展覧会『竹内公太「Body is not Antibody」』を鑑賞しての備忘録
SNOW Contemporaryにて、2020年7月18日~8月14日。
《エビデンス》は、交通誘導の警備員が手にしている赤色誘導灯を用いて暗闇でアルファベットなどの文字を描いた様子を、長時間露光により撮影した写真群。作者は写真から文字のみを取り出し、欧文フォント「エビデンス」を作り上げた。「証拠」を意味するエビデンス(evidence)をフォントの名称に採用したのは、その語源であるラテン語evidensの持つ「明瞭」や「視える」、そしてフォトグラフ(光画)の意味合いを考慮してのことだという。
ラテン語evidensは、英語でoutを表す"e"と英語でseeを表す"video"(現在分詞:videns)に由来する。そこに「~を最後までやり通す」や「~を最後まで(我慢して)見る」という意味を持つ英語"see out"が隠されている。作者は、2019年夏から2020年春にかけて、福島県の帰還困難区域で警備員をしていたという。原発事故の行く末を見届けようという作者の姿勢が窺える。もっとも、放射性物質の影響は、人間のライフサイクルを遙かに超えて持続する。「最後までやり通す」ことや「最後まで(我慢して)見る」ことは現実的には不可能だ。ところで、現在では写真という訳語が通用しているphotographは、光を意味する古代ギリシャ語φωτωに由来の"photo"と、擦る(=描画)を意味する古代ギリシャ語γράφω に由来の"graph"から生まれた語のため、かつては「光画」とも訳されたこともある(例えば、野島康三などの発刊した「新興写真」の同人誌は『光畫』と題されている。飯沢耕太郎『増補 都市の視線 日本の写真1920-30年代』平凡社〔平凡社ライブラリー〕/2005年/p.64)。赤色誘導灯(=光)が闇夜に描く(=画)文字は、壁面に擦りつけられるような痕跡を残すことなく空を切り、一瞬現れた後には消えてしまう。その刹那とは、放射性物質の半減期に対する人間の生命の儚さである。最後まで見通すことを希求しながら叶わない、絶望のパフォーマンスとしての赤色誘導灯(=光)による描画。経済的な物差しでは価値を測ることのできない行為(=手業=arte=art)を、フォントに変換し、流通させることで、その価値を可視化する企てだ。
《文書1 王冠と身体》は、作者が手がけた「エビデンス」フォントを用いて、トマス=ホッブズの『リヴァイアサン』の有名な扉絵(アブラハム・ボス)のうち王冠と身体の部分だけを描画したもの。王の身体が人民の体によって形作られていることや、コロナウイルスの「コロナ」はギリシャ語で「王冠」を意味するκορώναに由来することに着目し、国民とコロナとの関係を表した。「恐怖や危機に瀕するとき、人々は進んで国という身体のための『抗体』にな」り、「コロナ禍でも、長期的な災禍にあって人が人に対して抗体反応のような振る舞いを」していることに対する疑問が制作の動機となっている。
「自然状態(引用者註:共通権力が存在しない状態であり、ホッブズによれば「万人の万人に対する戦争」状態である)」にあると想定された人々が、平和のためには「自然法(引用者註:万人に共通する普遍的な倫理法則であり、ホッブズによれば、平和を維持・実現するための一連のルール)」の実現が必要不可欠と認識しながら実際にそれを守ることが困難なのは、一方では他者たちもまた「自然法」が命じる「信約(引用者註:契約当事者の一方もしくは双方の履行がまだ行われておらず、たんに将来における履行が信用されているにすぎない状態の契約)」を遵守するという保証がなんら存在しないからであるし、また、他方ではみずからがむしろそれを破ることによって利益を得られる可能性があるからである。そうした「囚人のジレンマ」的状況の解決を可能にする「共通権力」樹立のための「ただ一つの道」を、ホッブズはおおよそ次のように説明している。人々は一人の人間、ないしは複数の人々の合議体を指名して自分たちを代表させ、その者が共通の平和と安全に関する事柄について実行し、あるいは実行させるあらゆることを、自分自身が行うことと認め、そうすることで自分たちの意志と判断を、その者の意志と判断に従わせなければならない。これは、各人がお互いのあいだで、第三者たる「この者あるいはこれらの人々の合議体に権威を与えて、私の自分自身を統治する権利を譲る」という信約を結ぶことによって実現される。その信約によって一人の人間もしくは一つの合議体の権威のもとに合一した人民が「国家」であり、その権威を与えられた者が国家の「主権者」にほかならない。これがいわゆる「社会契約」にもとづいた「設立による国家」の生成である。
