可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

映画『ザ・ホエール』

映画『ザ・ホエール』を鑑賞しての備忘録
2022年製作のアメリカ映画。
117分。
監督は、ダーレン・アロノフスキー(Darren Aronofsky)。
原作は、サム・D・ハンター(Samuel D. Hunter)の戯曲"The Whale"。
撮影は、マシュー・リバティーク(Matthew Libatique)。
美術は、マーク・フリードバーグ(Mark Friedberg)とロバート・ピゾーチャ(Robert Pyzocha)。
衣装は、ダニー・グリッカー(Danny Glicker)。
編集は、アンドリュー・ワイスブラム(Andrew Weisblum)。
音楽は、ロブ・シモンセン(Rob Simonsen)。
原題は、"The Whale"。

 

アイダホ州。農閑期の殺風景な農場を抜ける道路にバスが停まる。バスを降りた一人の男が電柱が立ち並ぶ道を歩いて行く。農地の先に広がる木立の上には暗い雲が垂れ籠めている。
大学のオンライン講座。分割された画面に受講生の姿が表示されているが、中央の講師の画面はカメラが切断されて何も映っていない。昨日論じたとおり、冒頭文にもっと集中してもらいたい。あまりにも多くが本論の具体例に飛びついている。数週間前に送った段落構成のPDFを確認して欲しい。こういった規則を窮屈だと感じるかもしれないとは承知の上だ。しかし忘れないでもらいたい、当講座の主眼は明確かつ説得的な文章の書き方の修得にある。規則を守れば、自分の考えを効果的に伝えることが可能だ。受講生の1人が講師はカメラを直していないというメッセージを表示させる。クリス、全受講生と共有するメッセージか、よくやった。確かに私のラップトップのカメラは未だ作動しない。請け合うが、映像は無くとも取り立てて問題は無い。レポートを提出していない者は水曜日までに提出すること。例外は認めない。推敲すればするほど文章が良くなるということを念頭に置いて欲しい。書き直せば書き直すだけ自らの考えをより明確かつより説得的に表現することになる。
月曜日。テーブルランプを点しただけの薄暗い部屋。荒い息遣い。カウチには補助手摺が無ければ立ち上がれないほどに太ったチャーリー(Brendan Fraser)が座っていて、激しく右手を動かしている。近くに置かれたラップトップには男性同士が絡むポルノ動画が流れている。突然チャーリーが苦悶し始める。射精が迫ったためではなく、右胸が激しく痛んだためだった。スマートフォンを手に取るが、苦しさと動揺とが相俟って落としてしまう。チャーリーは体を起こして拾うことすら叶わない。クリアファイルを取り出すと、そこに挟まれた1枚のレポートを読み上げ始める。白鯨。この優れた作品の中で…。苦痛のために読み続けることができない。そのときドアがノックされる。リズ? 鍵を使ってドアを開けてくれ! 現れたのは若い男(Ty Simpkins)。何なんだ一体! 闖入者は呆然となる。お前は誰だ? 痛みに襲われ悲鳴を上げるチャーリー。大丈夫? 救急車を呼ぼうか? 若者は男性が男性を後ろから犯す映像に気付く。チャーリーがラップトップを閉じる。これを読んでくれ。チャーリーは自分が読み上げていた紙を青年に差し出す。電話を持ってる? 僕のは使えないんだ。読んでくれ! 分かったよ。白鯨、この優れた作品の中で、作者のハーマン・メルヴィルは、海での出来事を詳しく語っています。この本の最初の部分で、作者は自分をイシュマエルと名乗って、小さな海辺の町にいます。クイークェグという男とベッドをともにします。何ですかこれは? 何故これを読む必要が? とにかく読んでくれ! クジラの説明が書かれているだけの退屈な章に私はこれまでになく悲しい気持ちになりました。というのも作者は自分の悲しい物語を先送りにしようとしていることが分かったからです。悲しい物語。「わずかな時間だけ」。わずかな時間だけですが、この本は私に自分の人生について考えさせました。そして私は嬉しくなりました…。巨漢の苦悶する表情は和らぎ、激痛は引いたようだった。役に立った? 電話持ってます? 僕のは使えないんで。救急車を呼ばないと。助けが必要ですよ。病院には行かない。僕じゃ助けになりませんよ。病院には行かない。すまない、もう出て行っていい。読んでくれたこと感謝するよ。