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芸術鑑賞の備忘録

展覧会 シャプール・プーヤン個展『キュクロプスの疑念、西洋を見つめる』

展覧会『シャプール・プーヤンキュクロプスの疑念、西洋を見つめる」』を鑑賞しての備忘録
東京画廊+BTAPにて、2023年11月18日~12月23日。

塔やドームを持つ建物を表わしたセラミックを中心とした22点で構成される、シャプール・プーヤンの個展。

最上部にツィンネ(狭間)らしきものが並ぶ円柱型のセラミック《Hidden tower 2》(357mm×357mm×370mm)や「壁面」に正方形の「窓」を規則正しく配列した円柱型のセラミック《Green Tower》(190mm×190mm×380mm)など塔のような作品、横縞の紡錘の上部のようなセラミック《Hidden Dome》(290mm×290mm×350mm)などドームのような作品など、建築模型のような作品が色や構造が異なる台座に載せられている。

 高層建築物の歴史は、崩壊・消失の歴史でもある。建物自身の重さを支えきれなくなった自然崩壊や、自信による倒壊、落雷、焼失などによって壊れた大聖堂、仏塔、鐘塔は多い(近年は、テロの脅威もリスク要因の1つになっている)。それらは、その後、再建されたり、より高いものにつくり替えられたりしてきた。
 壊れるリスクを冒してもなお、高い建築物が求められたのは、なぜなのだろうか。
 宗教学者のミルチア・エリアーデは、人は直立姿勢を取ることによって、上‐下の軸を中心に、空間を前後、左右、上下に広がるものとして認識できるようになったと述べる(『世界宗教史1』上巻)。つまり、直立姿勢によって、人は重力に縛られた存在であることを強く意識し、それゆえ上方、高さへの憧れが生まれたとも考えられる。宗教的機能を有するジッグラトやゴシック大聖堂などが、天に伸びる高層建築物としてつくられたのも、現実を超越した存在(神)の住む領域への憧れ、畏敬の念を表わしているとも解釈できる。
 重力に縛られた存在であることを克服するために、高さを求めたとの見解もある。建築史家のクリスチャン・ノルベルク=シュルツは、垂直性の表現とは「重力――すなわち地上の存在――を支配したり、あるいは重力に屈服するある現実に向かう1つの『通路』(path)を表わして」おり、建てることは「人間のもっている『自然征服』の能力表現する」と述べている(『実存・空間・建築』)。
 また、高さの追求は、宗教的感覚や自然征服の欲求だけでなく、人間の根源的な欲求との見方もある。
 マグダ・レヴェツ・アレクサンダーは、中世イタリアの塔が実用性に基づくものであれば、あれほどの高さは必要ないはずと述べたうえで、塔の建設は「人間の抗しがたいひとつの衝動」(「塔の思想」)であると指摘する。
 19世紀のイギリスの美術評論家・思想家であるジョン・ラスキンも、「人は建築家として技術を身につけると、高いものを建てようとする性向を持ってきた。それは宗教的感覚からではなく、単に溢れんばかりの精神と力に基づくものである。まるで虚栄心を伴って踊り歌うように――子供がトランプのタワーをつくる時の感覚」のように高さが追求されてきたと述べる(John Ruskin, Lectures on Architecture and Painting Delivered at Edinburgh in November 1853)。その感覚は、「高い樹木や峻嶮な山に対して感じるのと同じように、建物それ自体が持つ荘厳さ、高さ、強さに抱く激しい感覚と歓喜の念を伴うものである」(前掲書、同様に拙訳)とも指摘する。
 摩天楼黎明期の建築家ルイス・サリヴァンは、高層ビルの特徴を「そのすらりとした高さ、大地から伸びあがり、舞いあがろうとする熱望、その野放図の美である」と指摘する。この単純な原理をまきまえなければ、「俗っぽく感傷的な、さもなければ軽率で押しつけがましく鈍重な、一群の奇形物」となってしまい、それは「人間の優れた力の否定であり、またそれへの侮辱でしかない」(『サリヴァン自伝』)と述べる。
 つまり、高い建造物を建てようとする衝動は、「見慣れたものの限界を試し、未知のものを探求するという冒険者の感覚」(ファン・レーウェン、前掲書〔引用者註:『摩天楼とアメリカの欲望』〕であった。こうした「冒険者の感覚」が、建設技術の進歩をもたらし、ピラミッド、ジッグラト、大聖堂、摩天楼といった当時の先進的な巨大建造物の建設を支えたのである。(大澤昭彦『高層建築物の世界史』講談社講談社現代新書〕/2015/p.402-404)

《Cross Maze》(285mm×285mm×105mm)は入口を持ちながら窓のない閉鎖的な建造物で、台座に仕込まれた鏡によって中が迷路であることが分かる。平面プランが正方形であることも相俟って、になっていることから、カジミール・マレーヴィチ(Казими́р Мале́вич)のシュプレマティスム絵画《黒十字(Чёрный крест)》を想起させる。

