エミリー・ブロンテ『嵐が丘』〔新潮文庫フ-5-4〕新潮社(2003)を読了しての備忘録
Emily Brontë, 1847, "Wuthering Heights"
鴻巣友季子訳
1801年。社交から離れることを決したロックウッドは曠野の辺鄙な屋敷「鶫の辻」を借り受ける。「嵐が丘」に住まう大家ヒースクリフは人を寄せ付けない御仁で、義理の娘キャサリン・リントンも容姿端麗だが傍若無人。ヘアトン・アーンショウは粗野な若者だった。ロックウッドが雪に閉じ込められ「嵐が丘」で過ごした晩、キャサリンと名乗る幽霊の悪夢に魘されたと家主に訴えると、家主が泣きながらその幽霊を招こうとする姿を目撃する。「鶫の辻」に18年暮らすディーンおばさんが、母親がヘアトン・アーンショウの父・ヒンドリー・アーンショウの乳母だった縁で、使用人となる以前からヒンドリーや彼の妹キャサリンの幼馴染みだったと知ったロックウッドは、「嵐が丘」の来し方を語らせる。
ヒースクリフは、ヒンドリー・アーンショーとキャサリン・アーンショーの兄妹の父がリヴァプールで拾ってきた浮浪児だった。養父の信頼を得たヒンドリーはキャサリンと親しくなる一方、ヒンドリーと対立。ヒンドリーは寄宿学校へ出て、父亡き後に妻フランセスを伴い当主を継ぐと、ヒースクリフを召し使いに格下げした。それでもヒースクリスは野良仕事が片付くとキャサリンと曠野を駆け廻って遊んでいたが、キャサリンが「鶫の辻」のリントン家のエドガーやイザベラと交流するようになると、ヒースクリフはキャサリンとの間に格差を感じるようになる。
「いや、べつに――たださ、ちょっとあの壁の暦を見てくれ」とヒースクリフはそう云って、額に入れて窓際にある暦を指しました。
「バツ印がついてるのは、おまえがリントン兄妹とすごした日、点がうってあるのは、俺をすごした日――な、わかるだろ、毎日つけてきたんだ」
「はあ、なるほどね――ばっかみたい! わたしが気にするとでも思ってるの!」キャサリンは小憎たらしい口調で返しました。「だいだい、これのどこに意味があるわけ?」
「俺は気にしてるって云いたかったんだ」ヒースクリフは云います。
「なら、わたしは四六時中あんたといなきゃならないの?」キャサリンはますます不機嫌になって、つめよります。「どんな面白いことがあるっていうのよ――どんなおしゃべりをしてくれるの? あんたなんてわたしを喜ばせようと、なにを云ってもなにをしても、口のきけない赤ん坊といっしょのくせに!」
「俺が無口だからつまらないだの、つきあうのがいやだの、そんなこと聞いてないぞ、キャシー!」ヒースクリフも腹にすえかねてきたらしく、声を高くしました。
「なんにも知らない、なんにも話さない相手じゃ、〝つきあう〟うちに入らないわよ」キャサリンはぼそっと云いました。
云われた相手は立ちあがりましたが、それ以上気持ちをぶちまける暇はありませんでした。敷石道から、馬のひづめの音が聞えてきたからです。お行儀のいいノックの音がして、リントンの若様がお着きになりました。その顔は思わぬ招きを受けた喜びに輝いています。
ふたりの友人の落差を、キャサリンはまちがいなく目にとめたことでしょう。部屋に入ってきたひとりと、出ていったひとり。そのコントラストの鮮やかなことは、荒涼としてやせた炭鉱の山里が、美しく豊かな谷間に入れ替わる場面を見るようでした。(エミリー・ブロンテ〔鴻巣友季子〕『嵐が丘』新潮社〔新潮文庫〕/2003/p.144-145)
キャサリンはエドガーからプロポーズを受ける。それでもキャサリンは戸惑いがあり、ネリー(エレン/ディーンおばさん)に相談する。
「けど、この世には、ハンサムでお金持ちの若い殿方は、ほかにもいくらかいますよ。エドガーさんより、ハンサムで、もしかしたらお金持ちの方も――その方々のことは、どうして愛さないんです?」
