展覧会『川邊真生個展「Umwelt」』を鑑賞しての備忘録
OGU MAGにて、2020年7月21日~26日。
川邊真生の絵画展。
"Umwelt"とは、一般に「環境」を意味するドイツ語だが、ヤーコプ・フォン・ユクスキュルによれば、ある主体が、そのまわりに存在する環境(Umgebung)の中の諸物に意味を当てて構築している世界のこと。"Umwelt"をその意味で用いる際には「環世界」ないし「環境世界」などの訳語が当てられている(ユクスキュル〔日高敏隆・羽田節子〕『生物から見た世界』岩波書店〔岩波文庫〕/2005年/p.163-165〔訳者あとがき〕)。本展に"Umwelt"を冠した作品は出展されていないが、ユクスキュルがシャボン玉に譬えた、視空間では貫通できない壁を意味する《最遠平面》(ユクスキュル・前掲書p.45-52)や、主観的な産物であるがゆえにユクスキュルが環世界の問題として扱った「故郷」を意味するドイツ語《Heimat》(ユクスキュル・前掲書p.107-114)と題された作品が展示されている。
《都合と腋窩介助》や《Veil》などの作品に見られる連子のような等間隔に描かれた(あるいは描き残された)縦の線や、《Tours.17052020》や《Framework》などの作品に挿入された角材の列が目を引く。作者は、コロナ禍の最中に外出を控えた最近の経験によって、虚無感や焦燥感に襲われて自室で過ごした幼少期の記憶が思い出されたという。実家の前にあった高校のグラウンドの巨大なフェンスのイメージが二つの経験を重ね合わせているらしく、それが作品に繰り返し現れる連子を、すなわちおそらくは檻ないし柵といった「とらわれ」のモティーフを、描き込ませあるいは挿入させているようだ。
この「とらわれ」のイメージは、環世界を連想させる。例えば、音波研究者の環世界で波として現れる客体が、音楽研究者の環世界では音として現れるように、「環世界全体は、人間主体の能力に応じて切りとられた、自然のほんの小さな一こまにすぎ」ず(ユクスキュル・前掲書p.155-158)、人間はその能力にとらわれた世界を生きているにすぎないからだ。同様に、キャンバスと木枠とが複雑に組み合わさっていたり、あるいはキャンバスがたわめられている作品は、環世界が一様でなく多様であることを象徴するのだろう。
もっとも、人間は、学習その他を通じて、今とらわれている環世界から別の環世界へと移動することが可能である。
さて、環境への適応、本能の変化は、当然ながら環世界の移動を伴うだろう。それは長い生存競争を経て果たされる変化である。容易ではない。だが、すこしも不可能ではない。こうしてみると、あらゆる生物には環世界の間を移動する能力があるというべきなのだろう。
人間にも環世界を移動する能力がある。その点ではその他の動物(さらには生物全般)と変わらない。ただし、人間の場合には他の動物とすこし事情が異なっている。どういうことかと言うと、人間は他の動物とは比較にならないほど容易に環世界の間を移動するのである。つまり環世界の間を移動する能力が相当に発達しているのだ。
たとえば宇宙物理学について何も知らない高校生でも、大学で4年間それを勉強すれば、高校のときとはまったく違う夜空を眺めることになろう。作曲の勉強をすれば、それまで聞いていたポピュラーミュージックはまったく別様に聞こえるだろう。鉱物学の勉強をすれば、単なる石ころ一つ一つが目につくようになる。
それだけではない。人間は複数の環世界を往復したり、巡回したりしながら生きている。たとえば会社員はオフィスでは人間関係に気を配り、書類や数字に敏感に反応しながら生きている。しかし、自宅に戻ればそのよう注意力は働かない。子どもは遊びながら空想の世界を駆け巡る。彼らの目には人形が生き物のように見えるし、いかなる場所も遊び場になる。しかし学校に行ったら教師の言うことに注意し、友人の顔色に反応しながら、勉強に集中せねばならない。人間のおうに環世界を往復したり巡回したりしながら生きている生物を他に見つけることはおそらく難しいだろう。(國分功一郎『暇と退屈の倫理学〔増補新版〕』太田出版/2015年/p.295-296)
会場の隅に「DEMENTIA」との紙が貼られた板の上の人物の頭部のペインティングが立てかけられいる。それは、痴呆症の人物にとっての環世界とはどのようなものなのかという、痴呆症者を理解したいという作者の意思の表れではないか。そして、《最遠平面》に表されたウルトラマンの影。他の星からやって来て地球人と一体化したウルトラマンは、他者理解すなわち環世界移動の成功を象徴するのだろう。