可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

本 グロフ『運命と復讐』

ローレン・グロフ『運命と復讐』〔新潮クレスト・ブックス〕新潮社(2017)を読了しての備忘録
Lauren Groff, 2015. "Fates and Furies".
光野多惠子訳

第1部「運命の神々」と第2部「復讐の神々」の2部構成。
舞台の脚本家として成功したロット(ランスロット)・サターホワイトと妻マチルドの夫婦を、前半はロットの視点から、後半はマチルドの視点から描く。

フロリダの大富豪の家に生まれたロットは、父ガウェインの死後も遺産で何不自由なく暮らしていたが、チョリーとグエニーの兄妹との交友で問題を起こし、母アントワネットによってニューハンプシャープレップスクールに送られてしまう。教師デントン・スラッシャーによってシェイクスピアの素晴らしさを知るが、孤独は募るばかり。自死しようとしたところ、たまたまいじめられっ子の首吊り死体を発見してしまう。憔悴したロットを見かねた同じボート部のサミュエル・ハリスに励まされ自信をつけたロットは、グエニーの死に打ち拉がれて自らを頼ってきたチョリーを匿い、今を生きることに全力を注いだ。ニューヨークのヴァッサー大学に進学したロットは演劇で成功を収める。最後の舞台の打ち上げ会場で目にしたマチルドに運命を感じたロットは、その場で彼女に結婚を申し込む。だがロットとマチルドとの結婚は、プレップスクールに追放されて以来悪化している母アントワネットとの断絶を決定的にしてしまう。アントワネットからの援助を受けられなくなったロットは、俳優として鳴かず飛ばずで、マチルドの収入でかつかつの暮らしを送ることになった。ある日、ロットは酔った勢いで戯曲『水源』を書き上げる。マチルドから絶賛されたロットは、戯曲を書いて身を立てることにする。『隻眼の王』、『島々』、『森の中の家』と作品を発表するうち、劇作家として地歩を固めていく。

ロットには「どんな女性にもなんらかのセックス・アピールを見つけ出すことができる」(ローレン・グロフ〔光野多惠子〕『運命と復讐』新潮社〔新潮クレスト・ブックス〕/2017/p.53)才能があり、数多くの女性と浮き名を流し「ホグ・マスター(野豚の王〉」との異名を取った。そんなロットは大学時代最後の舞台に立った後、打ち上げの会場でマチルドと運命的な出会いを果す。

 ロットが彼女を見るのはこれが初めてではなかった。どういう子かもいちおう知っていた。たしかマチルドなんとかという名前だ。彼女ほどの美人となると、キャンパスの向こう側にいてもその美しさでこちらの壁が明るくなり、彼女が触れたものには燐光が残るように思われるものだ。彼女はロットにとっては――いや、大学中の誰にもっても――とうてい手の届かない存在で、伝説の女性だった。友だちがいない。とっつきにくい。週末にはニューヨークでモデルをしていて、だからあんな高価そうな服を着ている。パーティーには一度も着たことがない。いわば、台座の上から他の者たちを見おろすオリュンポスの女神のような存在。そうだ、思い出した、名前はマチルド・ヨーダーだ。だが今日の彼は公演の成功のおかげで、女神だろうが何だろうが来いという気分になっていた。彼女が現われたのは自分に会うためだと信じた。
 背後の雷鳴轟く嵐の中で、いや彼の心の中で、音を立てて火花が散った。彼は踊っている人々の間に飛び降りた。勢い余ってサミュエルの目に膝蹴りを喰らわせ、小さな女の子を突き倒してしまった。
 それから人の波をかき分けて部屋を横切り、マチルドの元にたどりついた。彼女の身長はソックス履きで計っても6フィートあった。ハイヒールを履いているいま、彼女の目とロットの口がほぼ同じ高さになっていた。彼女が涼しい目で彼を見上げた。彼はそんな彼女の奥深くに朗らかな笑いが隠れているのを知った。いままでほかの誰も気づかなかったその笑いに早くも気づき、それを愛した。
 彼はこの場面のドラマに感動していた。ああ、それに、なんと多くの人が彼らを見つめていることか。2人一緒に並んでいる彼と彼女のなんと美しいことか。
 その一瞬のうちに、彼は新しい人間に生まれ変わった。過去が遠くに退くのを感じた。その場にひざまずき、マチルドの両手を取って自分の胸に押し当てた。彼は叫んだ。「ぼくと結婚してくれ!」
 彼女は頭をのけぞらせ、白くて長い首筋を顕わにして笑った。そして何か言ったが、その声は騒音でよく聞こえなかった。ロットは彼女の美しい唇の動きを見て「シュア(はい)」と言ったのだと思った。(略)
 シュア、はい。この言葉とともに、彼の背後で1つのドアが閉まった。そしてもう1つのドア、より好ましいドアが音を立てて開いた。(ローレン・グロフ〔光野多惠子〕『運命と復讐』新潮社〔新潮クレスト・ブックス〕/2017/p.59)