「ほかにいたって、わたし知り合えないもの。エドガーみたいな人って会ったことないわ」
「これから会うかもしれませんよ。それに、エドガーさんだって、いつまでもハンサムで若いというわけにはいかないし、ずっとお金持ちともかぎりません」
「でも、いまはそうでしょ。わたしは、〝いま〟がよければ、それでいいの――あまりおかしなことばかり云わないでよ」
「そうですか、なら決まりです――〝いま〟がよければそれでいいなら、リントン様と結婚なさい」
「なにも、おまえの許しがほしいんじゃないわよ――どのみち、彼とは結婚するんだから。けど、こういう返事でよかったかどうか、まだ答えてくれてないわね」
「そりゃ、文句のつけようがありません。若し、〝いま〟のためにだけ結婚するのが、正しいとするならね。さてと、だったら、なにがそんなに悲しいのか、聞かせてもらいましょう。お兄様もお喜びでしょうし……思うに、リントンご夫妻が反対なさるわけでもない――すさみきってギスギスしたうちを抜けだして、れっきとした富家に嫁がれるんですから。しかも、お嬢様はエドガーさんを愛していて、エドガーさんもお嬢様を愛している。八方丸くおさまっているようですけど、どこに問題があるんです?」
「ここよ、それから、ここ!」キャサリンはそう云いながら、片手でひたいを叩き、もう片方の手で胸を叩きました。「魂はどっちに住まうものか知らないけど、魂のなかでは、心のなかでは、これは絶対にいけないことだとわかってるの!」
(略)
「(略)なにも、エドガー・リントンと結婚するいわれなんてないのよ、それは天国に行かなくていいのとおなじ。そう、あの意地悪なヒンドリーがヒースクリフをあんあんい格下げしなければ、エドガーとの結婚なんて考えもするもんですか。でも、いまヒースクリフと結婚したら、わたしは落ちぶれることになるでしょ。だから、あの子には、どんあに愛しているか打ち明けずにおくの。どうして愛しているかというと、ハンサムだからじゃなくてね、ネリー、あの子がわたし以上にわたしだからよ。人間の魂がなにで出来ていようと、ヒースクリフとわたしの魂はおなじもの。リントンの魂とは、稲妻が月明かりと違うぐらい、炎が氷と違うぐらい、かけ離れているの」
お嬢様がひとしきりしゃべり終える前に、あたしはヒースクリフがいることに気づいていました。なにかの動くかすかな気配を察して、顔を振り向けるとあの子がベンチから起きあがり、足音もたてずそっと出ていこうとします。キャサリンが「ヒースクリフと結婚したら落ちぶれることになる」と云うのを耳にしたところで、さすがに黙って聴いていられなくなったのです。(エミリー・ブロンテ〔鴻巣友季子〕『嵐が丘』新潮社〔新潮文庫〕/2003/p.164-169)
立ち聞きしていたヒースクリフは、キャサリンが自分に向けた愛情や結婚により後ろ盾になるとの計画までを聴くことは無かった。
「あの子が天涯孤独になるだって! わたしたちが別れるだって!」キャサリンはカッとして声を荒げました。「ちょっと、誰が別れさせるというのよ、ねえ? そんなことしたら、ミロの運命にあうからね! わたしの生きているうついは、そんなことありっこないわよ、エレン――誰が相手だろうと。まず、この地上のリントンというリントンは溶けて無くなっているでしょうね、ヒースクリフを捨てるのにわたしが〝うん〟というころには、いやだ、捨てると云うんじゃないわよ、冗談じゃないわ! だいたい、そんな犠牲を払うぐらいなら、リントン夫人になるなんてとんでもない! ヒースクリフはこれからも、いままでとおなじように大切な人。エドガーもあの子への反感をとっぱらって、せめて大目に見てくれなくちゃね。わたしが心の底ではあの子をどう思っているか知れば、きっと受け入れてくれる。あ、ネリーったら、いまわたしのこと自分勝手な女だと思ったでしょ。でも、お前は考えたことがないの? ヒースクリフと結婚したら、ふたりして物乞いになるしかないのよ。でも、リントンと結婚すれば、ヒースクリフの後ろ盾になってあげられるし、兄さんの云うなりにさせずにすむ」