チャーリーは青年から白鯨の小論を返してもらう。本当に大丈夫なんですよね? 若者は雨が降りしきる外へ出て行こうとして今一度確認する。すまない。お前は誰なんだ? イエス・キリストの福音はご存じですか? 何だ? キリストのメッセージを分かち合って人々に…。友人に電話しなくちゃならない。彼女は看護師なんだ、私の世話をしてくれてる。分かりました、行きますね。お邪魔しました。待ってくれ。私の電話がそこに落ちてる…。青年は動けない巨漢のために床のスマートフォンを拾って手渡す。あのな、数分後にどうなってるかさえ分からないんだ。できれば…。若者は男の意図を察して留まることにする。チャーリーは電話を掛けるが、自動応答のメッセージが流れた。僕に読ませたものは何なんです? 小論だよ。私の仕事だ。大学のオンライン講座を担当している。でもなぜ私に読ませたんです? 死にそうだったからだよ。死ぬ前にもう1度聞きたかった。
リズ(Hong Chau)がチャーリーの血圧を測る準備をしている。救急車を呼ぶべきだった。健康保険に入ってないのに? 死ぬより借金の方がマシでしょ。どうしたっていうの? 何で宣教師がいるわけ? 誰かが鍵を掛けないからだ。早くに眠っちゃったから出たの。忘れたてたんだわ。悪いことばかりじゃないでしょ。鍵を掛けてたら…。リズ、嫌だよ、君がいないとき…。分かったわよ。私がいないと閉じ込められるって考え方が嫌いなだけ。黙ってて。リズが聴診器を着け、血圧を測定する。どう? どんな感じか言って。胸に痛みがある。呼吸が苦しいんだ。息が吸えない。眠れてる? 実のところ、あんまり。背中を見せて。チャーリーが前に倒れてリズが背中に聴診器を当てる。喘鳴してる。いつもだよ。いつもより酷い。深呼吸して。痛む? 血圧は? 238の134。おう。ほんと驚きよ。一日トイレに行っていないんだ。漏れそうだ。青年が立ち上がろうとするのを制してリズが補助手摺をチャーリーの前に置く。チャーリーが立ち上がると彼には背丈もあり、ミナミゾウアザラシのよう。少しずつ歩き始める。リズが先に軽く洗面所を片付けておく。手伝った方がいい? 大丈夫。済まない。何が済まないの? 済まない。分からない。ただ済まない。チャーリーがトイレに向かうと、青年も立ち上がる。行かないと。ありがとね。ニューライフから来たんでしょ。教会の評議員のダグは知ってる? ええ、そう思いますが。確かではないです。新入りなので。私の父。ダグとシンディが赤ん坊の私を養子にしたの。素晴らしい。あなたを見かけたこと無かったですけど、新入りなので。大っ嫌いなのニューライフが。子供の時には父に強制的に通わされたの。ひどかったわ、全て「終末」なんてデタラメで育てられたんだから。あなたは若いわね。何で世界に終末が訪れようとしているなんて信じたいわけ? キリストが再臨すれば世界は美しくなると信じているからです。出て行っていいわ。チャーリーが手助けに感謝してるのは分かってる。だけど彼を改宗させようとここにいるなら…。改宗などさせません。メッセージは希望についてです。あらゆる信仰を持つ人々、でしょ。知ってるわ。あなたは優しい人だわ。リズは窓を開けて煙草に火を点ける。だけど、間違いなく、彼はニューライフについて聞きたくなんかないわ。何故です? もの凄い苦痛を与えられたからよ。どうやって? 彼の彼氏が殺されたの。トイレで水を流す音がする。教会のことですか? チャーリーの彼氏が殺されたのよ。おまけにニューライフは私の人生にもひどい傷みを引き起こしたの。あなたはここに来る必要が無い。特に今、今週はね。何故? 何故って彼は恐らく来週にはここにいないからよ。彼はどちらへ? チャーリーがトイレから戻って来る。リズ、呼んでしまって済まない。問題無いわ。いつも死にそうだと思ってしまって済まない。あなたの血圧は238の134。済まない。病院に行って。済まない。済まないって言うの止めてもらえる? 病院に行って。鬱血性心不全なの。病院に行かないと週末までには死ぬことになるわよ。死ぬことになるの。それなら仕事に取りかかった方がいいな。今週は添削する沢山の小論があるんだ。何なの! 分かってる。済まない。私は酷い人間だ。分かってるよ。リズが荒々しく台所を片付ける。キリストの愛と救済のメッセージを聞きたくなりましたか? 必要ないの! リズが宣教師を家から追い出す。なぜ私に小論を読ませたのか、やっぱり理解できないですよ。若者がドアの外からチャーリーに尋ねる。極めて優れた小論だからだよ。

