展覧会『小林孝亘「うつわたち」』を鑑賞しての備忘録
西村画廊にて、2023年11月7日~12月9日。
壺や皿など器を1点ずつほぼ真横から捉えた絵画「Vessel」シリーズ17点で構成される、小林孝亘の個展。
《Vessel-white bottole》(530mm×410mm)の明るい灰色の画面には、その中央に白い陶器(あるいは磁器〉の花瓶が真横から描かれている。口の部分から伸びる首は途中から膨らんで胴へ、胴から窄まって裾へ。高台は無い。花瓶の置かれた場所と背景との区別は無いが、円状の影によって設置されていることが示される。「背景が消えている」のは、ディエゴ・ベラスケス(Diego Velázquez)やエドゥアール・マネ(Édouard Manet)の人物画の系譜に連なると言えよう(三浦篤し『エドゥアール・マネ 西洋絵画史の革命』KADOKAWA〔角川選書〕/2018/p.66-75参照)。花瓶は無地であるが、光の具合によって幽かな明暗がある。筆跡は目立つものではないが、消去しようという意図も感じられない。目指されているのは写真のような絵画ではない。絵具が絵筆により画布に載せられた物質としての絵画である。
2000年代初頭の眠る人物を描いた「Small death」シリーズでは、そのタイトルからも生の中に死を眼差す姿勢が明瞭である。また同時期に日光浴する人を描いた「Sunbather」シリーズでは、「背景が消えている」砂浜という海陸――あるいは彼岸と此岸――の境界を舞台に、眠る人物を、打ち上げられたようにも見えるように表わした。それらのシリーズとも併行して「Vessel」シリーズは描かれてきた。「大器」が人を表わすことがあるように、作家が描く「うつわたち」は人物とパラレルである。
ハイデガーによれば、人間(現存在)は「何かを見たり知ったりしても、それを理解しようというのではない。ただ単に「好奇心」から、気晴らしのために世界の表層をうろつき所在なく眺めようとするにすぎない。自らの在来性や将来から遊離し、ひたすら現在にのめり込む好奇心。西洋哲学史における、あの直観・見ることの優位は、詰まるところこの好奇心に由来するものとされる」(高田珠樹『ハイデガー 存在の歴史』講談社〔講談社学術文庫〕/2014/p.221-222)。
「背景が消えてい」たり、器に何も盛られていないのは、過去の蓄積が無く、「ひたすら現在にのめり込む」姿勢を、とりわけ「自らの在来性」からの「遊離」を象徴しているとは言えよう。それと同時に、空漠とした背景の空の器の静止した(still)画面は全てが失われた死(mort)の象徴であり、文字通り静物画(still life/nature morte)であり、ヴァニタスである。
日々の営みや出来事のもとに安んじ、その中に埋没している人が、死という自分の可能性に打ち当たることで、あらためて自分の今いるところ、これまで在ってきた在り方に立ち返る。そこに作用している「過去」から連綿として受け継がれてきた様々な可能性を自分を支え担ってくれている根本的な力として捉え直し、それを良き財、遺産、財産として背負い受ける。そしてさらにはこれはなにがしかの貢献をなしつつ、次の世代へ伝えてゆく……。(高田珠樹『ハイデガー 存在の歴史』講談社〔講談社学術文庫〕/2014/p.238)
鑑賞者(現存在)に対し、器(=現存在〉=死を提示することで、「可能性の受け渡しによる歴史の生起に積極的に参加してゆくこと」(高田珠樹『ハイデガー 存在の歴史』講談社〔講談社学術文庫〕/2014/p.240)を促すのが、「うつわたち」の主眼ではなかろうか。