(略)
「(略)もし、わたしがこの体の中だけにすっかりおさまるんなら、せっかく神に創られてきたのに、なんになるというの?生きるうえで大きな悲しみはなんだったかといえば、それはヒースクリフの悲しみよ。わたしはその悲しみを最初からひとつひとつ見て、この身に感じてきた。生きていくなかでなにより大切に思っているのは、ずばりヒースクリフなのよ。ほかのなにもかもが消え失せても、あの子だけは残る。彼が残れば、わたしも存在しつづける。けど、ほかのすべてが残っても、あの子が消えてしまえば、わたしは赤の他人になりはてるでしょうね。わたす、自分がその一部だなんて思えっこない。(略)ネリー、わたしはヒースクリフとひとつなのよ――あの子はどんな時でも、いつまでも、私の心のなかにいる――そんなに楽しいものではないわよ。ときには自分で自分が好きになれないのといっしょでね――だけど、まるで自分自身みたいうなの。だから、わたしたちが別れるなんて話は二度としないで――そんなことありえないし――それに――」(エミリー・ブロンテ〔鴻巣友季子〕『嵐が丘』新潮社〔新潮文庫〕/2003/p.170-173)
ヒースクリフが姿を消し、キャサリンはヒースクリフが帰ってこないと錯乱し、嵐の中雨に打たれたまま外で待ち、重篤な病に陥ってしまう。キャサリンを見舞ったリントン家の奥方(エドガーとイザベラの母)が熱病に感染し、当主(エドガーとイザベラの父)にも伝染して相次いで亡くなってしまう。それから3年、キャサリンはエドガーと結婚する。幸せな結婚生活が半年ほど続いた頃、ヒースクリフがヒンドリーへの積もり恨みを晴らすべく「嵐が丘」に戻り、キャサリンの前に姿を現わす。キャサリンがヒースクリフと頻繁に会うようになったのを苦々しく思ったエドガーがヒースクリフを出入り禁止にすると、キャサリンは病んでしまう。ヒースクリフはエドガーに報復するため、イザベラの好意にを利用して籠絡し、結婚する。2ヶ月後にイザベラはネリー宛の手紙に記す。「ヒースクリフ氏は人間なのかしら? だとしたら気が狂っているの? 狂っていないなら悪魔なの?」((エミリー・ブロンテ〔鴻巣友季子〕『嵐が丘』新潮社〔新潮文庫〕/2003/p.285参照)。復讐の鬼ヒースクリフの周到に準備された執拗かつ陰惨な復讐により「嵐が丘」と「鶫の辻」が呑み込まれていく。
「ヒースクリフとわたしの魂はおなじもの」、「わたしはヒースクリフとひとつなの」とキャサリンが告白するように、キャサリンはヒースクリフに限りない愛情を抱いている。そのキャサリンが世界から消え去ると、逆にヒースクリフにとって世界全てがキャサリンとなる。
(略)だいたいなにを見たって彼女を思いだすじゃないか。彼女を髣髴とさせないものがあるだろうか? この床を見たって、板石にあいつの顔かたちが浮かぶぐらいだ! 雲という雲、木という木のなかに――夜の闇の隅々にまで充ち、昼は昼であらゆる物にかいま見え、俺はまさしくあいつの姿に囲まれているようなものさ! どこにでもいそうな男女の面差しに――自分自身の顔にさえも――あいつの俤がちらついて俺の目をあざむく。この世は丸ごと、あいつが生きていたことを、俺がそれを失ったことを記す、膨大なメモみたいなものなんだ!(エミリー・ブロンテ〔鴻巣友季子〕『嵐が丘』新潮社〔新潮文庫〕/2003/p.666-667)
キャサリンとヒースクリフを引き離すことは、核分裂――エミリー・ブロンテの生きた時代発見されてはいないが――にも比せられる巨大なエネルギーを生み、キャサリン、そしてヒースクリフの狂気が読者の心に焼き付けられる。