ロットは劇作家となった後、妻マチルドを次のように評する。

 「そう、妻の存在がある」ロットは言った。「妻の名前はマチルドというんだ。彼女は聖女だ。ぼくはあんなに純粋な人間は見たことがない。清廉潔白、けっして噓はつかず、馬鹿な行いは許さない。結婚するまで純潔を守る女性などぼくは会ったこともなかったが、彼女はそうだったんだ。彼女は自分たちが出した汚れ物の始末を人にさせるのはよくないと言って、自分で家中をきれいにしている。家政婦を雇う余裕がないわけではないのにね。自分で全部やるんだ。全部だよ。だから僕は自分が書くものは、まず彼女に読んでもらいたいと思っているんだ」(ローレン・グロフ〔光野多惠子〕『運命と復讐』新潮社〔新潮クレスト・ブックス〕/2017/p.181)

ロットが演劇に興味を持つきっかけはプレップスクールの教師デントン・スラッシャーだった。

 (略)「では、きみたちにきいてみよう。悲劇と喜劇の違いは?」
 フランシスコ・ロドリゲスが答えた。「一方は厳粛で、一方は滑稽です。一方は重々しく、一方は軽やか」
 「その答えは間違いだ」とデントン・スラッシャーが言った。「まあ、ひっかけみたいな設問だがな。正解を言うと、違いなどない。あるとしがら、見方の違いだけだ。筋を語ることは同時に風景描写であり、悲劇は喜劇でありドラマである。要はどういう枠組みに当てはめて物事を見るか、ということだ」彼はそう言い、両手を組み合わせて四角い枠を作ったかと思うと、教室内を歩いていった。(ローレン・グロフ〔光野多惠子〕『運命と復讐』新潮社〔新潮クレスト・ブックス〕/2017/p.40)

前半はロットの視点で描かれている。後半は、マチルドの視点へと切り替わる。これが作品の肝である。

 後年、ロットの昔語りの中では――彼はパーティーでも夕食の席でもくりかえしこのエピソードを話し、彼女はいつもの微笑を浮かべ、よっと首をかしげて聞いていた。いっしょになって笑うこともあった――、彼の求婚に対して彼女が「シュア(はい)」と答えたことになっていた。彼女がその間違いを正したことは一度もなかった。彼がずっと勘違いをしたままでも彼女はかまわなかった。そう思っていれば彼は幸せなのだ。彼を幸せにできるなら、彼女も満足だった。シュア(はい)という答え。それはこのときから2週間は彼女が彼と結婚できないことを考えると、ありえない答えだった。だが、彼がそう考えたからと言って、別に目くじらを立てるようなことでもないではないか。(ローレン・グロフ〔光野多惠子〕『運命と復讐』新潮社〔新潮クレスト・ブックス〕/2017/p.310-311)

映画『ビッグ・アイズ(Big Eyes)』(2014)や映画『天才作家の妻 40年目の真実(The Wife)』(2017)のようにゴーストペインターやゴーストライターではないが、マチルドはロットの脚本に手を入れている(ローレン・グロフ〔光野多惠子〕『運命と復讐』新潮社〔新潮クレスト・ブックス〕/2017/p.332参照)。

