可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会『デイジーチェーン 第1期』

展覧会『トーキョーアーツアンドスペースレジデンス2020成果発表展「デイジーチェーン」第1期』を鑑賞しての備忘録
トーキョーアーツアンドスペース本郷にて、2020年7月4日~8月10日。

2019年度にトーキョーアーツアンドスペース(TOKAS)のレジデンス・プログラム参加作家による滞在制作作品を紹介。第1期は、1階展示室では、「ミュトスとの対話」を共通のテーマにTOKASレジデンシーで滞在制作した、しまうちみか、チャリントーン・ラチュルチャタ、大坪 晶の3名それぞれの作品を、2階展示室では、井原宏蕗(ベルリンのクンストクアティア・ベタニエン)、キム・ジヒ(TOKASレジデンシー)、李継忠(TOKASレジデンシー)の作品を、3階展示室では、北條知子(ベルリンのクンストクアティア・ベタニエン)と衣真一郎(ケベックのセンター・クラーク)の作品を展示している。


井原宏蕗の展示について
展示空間の右側壁面に展示されている《worm in progress-tokyo》は、手前側にミミズの糞塚を並べ、奥側にミミズの糞塚を焼成したものを並べている。左手壁面には、ミミズの糞塚を用いて制作されたネックレスや指輪などとそれらを装着した模様を撮影した写真が展示されている。

展示室の手前で上映されている5分強の映像作品《Making of "worm in progress-berlin"》では、作者が滞在したベルリンのクンストクアティア・ベタニエンを出て、近隣の公園(?)の植え込みを物色してミミズの糞塚を軽快に拾い集めていく様子が紹介されている。ミミズが土壌形成に多大なる貢献をしているのは一応知っていたが、この映像を見るまで、ミミズの「糞塚」というものを全く知らなかった。

 ミミズが世界の歴史において果たしてきた役割は、ほとんどの人が思っているよりも大きい。湿潤な土地ならばほぼどこにでも、とんでもない数のミミズがいる。しかもそのサイズにしては筋肉の力も強い。イングランドの多くの場所では1エーカーごとに乾燥重量にして1年に10トン以上の土がミミズの体内を通過し、そこここの地表に運び上げられている。結果的に、表層の腐植土全体が、数年ごとにミミズの体内を通過している。古いトンネルが崩れることで、腐植土はゆっくりとではあるが絶えず動いており、それを構成する土の粒は互いにこすり合わされている。このようなやり方で、新たに表層に出た土は、土壌中の炭酸に絶えずさらされており、岩の崩壊に関してさらに大きな効果を発揮すると思われる腐植酸の作用にもさらされている。腐植酸の生成は、ミミズが食べる大量の腐りかけの葉が消化される間に促進されるようだ。したがって、表層の腐植土を形成している土の粒子は、土の分解と崩壊にとってきわめて好都合な条件にさらされている。しかも、もろい岩の粒子の相当な量が、ミミズの筋肉質の砂囊の中で、石臼の役を果たす小石によって機械的にすりつぶされる。
 細かくしりつぶされた湿った糞は、地表に運び上げられると、どんなに緩い斜面でも降雨中に流れ下る。さらに細かい粒子は、ゆるい傾斜地でも遠くまで流される。糞塊は、乾燥すると崩れて小球になることが多く、斜面を転がりやすくなる。土地が平らで草に覆われている場所や、湿潤なため塵が飛ばされないような場所では、地表が浸食されることはそれほどないような印象を受けやすい。しかし、ミミズの糞塊は、湿っていてねばついているときは特に、雨を伴う卓越風によって決まった一方向に吹き飛ばされる。こうしたいくつかの作用により、地表の腐植土がどんどん厚く堆積することは妨げられる。また、厚い腐植土層は、地中の岩や岩屑の崩壊をいろいろなかたちで阻止する。(チャールズ・ダーウィン渡辺政隆〕『ミミズによる腐植土の形成』光文社〔古典新訳文庫〕/2020年/p.293-294)

《Making of "worm in progress-berlin"》で紹介されていた《worm in progress-berlin》では、展示室の床にミミズの糞塚と焼成したミミズの糞塚を並べていた。孫悟空がお釈迦様の掌の上から逃れられないように、人間がミミズの糞塚の上で生活をしていることを伝えるためだろう。

 広い芝生を見て美しいと感じるにあたっては、その平坦さによるところが大きいわけだが、それほど平坦なのは、主としてミミズがゆっくりと均したおかげであることを忘れてはいけない。そうした広い土地の表面を覆う腐植土のすべては、何年かごとにミミズの体内を通過したものであり、この先も繰り返し通過することを考えると不思議な感慨に打たれる。鋤は、きわめて古く、きわめて有用な発明品である。しかし、人類が登場するはるか以前から、大地はミミズによってきちんと耕されてきたし、これからも耕されていく。(チャールズ・ダーウィン渡辺政隆〕『ミミズによる腐植土の形成』光文社〔古典新訳文庫〕/2020年/p.299)

それでは、作者がミミズの糞塚を焼成したのは何故なのか。高温で焼くと、炭素の鎖状の化合物が解体され、酸素化合物に変わってしまう(無機化)。焼成における、酸素が結びつくという現象に作者が着目したからではないか。「土」に「酸素」を結びつけるとは、創世記において神が人間を生み出す行為、「土塊+息=人間」を思わざるを得ない。そして、人間が土塊からを生み出すものは、「ゴーレム(=人造人間)」である。

