこでゼイラ師はその男に言った、「お前は魔術師の手によって造られたものだ。また塵に戻るのだ」と。

 ただこれだけの記述である。ここで重要な点は、〈人間〉を造ったとはいっても、それはあくまで〈ほぼ人間〉という段階に留まっているということだ。そして、その〈ほぼ人間性〉は、何よりも、それが話せないという事実によって示されている。『サンヘドリン篇』でのこの記載はゴーレム伝説最古の表現の一つだが、この〈言語欠如性)という性格は、その後さまざまに姿を現す〈ゴーレム変種〉の中でも大部分の場合に受け継がれる最も重要な〈負〉の特質であり続ける。
 また、ゼイラ師の言葉で「塵に戻る」というのは、たとえば『ヨブ記』での記述を思わせる。

心に留めてください 土くれとしてわたしを造り 塵にもどされるのだということを。(『ヨブ記』10.9)

もし神が御自分にのみ、御心を留め その霊と息吹をご自分に集められるなら 生きとし生けるものは直ちに息絶え 人間も塵に返るだろう。(『ヨブ記』34.14-15)

 共に、人間は土くれから造られ、やがては塵に戻っていくという意味が込められた部分である。特に後者の場合、霊と息吹が、塵に戻るべく運命づけられた人間を、しばらくは戻らないようにしているという意味が見て取れる。それは次の『創世記』の有名な一節と逆向きに対応しているとも言える。

主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。(『創世記』2.7)

 人間は土くれからできている。その土くれに何かが付け加わるとき、人間は人間になる。そもそもアダムというう名前の中に、土という材料の痕跡が潜んでいる。人間は大地からできており、やがて死ぬとき、塵となって大地に戻っていく。これは、ゴーレム伝説にとっても、きわめて重要な因子の一つになるだろう。(金森修『ゴーレムの生命論』平凡社平凡社新書〕/2010年/p.21-24)

作者が土塊に酸素=息を与えることで生まれた「焼成された糞塊」をロボットや人工細胞のような"work in progress"のゴーレムたちと捉え、人間と対置するように呈示して見せたのが、《worm in progress-tokyo》とも解し得よう。人間は土塊なのだから。

 英語で人間を意味するhumanは、ラテン語で土壌を意味するhumusに由来している。命は土から生まれて土に戻るという謂なのだろう。万学の祖アリストテレスは、ミミズが土を食べていることを知っていたからなのだろうか、ミミズを「大地の腸」と呼んだ。
 一方、英語でhumusといえば腐植質ないし腐葉土のことである。mould(米語ではmold)もhumusとほぼ同義だが、a man of mouldというと、「(やがて土に還る、死が定めの)人間」を意味する。(チャールズ・ダーウィン渡辺政隆〕『ミミズによる腐植土の形成』光文社〔古典新訳文庫〕/2020年/p.313〔解説〕)

だが、現在の世界においてより先鋭的に現れているのは、〈人間圏〉内部での他者関係であろう。

 まずは〈人間圏〉内部での対人関係、他者関係の中に潜在し、折りに触れて浮上する〈ゴーレム的なもの〉がある。
 空腹で身をふらつかせ、襤褸を着た見知らぬ他人のことを、衣食満ち足りた私は〈ゴーレム〉として見る。
 充分巧みな言葉を操ることができず、時に言いよどみ、時に放埒な逸脱をする他人のことを、冷静で冷酷な私は〈ゴーレム〉として見る。
 外観赤ら充分巧みな言葉を話しているらしいとはいえ、その意味がまるで分からない言葉を話す他者集団を前にしたとき、彼らが激昂し、声を高めて何かを訴えようとすればするほど、私は身をひきながら彼らのことを〈ゴーレム〉として見る。彼らの言葉は、言葉ではなく、〈鴃舌〉になる。
 (略)
 〈他者のゴーレム化〉の場合、それをする〈私〉は、得手の他者(単数)、または他者集団(複数)に対して眼に見えない境界線を引き、他者(たち)を向こう側に追いやる(もっとも、それは逆方向からみれば、ただの退却・引退・消失にみえるかもしれない)。
 (略)
 その意味でいうなら、ゴーレムは、〈人間圏の境界〉を行き来する若干奇矯な怪物、または疑似怪物に留まるどころか、〈人間圏〉内部の至るところに出没する亀裂的な因子(略)なのだと述べていいのだ。それは〈人間の自己同一性〉という概念から、自明性と安定性を取り去る。人間は、他者(略)のなかにゴーレムを見出し、それを忌避し、遠ざけようとする。その距離化的な運動が至るところで起こることで、〈人間圏〉全体が不穏にゆれ、騒乱的な雰囲気をじんわりと醸し出すのである。(金森修『ゴーレムの生命論』平凡社平凡社新書〕/2010年/p.201-204)

本展で展示される《worm in progress-tokyo》では、《worm in progress-berlin》の床に置かれた状態から90度回転させ、壁面に掲げられることになった。ミミズとの共生より、〈人間圏の境界〉がより鮮明に立ち上がったと言えよう。