 女性の物語は愛の物語、他者に溺れる物語だ。少し変化をつけたとしても、溺れたいと願いながら溺れられない物語。あるいは溺れて捨てられ、殺鼠剤を手に入れたり、ロシアの列車の車輪の下に飛び込んだりする物語。もっと当たり障りのない穏便な物語でも、そうしたものにいくぶん修正を加えたものに過ぎない。民間伝承の中では、あるいは中産階級が共有する生き方マニュアルの中では、世のすべての善良なる乙女たちは年を取るとかならず愛ある生活を手に入れることになっている。いっしょに入浴する老夫婦のほのぼのとした後景。夫が麻痺した手で夫のしばびた乳房を洗ってやれば、ぶくぶくと立ちのぼる泡の中に勃起したペニスがピンクの潜望鏡のごとく浮かび上がる。あら、そこにいたのね! という顔を妻がする。プラタナスの並木をよろよろと散策すれば、ちらりと横目で見るだけで物語が語られる。たった一言ですべてが伝わる。蟻塚だよ、と夫が言う。マティーニね、と妻が応じる。そしてそれをきっかけに、言い古した冗談の数々がひとしきり飛び交う。2人の笑い声、その美しい残響。夫婦は快い疲れとともにのろのろと早い夕食の席に着き、手に手を取ってテレビで映画を見るが、そのうちどちらも寝息を立て始める。彼らの体は羊皮紙に包まれた節だらけの枯れ木のよう。ある日、一方がもう片方を死の床に横たえ、多すぎる量の薬を渡す。翌日、愛する者の息ととともに魂がこの世から消え失せる。これぞ人生の伴侶とのあるべき生涯! これがロマンス! 人生の完成形だ! もしもある女性が人生とはそういうものだと思っていたとしたら、悪いのは彼女ではない。もっと大きな流れに押されてそのような考えを抱くようになっただけだ。
 愛はすべてに打ち勝つ! 愛こそはすべて! 愛は輝きに満ちたもの! 愛に身を任せて! といった言葉の数々。
 こうした戯言を、彼女たちは娘らしいチュールのドレスに身を包む年齢になるずっと前から、たとえば歌や映画のタイトルを通じて、穀物を無理矢理喉に流し込まれるガチョウのように詰め込まれてきたのだ。(ローレン・グロフ〔光野多惠子〕『運命と復讐』新潮社〔新潮クレスト・ブックス〕/2017/p.321-322)

上記引用箇所でもギュスターヴ・フロベール(Gustave Flaubert)『ボヴァリー夫人(Madame Bovary)』やレフ・トルストイ(Лев Толстой)の『アンナ・カレーニナ(Анна Каренина)』にさらっと触れられているが、本作品において文学への言及は枚挙に暇が無い。次の箇所ではシェイクスピアらしいオクシモロンが引用される。

 〈怒りこそ私の食事です。私は我が身を食べ尽くし、食べ過ぎた結果、餓死することでしょう。〉
 これはシェイクスピアの『コリオレイナス』の中のヴォラムニアの台詞だ。ヴォラムニア――鋼のように冷ややかで、支配欲の強い女――は、コリオレイナスよりずっと興味深い登場人物だ。
 ただ、悲しいかな、『ヴォラムニア』というタイトルでは観客は集まらない。(ローレン・グロフ〔光野多惠子〕『運命と復讐』新潮社〔新潮クレスト・ブックス〕/2017/p.421)

因みに、シェイクスピアの『お気に召すまま(As You Like It)』には「人は朽ちていく(we rot and rot)」という台詞があるが、 これとロット(Lotto)の運命(lot)と同一視するのはlとrの区別が付かない日本語話者の発想だろうか。

『アンティゴナッド』(ローレン・グロフ〔光野多惠子〕『運命と復讐』新潮社〔新潮クレスト・ブックス〕/2017/p.217-226)を始め、ロットの戯曲が紹介され、文字通りの劇中劇を楽しむことができる。戯曲がそのまま作品の一部を構成する場面もある。

ロットとマチルドの住まいの上階に住む老女ベット(ローレン・グロフ〔光野多惠子〕『運命と復讐』新潮社〔新潮クレスト・ブックス〕/2017/p.93-95参照)は実はケアの観点からも重要人物であることが後に明らかにされる(ローレン・グロフ〔光野多惠子〕『運命と復讐』新潮社〔新潮クレスト・ブックス〕/2017/p.423-425参照)。

次のような挿話も印象に残る。

 アパートの外の凍てついた歩道には、家路を急ぐ1人の通行人がいた。彼がふと窓の中をのぞくと、クリスマスツリーの清らかな白い光を浴びながら輪になって歌う人々の姿が目に入った。その瞬間、彼の心臓はとんぼ返りをし、いま見た光景が心に焼きついた。その後、家に帰り着いてすでに寝てしまっている子どもたちを見たときも、楚ライバーもばしで子たちのための三輪車を組み立てている膨れっ面の妻を見て、隣家に工具を借りに行ったときも、さらには子どもおたちが喜々としてプレゼントの包みを開けたときも、その光景が彼とともにあった。やがてどもたちが遊び飽きた玩具を包み紙の残骸の間に置き去りにした後も、彼らが成長して家からも両親からも自分の子ども時代からも離れていき、妻と2人で月日の経つのはなんと速いことかと嘆き合ったときもそうだった。アパートの地下階の部屋で柔らかな光に包まれて歌っていた人々は、彼の心の中で、幸せとはこういうものだという光景として結晶し、ずっと彼とともに生き続けた。(ローレン・グロフ〔光野多惠子〕『運命と復讐』新潮社〔新潮クレスト・ブックス〕/2017/p.110-111)