カジミール・マレーヴィチ(Казими́р Мале́вич)は建築模型的な石膏作品アーキテクトン(архитектонами)を制作している。現実の建築の模型として制作したものではないが、アーキテクトンをスカイスクレーパーに見立てた風景のデッサンを残しており、「建築を発生させる空間の動性に、原イメージ(隠喩的イメージ)をあたえていた」と考えられるという。中でも「ゴータ」と名付けられたアークテクトンは「一本の角柱がまず立ち上り、その表面に小さな要素(それ自体も運動から生じる角柱)がとりつき、次々にそれを繰り返していく操作がみられる」、「『上昇』という運動にあたえられた隠喩的な形象」であり。「むかしから『塔』をつくってきた人間の衝動に直接、非再現的形態(隠喩)をあたえた」。すなわちアーキテクトンは「『塔』の原型であった」(多木浩二『眼の隠喩 視線の現象学筑摩書房ちくま学芸文庫〕/2008/p.340-345参照)。

 こうしてみるとマレヴィッチの「アーキテクトン」、あるいはひろくシュプレマティスムには、文化の記号論的局面にひきいれてみればどちらか一方だけでは成り立たない二重の正確があることがわかる。ひとつはこれまでの芸術のなかにどこにも見当たらない形態であろうとすること。しかしもうひとつはこれらの形態が、どこかで、途方もなく古い人類の記憶に結びつくようなところがあること。この両方によって「アーキテクトン」は詩的言語に化していた。後者はマレヴィッチによって、宇宙的な感情といわれたり、次の文章のような曖昧な表現であるが、ある程度は意識されていたようである。

「シュプレマティストの正方形やそこから発生した形態は、未開の人びとの原始的なしるし(シンボル)になぞらえることができる。それらのしるしは、結合においては、装飾ではなく、リズムの感情を表現している。」

「塔」(「ゴータ」など〉をうみだした上昇の運動は、人間のシンボリズムに根深くひろがる。山や木のシンボリズムなどいわば生命のあらわれでもあれば、完成への欲求、聖なるものへ向かう精神的な衝動に対応するものである。(多木浩二『眼の隠喩 視線の現象学筑摩書房ちくま学芸文庫〕/2008/p.351-352)。

塔やドームを持つ建物がセラミックで表現されていることに注意を向けるべきだろう。「やきものとはまず、数百万年かけて花崗岩が粘土へと分解されていくプロセスを想起させる地質学的記憶であ」り、「文化的記憶」として「先史・有史時代におけるある社会や時期について一連の手がかりとなる」(ユーグ・ジャケ〔谷口清彦〕「土とやきもの」エルメス財団編『Savoir & Faire 土』岩波書店/2023/p.10-13参照)。
そして、建築物は、古典的記憶術に結びつく。円柱状の建物の中に反転したドーム《Relic Holder》(300mm×300mm×200mm)を遺物の保管庫として提示していることからも、作家が記憶術に思いを馳せている可能性は極めて高い。

 (略)記憶術の要諦原理は、「場所」と「イメージ」と「秩序」である。術を実践しようとする者は、その準備作業として、まず頭の鳴かんい、情報の器となる仮想の空間を設定しなくてはならない。覚えようとする内容とは関係なく、ひとまず情報の容れ物を頭の中に作ってしまうのだ。(略)
 ある建築を器として選んだのなら、その建物の入口・玄関から、廊下や個々の部屋、階段に至るまでを、相互の位置関係も含めてしっかり記憶し、さらには壁の色や窓の位置、柱の数、家具・調度品や置物など、とにかく空間を分節する際の目地溜池になりうるものは、片端から脳内に刻みつけてゆく。空間を細かく分割すればするほど、それだけデータの収蔵能力が増えることになる。このような仮想建築・空間が記憶の「ロクス(羅:locus)」(「場所」の意)とよばれるもので、記憶術を効果的に運用するためには欠かせない要素である。(桑木野幸司『記憶術全史 ムネモシュネの饗宴』講談社講談社選書メチエ〕/2018/p.25-26)

プーヤンの「アーキテクトン」は原初へと遡るための装置であり、原書の旅程では迷宮を抜けるように読み解きが必要となる。《Summer 1》(300mm×150mm×270mm)は2つのドームを持つ建築であるが、頂上に摘まみのようなものが付加され、女性の両の乳房の形態を取っている。夏というタイトルからも、トップレスの女性を連想させる。「古代文明が残した藝術作品をみれば明らかなように、あらわになった乳房は洋の東西を問わず、豊穣なるものの象徴である」(ロミ〔高遠弘美)『乳房の神話学』KADOKAWA角川ソフィア文庫〕/2016/p.12参照)。乳房に対する人間の抗しがたい衝動は、洋の東西を問わない。そして、スペインの作家ラモン・ゴメス・デ・ラセルナ(Ramón Gómez de la Serna)によれば、乳房は「怪物の眼」であるという。

乳房は怪物の眼によく似ている。恐ろしいほど飛び出た目玉。(ロミ〔高遠弘美)『乳房の神話学』KADOKAWA角川ソフィア文庫〕/2016/p.352)

西東三鬼も「おそるべき君等の乳房」と乳房の恐ろしさを直観していた。人は乳房を見ているのではい。乳房に見入られているのである。
翻って、なぜプーヤンは自らの「アーキテクトン」に乳房を表わしたのか。それは、怪物には2つの眼が必要だと訴えるためである。すなわち、1つ眼の巨人キュクロプスが象徴する西洋の単眼的思考ではなく、乳房という怪物が持つ西洋・東洋の複眼的思考を促すためである。それが、展覧会に冠せられた「ン「キュクロプスの疑念、西洋を見つめる」の所以であろう。