可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会 山田哲平・森夕香二人展『境界行為 Liminal Acts』

展覧会『山田哲平・森夕香「境界行為 Liminal Acts」』を鑑賞しての備忘録
LOKO GALLERYにて、2024年12月13日~2025年1月25日。

山田哲平の制度と有機体との関係の揺れ動きや変化を提示する立体作品「骨と拡張」シリーズと、森夕香の植物に象徴される自然と人間との未分の関係性を表わす絵画作品とを併せ見る企画。キュレーションは山越紀子

森夕香《夜半散歩》(1167mm×803mm)は、夜、敷居から外へと跨ぎ越す人物を描いた作品。室内は土壁のような黄土色で統一され、ガラスの嵌められていない窓が穿たれている。その敷居を右脚を外で出した瞬間が捉えられている。人物は茶の肌、ピンクの髪で、頭、胸、腰などは左右(人物の前後)に大きく波打ち、左側(後ろ側)は室内空間に、右側(前側)は屋外空間に溶けていくよう。目の辺りは眼球というレンズを想起させる薄い青で、宵闇の青を映すが如く、さらには満月に引かれ溶け合う。太陽の光を受ける月は、光を受ける眼球とアナロジーの関係にある。また、月との一体化は、見ることが対象との同化であることを示す。あるいは、陰陽思想を介して月=女性の表現であり、さらには、マクロコスモス(天体)とミクロコスモス(身体)の照応を示すとも言えよう。夜を夢のメタファーとするなら、現実と夢との境界を融通無碍に逍遙すべしと訴える作品とも解される。
森夕香《来世の夢》(1620mm×1120mm)は金線の格子が引かれた暗めの赤紫ないし赤茶の画面に果樹と女性とを描いた作品。梢に葉を繁らせ果実を実らせた果樹の幹と、女性の身体とがともにS字で寄り添う。果実と女性の頭部とは、赤い種と目(?)、青い果皮と髪とで一体化し、溶け合う。同様に、果実と腹部(子宮)、葉と右手、果実と右肩も繋がっている。金色の格子に遍く届く陽光に包まれた世界のメタファーとするなら、光のエネルギーを植物を介して得る人間(ないし動物)の姿と捉えることができよう。

 すべての生きものはある意味で、形態から形態、主体から主体、実存から実存へとうつろい続けるような1つの同じ身体、同じ生、同じ自己である。この生とは惑星を生気づける生であり、惑星もまた生まれ、既存のコール(身体=天体)――太陽――から逃れ、45億年前に物質的なメタモルフォーゼによって生み出された。わたしたちはみなその小片であり、閃光である。先行する数えきれぬ存在のなかで生がなしたこととは別の仕方で生きようとする、天体的物質でありエネルギーである。しかしながら、この共通の起源――より適切に言えば、わたしたちは地球の肉と太陽の光、つまり「わたし」と言う新しい仕方を再発明する肉と光であるということ――は、わたしたちにただ1つの同一性を強いるわけではない。反対に、より深くて親密な親縁性(わたしたちは地球と太陽であり、それらの身体、生である)のゆえにこそ、わたしたちは絶えず自分の本性と同一性とを否認するよう定められており、それらを新たなものへと手を加えるよう強いられている。差異はけっして自然ではなく、運命と責務である。わたしたちは互いに異なったものになる義務を、自分をメタモルフォーゼする義務を負っているのである。(エマヌエーレ・コッチャ〔松葉類・宇佐美達朗〕『メタモルフォーゼの哲学』勁草書房/2022/p.22)

山田哲平《〈骨と拡張〉シリーズ/PULSE-Fade to White》(2650mm×300mm×350mm)は、真鍮の枠に取り付けられたスピーカーから垂らされた白い絹糸の束が心音とともに振動する作品で、吹き抜けに吊されている。滝の白糸のような流水は、心音により血液を、さらに血液により運搬される酸素の流れをも想起させよう。また、白い糸束は常に運動し、その形を変じる。森夕香の描く花(《あいづち》・《ミミクリー》)や植物・人間(《来世の夢》)に囲まれることで、植物など光合成生物の存在により好気呼吸をする運動可能な生命の誕生を促した歴史にも思いを馳せさせるだろう。
山田哲平《〈骨と拡張〉シリーズ/変容する世界の為の3連作》(450mm×300mm×110mm、430mm×310mm×120mm、480mm×310mm×120mm)は、それぞれ直方体や六角柱を歪めた真鍮の枠組みの中にレンチキュラープリントを施した不定形の板を配した作品で、壁面に掛けられている。レンチキュラーの板は雲の浮かぶ空、あるいは油膜のようなイメージであり、その形はアメーバにも身体にも、あるいは鉱物など無機物にもとれる。直方体や六角柱の枠は、それぞれの存在にとっての世界、所謂環世界の表現と言えよう。枠が歪み、レンチキュラーの板が枠から食み出すのは、見る位置や角度により変化する枠の形とレンチキュラープリントの表情と相俟って、生命や無機物が変容し、それに伴い変化する世界の有り様を表わすようだ。

 郭象〔引用者註:郭象『荘子』斉物論篇注〕は、1つの区分された世界において他の世界を摑まえることはできない、と主張する。「まさにこれである時には、あれは知らない」からである。この原則は、荘周と胡蝶、夢と目覚め、そして死と生においても貫徹される。この主張は、1つの世界に2つ(あるいは複数)の立場があり、それらが交換しあう様子を高みから眺めて、無差別だということではない。そうではなく、ここで構想されているのは、一方で、荘周が荘周として、蝶が蝶として、それぞれの区分された世界とその現在において、絶対的に自己充足的に存在し、他の立場に無関心でありがら、他方で、その性が変化し、他なるものに化し、その世界そのものが変容するという事態である。ここでは、「物化」は、1つの世界の中での事物の変化にとどまらず、この世界そのものもまた変化することでもある。
 それを念頭に置くと、胡蝶の夢は、荘周が胡蝶という他なる物に変化したということ以上に、それまで予想だにしなかった、胡蝶としてわたしが存在する世界が現出し、その新たな世界をまるごと享受するという意味になる。それは、何か「真実在」なる「道」の高みに上り、万物の区別を無みする意味での「物化」という変化を楽しむということではない。(中島隆博荘子の哲学』講談社講談社学術文庫〕/2022/p.171-172)

山田哲平《〈骨と拡張〉シリーズ/Orifice》(1160mm×700mm×470mm)は2曲一隻の屏風のような真鍮の枠に、動物の皮にレンチキュラープリントを施したものを吊してある。毛皮が象徴する生命が「他なるものに化し、その世界そのものが変容するという事態」を表わしていると言えまいか。あらゆる存在は他の世界への開口部(orifice)であり、世界を変容させる境界なのである。森夕香《夜半散歩》に立ち返れば、人間である「わたし」が月に変容し、月として「その新たな世界をまるごと享受する」ということだ。