可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会 立原真理子個展『おく』

展覧会『展覧会『立原真理子展「おく」』を鑑賞しての備忘録
Gallery Hasu no hanaにて、2020年12月19日~25日。

蚊帳に刺繍した作品と水彩画で構成される立原真理子の個展。

会場は連続した2つの空間から成る。ギャラリーに入ってすぐの空間左手には、部分的に刺繍を施した蚊帳がレースのカーテンのように複数天井から垂らされている。白い蚊帳に樹木を刺繍した《西洋シデの生垣》、麻のように薄く茶色がかった蚊帳2枚に祠のようなものを表した《道端の祭壇》、上部が白で下部が青い蚊帳に赤い旗が立つ家並みを表した《道すがら》、白い蚊帳2枚に鳥居や樹影を表した《とおく》。蚊帳は透過性があるため、空間を仕切る蚊帳に刺繍されたモティーフはぼんやりと重なり合わされる。鑑賞者は蚊帳と蚊帳とが作る狭間を、千本鳥居の参道のように、あるいは葛折りの山道を行くように歩いて行くことができる。立ち現れる景色を眺めながら通り抜けることができる。蚊帳の細道を抜けると、蚊帳の向かいの壁面の高い位置に水彩画《生垣とすきま》が掲げられている。生け垣となる樹木の茂れる葉が描かれ、その上に青灰色の網目が重ねられている。上部4分の1程度は何も描き込まずに白いままだ。すると、網目を施した部分だけ樹木が目に入るように描いていることに気が付く。インター「ネット」にせよ、「網」膜にせよ、ネット=網が補足した「見える」情報だけを捉えていることに対する揶揄であろう。見えないもの=余白、換言すれば含意やメタファー、メタメッセージといったものに思いを馳せよ、と訴えるのだ。
もう1つの空間には、山の斜面を表した蚊帳と注連縄を渡した2本の樹木を刺繍した蚊帳を重ねて額装した《山神宮の奥》や斎竹に注連縄を張ったものと拝殿幕とを2枚の蚊帳で表した《祭礼のおく》が展示されている。蚊帳のインスタレーションでも《道端の祭壇》と《とおく》が二重構造になっていた。蚊帳という透過性ある布が二重になっていることは、脂質二重層の構造を持つ細胞膜を思わずにいられない。細胞膜は、生存に必要な物質のやり取りを可能にする選択的透過性を持つ。本展に登場するモティーフはいずれも境界を連想させる鳥居、注連縄、積み石(賽の河原)などであるが、視界を遮ってしまうような境界ではなく、生命維持のための細胞膜に近い性格を持つと言えよう。極端に言えば、海陸の境界となる海岸に建設される巨大防潮堤のような剛体であっては生命は生きながらえることができない。