ところで、国家の主権者の主要な役割は、たんに刑罰への恐怖によって人々の行為を規制することだけではない。「自然状態」においては何がみずからの安全に対する脅威であり、それを取り除くために何をなすべきかを判断するのは各人であり、その判断がおのおの異なってしまうことが互いの不信や争いを引き起こしてしまうのであるから、それを回避するには「共通の平和と安全」のために何をなすべきかの判定権を主権者に委ね、その意志と判断に各人が従わなければならない。しかも、主権者の意志決定をみずからの意志決定とする信約を一度取り交わしてみずからをその「臣民」とした人々には、等しく主権者の命令に服する「義務」が生じるが、主権者のほうはその信約の当事者ではないために、「臣民」に対していかなる義務も負わないのである。ホッブズは、この主権者と臣民とのあいだにはいかなる信約もないとする論点と、主権者の決定や行為を自分たち自身のものとして責任を担うのはその主権者たちを自分たちの代表とした臣民のほうであるとする論点を繰り返し援用しながら、主権者の権力の絶対性を弁証していくが、その論法は現代民主主義社会の常識を前提とすると、いかにもあざとい絶対主義擁護でしかないように思えてしまう。
だが、歴史的文脈に置き戻して考えるならば、ホッブズが直面していた現実はむしろ、財政的基盤を欠いたまま「王権神授説」を振りかざして絶対君主たろうとした国王と、慣習法によって伝統的に認められてきた権利を盾に主権者の命令に服さない臣民たちとの敵対によって惹き起こされた内戦の悲惨さであった。ホッブズの最も有名な著書のタイトルに用いられた「リヴァイアサン」とは、旧約聖書の「ヨブ記」によれば「地上に比較されうるもの何ものもなく、怖れを知らぬように創られた」怪物であったが、そのリヴァイアサンになぞらえて「すべての驕り高ぶる子ら」を沈める強大な力をもつよう彼が期待した国家は、「不死なる神」ならぬ「可死なる神」であり、現に革命期には「仮死」状態にあったのである。(小林道夫責任編集『哲学の歴史 第5巻 デカルト革命』中央公論新社/2007年/p.92-94〔伊豆藏好美執筆部分〕)
アブラハム・ボスの描いたリヴァイアサン(=国家)の主権者は王であった。そのため、身体が人々の組み合わせで描かれているのに対し、頭部は《みかけハこハゐがとんだいゝ人だ》的表現にはなっておらず、顔が普通に表されているのである。コロナ禍に直面している日本は王政ではないため、作者は顔の表現を省いたのだ。もっとも、それがゆえに、コロナウィルスを象徴する王冠(κορώνα)が直接身体(=国家=国民の集合体)に覆い被さる(=襲う)結果となっている。また、アブラハム・ボスの人々が「エビデンス」フォントの文字に置き換えられたことで国民の疫学(=統計)的把握を表現してみせ、さらに「エビデンス」フォントのもととなった誘導灯の赤い光が黒い文字に切り替えられることで、点灯から消灯へ、すなわち人々の手が感染を防ぐためにつながれることなく封じこめられている様を表している。そこへ重ねて、人々が国家のための抗体(antibody)として機能してしまっていることを展覧会タイトルで鮮やかに示してみせている。
《文書2 エイリアン》は、《文書1 王冠と身体》(=リヴァイアサン=国家)の向かい側の壁に貼られた「エビデンス」フォントの"A", "L", "I", "E", "N", "S"の文字と、その前に置かれたベンチから成る。これは、「長期的な災禍にあって人が人に対して抗体反応のような振る舞いをする」「『抗体』に識別される側」としてのエイリアン(ALIENS)の立場に身を置くための装置である。作者は、エイリアンを、「本来は自分のものである財産や権利を譲渡することで、人間があるべき本質を失う」ことを意味する「疎外(alienation)」に結びつけ、細胞内に共生する別の生き物(=エイリアン)としてのミトコンドリアに注目する。抗体として機能するより、ミトコンドリア(=エイリアン)として国家=身体に存在する道を選びたいというのだ。確かに、エイリアン(A-LIEN-S)の中には、(英語に無理矢理フランス語を見出せば)他者(=Autres)と自己(=Soi)との絆(=LIEN)の可能性が見えてくる。