可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会 飯嶋桃代個展『Sphinx―人間の台座』

展覧会『飯嶋桃代展「Sphinx―人間の台座」』を鑑賞しての備忘録
ギャルリー東京ユマニテにて、2024年2月5日~24日。

ギリシャ神話において通行人に「朝は4本足、昼は2本足、夕は3本足で歩く生き物は何か」謎をかけ、答えられない者を殺していたスフィンクスをモティーフに、恰も「多くの亡骸が埋まったフェキオン山からスフィンクスが鎮座する台座を切り出す」ように制作した「スフィンクス像のための台座」を中心に構成される、飯嶋桃代の個展。

ギリシャ神話においてスフィンクスは女面獅身、有翼の怪物で、テーベの入口を守っていた。旅行者に「朝は4本足、昼は2本足、夕は3本足となる声を持つ生き物は何か」謎をかけ、答えられない者を絞め殺して貪ったが、オイディプスに「それは人間だ」と解かれると、高所の岩から身を投げて死んだという。

恰も「多くの亡骸が埋まったフェキオン山からスフィンクスが鎮座する台座を切り出す」ように制作した「スフィンクス像のための台座」は3種類ある。《Human Pedestal》(660mm×700mm×700mm)は、頭蓋骨を模した焼き物を蝋で鋳込み四角錐台に切り出した作品。淡黄色の蜜蝋から頭蓋骨の焼き物の切断面がいくつもの浮かび上がる。《Pedestal Cut out of the Earth 1》(260mm×400mm×470mm)は四角錐台の周囲に掘り出されたばかりのように土が附着し、周囲に木や石ころが置かれている。《Pedestal Cut out of the Earth 2》(900mm×530mm×420mm)では、角笛状の木の根のような形をしていて、土やひげ根が附着している。
スフィンクス(像)ではなく、そのための台座を作るのは、オイディプスに謎を解かれたスフィンクスが既に身投げしてしまっているからであろう。スフィンクスの死は、スフィンクスによって殺された人々に対する贖罪である。像なき台座はその不在によって投身や贖罪を象徴するだろう。そればかりではない。台座を設えることは、そこにスフィンクスを復活させるためでもあろう。それはスフィンクスの謎かけを再考することにもなる。身体的特徴で標準化するのは合理的であるかもしれないが、短絡的に過ぎないかと。また殺害者の投身が本当に贖罪になり得るのかと。

 誰かの死と誰かの生は断絶している。或る存在者が無くなることは、別の存在者が存続することにまったく寄与しない。人間は自然物である。或る自然物の死は、別の自然物の生にまったく寄与しない。二元は、人間を〈殺すことはない〉。これは自然物としての二元に課せられている〈神すなわち自然〉の掟、真の自然法である。ところが、世俗的人間は妄想にとらわれているから、政治的社会的存在者の殲滅と自然的存在者の死を混同して戒律を破ってしまう。個人や共同体による死の裁きにしても、妄想にとらわれた戒律違反でしかない。核戦争や純粋戦争にしても、妄想を徹底すれば妄想から目覚めるはずだと念ずる妄想にすぎない。
 では、どうすればよいのか。誰かを殺した誰かが、その妄想を流し去り、破滅の罪をあがなうによは、どうすればよいのか。何もしなくてよいと、何もしないのがよいと答えよう。人間はいつか死ぬからである。死ぬことは、〈神すなわち自然〉が殺すことであり、〈神すなわち自然〉の掟である。死にゆく者は、誰かを殺したところで自らも死んでしまうことを体得して、かの妄想から目覚めるだろう。そして死にゆく者は、死ぬことで罪をあがなうだろう。戒律違反の罪を浄化する神の暴力とは、人間がいつか必ず死ぬという掟のこと以外ではない。神の暴力とは、自然の掟としての戒律なのである。
 かくて神の暴力は現に存在する。では、神の暴力を真似たイメージはどうなるのだろうか。簡単に述べる。殺害者の罪とは、妄想にとわれたことと、戒律を破ってことである。殺害者の贖罪とは、妄想を捨てるために出世間することと、破戒をおのれの死であがなうことである。故に、出世間させて、老化して死ぬのを待てば済む。ところが近代人はこの簡単な答を飲み込むことができない。なぜか。かつては、国家の内部に国家とは無縁の領域が宗教の力によって確保されていた。寺社・山林・家屋敷、追放される場所、島流しにされる場所、渡世人の場所などである。これらは、国家世間の外部として具体的に目に見える形で確保されていた。ところが、近代国民国家が全地球を覆い、国民国家が民主制を標榜するようになって、国家世間の外部はどこにも存在しないという妄想が発生した。そのために、国家世間からの追放は、あの世への追放以外にはありえないという妄想が発生したあ。国家領域の内部にそなえつけられた各種の監禁施設や隔離使節も、世俗的世間を逃れる場所とはされずに、世俗化道徳化社会化の場所とされてきたからである。近代の神話的暴力は、このようにして神の暴力が発現する場所を封鎖してきたのである。だからこそ近代人は、自然の掟を飲み込むことができない。だからこそ近代人は、殺害について無駄な話をやめることができないのである。
 (略)
 死刑や復讐や裁判を要求することは容易である。妄想に参加することは容易だから。しかし、〈殺すことはない〉という戒律と、誰でもいつか死ぬという掟をもちだすのは大変なことである。きわめて困難だし、きっとその労苦は報われない。だからこそ、妄想にとらわれた人々の下から離れた場所を確保するべきなのである。(小泉義之『弔い・生殖・病いの哲学 小泉義之前期哲学集成』月曜社/2023/p.75-77)