 質量形相の組み合わせによってできあがるのは、レンガのような剛体である。剛体とは、通常、力を加えても変形しない物体のことをいう。私たちが見慣れている剛体は以下のような特徴を持っている。①境界が明確である。②圧力に抵抗し、構造の同一性を保持する。③ガラスやプラスティック、合成樹脂、人工的に作った氷などを除き、私たちの周りにある自然な剛体のほとんどは不透明である。剛体の存在論とは、この剛体の特性をあらゆる存在のモデルにする世界観のことである。剛体の存在論では、安定した地面の上に剛体が置かれているといった風景が、人間にとっての規範的な環境とみなされる。
 剛体は、安定した地面の上に置かれたまま同一性を保持して、外部からの影響に左右されないように見える。これらの特性から、剛体について次のような現象学的な特徴が得られる。第一に、剛体においては、ある視点から見える部分と見えない部分が峻別される。奥行きを知覚するための手がかりには、線遠近法、光学的肌理の勾配、遮蔽、陰影、コントラスト、両眼視差などがある。剛体は、何かを遮蔽して奥行きを生み出す。剛体は背後に何かを隠すことができ、そして、その剛体自体も他の剛体によって隠されうる。
 不透明である剛体の背景には、何かが隠されているが、それらを見ることができない。剛体の背後に隠されたものが出現するときには、剛体の外縁から突然に姿を現す。この事態を潜在的なものが顕在化することだと言えるならば、剛体の背後に隠された潜在性は完全に不可視である。剛体は、私たちに潜在性を不可視なものと同一視させてしまう。すなわち、剛体は、私たちの中に、潜在性とは知覚されないという考えを植え付ける傾向がある。潜在性が知覚されないならば、それは知的に推論されたものだということになる。しかし、これは正しいだろうか。私たちは剛体の背後にも何かが存在していることを知覚しているのであって、推論などしていないのではないだろうか。むしろ潜在的なものは知覚可能だからこそ、推論可能なのではないか。
 剛体は背後を通過するものを隠す。私の真正面に停車しているトラックは、その背後の歩道を歩いていく人々の姿を隠す。私は左から歩いて来た人を見た。その人はトラックの陰に隠れる。十秒ほどして、その人はトラックの陰の右側から出てきて、さらに歩いて行く。トラックに隠されたときに、私はその人の存在を推論しているのだろうか。そのトラックがガラスでできていたなら、すべては顕わであり、その人の歩みはひとつの出来事として知覚される。剛体による隠蔽が、「その人は左側を歩いていた。その人は隠れている。その人は右側に現れるだろう」という時制を生み出す。
 剛体は、ひとつの出来事を分割し、時間を過去・現在・未来の時制へと切断する。時間に境界を与える。そして、過去は過ぎたもの、未来はいまだ来たらざるものとして非実在化される。トラックが透明であったなら、私の見る位置が異なっていたなら、ひとつの現在の出来事として語られるはずの歩行者の通行が、実在と非実在へと、過去・現在・未来へと分割される。剛体は世界を切り刻み、持続を切り刻む。不可視部の部分、隠された部分によって、持続をもった出来事が、過去・現在・未来という時制をもった人間的時間へと変換される。(河野哲也『境界の現象学 資源の海から流体の存在論へ』筑摩書房〔筑摩選書〕/2014年/p.104-106)

2枚を重ね合わせるのは細胞膜を通じた生命への連想を誘うだけではない。2枚の存在が、手前と奥という位置関係を生じさせる。本展のテーマである「おく」が立ち現れるのだ。そして蚊帳のインスタレーションで鑑賞者が行き来できることで示されるとおり、手前と奥とには互換性がある。

 水と空気は遠感覚、すなわち視覚・聴覚など物理的接触のない知覚を可能にする。空気が媒質となっているからこそ、私たちは知覚できる。水の中の生き物にとっては、水が同様の働きをする。媒質に満ちた空間は、私にとって移動可能な空間であるとともに、光がそこを通過し、音やにおいが媒質とともに運ばれてくる空間でもある。媒質の空間は、私も、物から発せられた光や空気の振動も、ともに移動できる空間である。媒質の中を運動できるもの、すなわち動物だけが知覚する。そして、媒質の中を運動してくるもの(光、音、振動、熱など)が知覚をもたらす。剛体も媒質となるが、その情報伝達力は限られている。
 こうして土と水・空気の差は明らかになる。土は剛体である。水と空気は流体である。土は不透明である。水と空気は透明ないし半透明である。土の奥行きは、遮蔽によって知覚される。水と空気の奥行きは、空気遠近法で知覚される。土は動かない。土は光で熱せられるだけである。水と空気は移動する。そのエネルギーの源は光である。剛体の存在論は、空間を遮蔽し、内部と外部を分断し、内部をテリトリーとする。流体の存在論は、空間に満ち、内部と外部の区別はなく、テリトリーが存在しない。
 これらの水と空気の特性から、次のような現象学的な特徴がえられる。透明ないし半透明である水や空気では、可視的な部分と不可視な部分が連続している。その奥行きは、連続的な不透明性の増加として表現される。流体において表面と内部の区別はない。人間は剛体を対象として扱うことができる。対象とは「ob-ject=前に投げ置かれた」ものである。しかし、水や空気はその意味での対象ではない。人間の身体は、水や空気を対象として扱うことができない。それらは、剛体のように手にとって扱える「手前にある」存在ではないからである。水は触った手を取り囲み、空気は人間を取り囲む。水と空気は、文字通り、私たちを取り囲む環境である。(河野哲也『境界の現象学 資源の海から流体の存在論へ』筑摩書房〔筑摩選書〕/2014年/p.109-110)

手前と奥とが互換可能でありながら、一方を「おく」として振る舞うとき、「おく」が聖化される。その構造に魅せられた作家が、鳥居、注連縄、斎竹のように神聖な力を生み出すスイッチとなる作品を生み出している。