 まずは、われわれの主題に一番直接に関係しているバビロニア・タルムード、ネズィキーン巻、『サンヘドリン篇』での以下の記述を見ておく必要がある。

 ラバは人間を造った。そしてその人間をゼイラ師に遣わせた。ゼイラ師はその男に語りかけたが、返事をえられなかった。そこでゼイラ師はその男に言った、「お前は魔術師の手によって造られたものだ。また塵に戻るのだ」と。

 ただこれだけの記述である。ここで重要な点は、〈人間〉を造ったとはいっても、それはあくまで〈ほぼ人間〉という段階に留まっているということだ。そして、その〈ほぼ人間性〉は、何よりも、それが話せないという事実によって示されている。『サンヘドリン篇』でのこの記載はゴーレム伝説最古の表現の一つだが、この〈言語欠如性)という性格は、その後さまざまに姿を現す〈ゴーレム変種〉の中でも大部分の場合に受け継がれる最も重要な〈負〉の特質であり続ける。
 また、ゼイラ師の言葉で「塵に戻る」というのは、たとえば『ヨブ記』での記述を思わせる。

心に留めてください 土くれとしてわたしを造り 塵にもどされるのだということを。(『ヨブ記』10.9)

もし神が御自分にのみ、御心を留め その霊と息吹をご自分に集められるなら 生きとし生けるものは直ちに息絶え 人間も塵に返るだろう。(『ヨブ記』34.14-15)

 共に、人間は土くれから造られ、やがては塵に戻っていくという意味が込められた部分である。特に後者の場合、霊と息吹が、塵に戻るべく運命づけられた人間を、しばらくは戻らないようにしているという意味が見て取れる。それは次の『創世記』の有名な一節と逆向きに対応しているとも言える。

主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。(『創世記』2.7)

 人間は土くれからできている。その土くれに何かが付け加わるとき、人間は人間になる。そもそもアダムというう名前の中に、土という材料の痕跡が潜んでいる。人間は大地からできており、やがて死ぬとき、塵となって大地に戻っていく。これは、ゴーレム伝説にとっても、きわめて重要な因子の一つになるだろう。(金森修『ゴーレムの生命論』平凡社平凡社新書〕/2010年/p.21-24)

作者が土塊に酸素=息を与えることで生まれた「焼成された糞塊」をロボットや人工細胞のような"work in progress"のゴーレムたちと捉え、人間と対置するように呈示して見せたのが、《worm in progress-tokyo》とも解し得よう。人間は土塊なのだから。

 英語で人間を意味するhumanは、ラテン語で土壌を意味するhumusに由来している。命は土から生まれて土に戻るという謂なのだろう。万学の祖アリストテレスは、ミミズが土を食べていることを知っていたからなのだろうか、ミミズを「大地の腸」と呼んだ。
 一方、英語でhumusといえば腐植質ないし腐葉土のことである。mould(米語ではmold)もhumusとほぼ同義だが、a man of mouldというと、「(やがて土に還る、死が定めの)人間」を意味する。(チャールズ・ダーウィン渡辺政隆〕『ミミズによる腐植土の形成』光文社〔古典新訳文庫〕/2020年/p.313〔解説〕)

だが、現在の世界においてより先鋭的に現れているのは、〈人間圏〉内部での他者関係であろう。

 まずは〈人間圏〉内部での対人関係、他者関係の中に潜在し、折りに触れて浮上する〈ゴーレム的なもの〉がある。
 空腹で身をふらつかせ、襤褸を着た見知らぬ他人のことを、衣食満ち足りた私は〈ゴーレム〉として見る。
 充分巧みな言葉を操ることができず、時に言いよどみ、時に放埒な逸脱をする他人のことを、冷静で冷酷な私は〈ゴーレム〉として見る。
 外観赤ら充分巧みな言葉を話しているらしいとはいえ、その意味がまるで分からない言葉を話す他者集団を前にしたとき、彼らが激昂し、声を高めて何かを訴えようとすればするほど、私は身をひきながら彼らのことを〈ゴーレム〉として見る。彼らの言葉は、言葉ではなく、〈鴃舌〉になる。
 (略)
 〈他者のゴーレム化〉の場合、それをする〈私〉は、得手の他者(単数)、または他者集団(複数)に対して眼に見えない境界線を引き、他者(たち)を向こう側に追いやる(もっとも、それは逆方向からみれば、ただの退却・引退・消失にみえるかもしれない)。
 (略)
 その意味でいうなら、ゴーレムは、〈人間圏の境界〉を行き来する若干奇矯な怪物、または疑似怪物に留まるどころか、〈人間圏〉内部の至るところに出没する亀裂的な因子(略)なのだと述べていいのだ。それは〈人間の自己同一性〉という概念から、自明性と安定性を取り去る。人間は、他者(略)のなかにゴーレムを見出し、それを忌避し、遠ざけようとする。その距離化的な運動が至るところで起こることで、〈人間圏〉全体が不穏にゆれ、騒乱的な雰囲気をじんわりと醸し出すのである。(金森修『ゴーレムの生命論』平凡社平凡社新書〕/2010年/p.201-204)

本展で展示される《worm in progress-tokyo》では、《worm in progress-berlin》の床に置かれた状態から90度回転させ、壁面に掲げられることになった。ミミズとの共生より、〈人間圏の境界〉がより鮮明に立ち上がったと言えよう。