 

アイダホ州。チャーリー(Brendan Fraser)は同性パートナーのアランの死をきっかけに過食となり、補助手摺無しには立てないほどの肥満になった。外出は疎か、ピザの配達員(Sathya Sridharan)にさえ姿を見せようとしない。大学のオンライン講座の文章作成の講師を務めることで生計を立てていた。ある月曜日、チャーリーは男性同士が絡むポルノ動画を見て手淫に興じていると、胸に激痛が走る。死を感じたチャーリーはハーマン・メルヴィルの『白鯨』の感想文を取り出し音読し始める。だがあまりの痛みに読み続けることができない。偶然家を訪問したニューライフの宣教師(Ty Simpkins)が救急車を呼ぼうと言うが、チャーリーは病院を拒み、感想文の代読を要求する。訝しみながらも宣教師が音読すると、チャーリーの激しい痛みは引いていった。看護師をしているアランの妹であり友人のリズ(Hong Chau)が訪れる。チャーリーの血圧は238の134、激しい胸の痛みは鬱血性心不全によるものと見立てた。病院に行くことを促すが、チャーリーは健康保険に加入していないと言って頑なに拒否する。リズは養父がニューライフの主任牧師であること、チャーリーのパートナーである兄のアランがニューライフによって殺されたことを説明して、宣教師を追い出した。リズとチャーリーはテレビを見ながら平穏な時間を過す。リズの帰宅後、再び発作に襲われたチャーリーは『白鯨』の感想文を暗唱しながら1人ベッドに向かう。翌火曜日。オンライン講座の受講生の小論を添削していたチャーリーは、思い立って自分の病状をインターネットで自己診断すると、確実に死が迫っていると、思い切って電話を入れる。シャワー浴び髭を剃ったチャーリーのもとに、8年間会っていなかった娘エリー(Sadie Sink)が姿を現わす。

(以下では、冒頭以外の内容についても言及する。)

チャーリーは同性パートナーのアランとの生活を選び、8年前に妻メアリー(Samantha Morton)と娘エリーを捨てた。アランの死をきっかけに家に引き籠もって過食に走り、鬱血性心不全となっていつ死んでもおかしくない状況に陥った。チャーリーが思い切ってエリーに連絡を取ると、娘は姿を現わした。
タイトルの『ザ・ホエール(The Whale)』は、ハーマン・メルヴィル(Herman Melville)の『白鯨(Moby-Dick; or, The Whale)』に因む。チャーリーは死が間近に迫ると感じると、『白鯨』の感想文を取り出して読む。チャーリーはこれまでに繰り返し読んできたことが、彼が暗唱できることから窺える。
感想文において、『白鯨』の冒頭、イシュマエルと名乗る語り手は、捕鯨船に乗る前にクイークェグという男とベッドをともにすることが説明される。語り手であり主人公、男とベッドをともにするイシュマエルは、本作品の主人公チャーリーに比定される。だが、補助手摺が無ければ立ち上がれないほど太ったチャーリーはむしろ鯨である。
『白鯨』において、主人公イシュマエルは次第に後景に退き、捕鯨船の船長エイハブが前景に出て来る。鯨に片脚を食いちぎられたエイハブは、敵である鯨に「モービィ・ディック」と名付け、復讐に血眼になる。エリーは同性パートナーのために自分のことを捨てた父チャーリーを恨んでいる。片親の喪失は片脚の喪失であり、巨漢のチャーリーは復讐すべき「モービィ・ディック」に相当する。すなわち、エリーはエイハブである。
エイハブは白鯨を殺せば人生が良くなると考えている、と『白鯨』の感想文で紹介される。エリーは父チャーリーに対して怨念を晴らすことができれば、人生が良くなると考えているだろうか。感想文では、たとえ鯨を殺してもエイハブの悲憤を解消する役には立たないと、エイハブは憐れまれる。チャーリーが頭が切れると賛嘆するエリーは、やはり父親に対して復讐することが自らの不幸を解消することに役立たないことを理解しているだろう。
『白鯨』を父娘の愛憎劇に置き換える手腕に痺れる。チャーリーのリヴィングを主な舞台である点にもとは戯曲であったことが偲ばれる。
済まないとくり返すチャーリーに、今度済まないと言ったらナイフを突き立てるというリズに脂肪が厚くて内臓に届かないと言って笑うシーンや、その後、リズがチャーリーの方に頭を凭せ掛ける場面が、2人が無二の親友であることを示していて印象的。
太りすぎて動くことが困難なチャーリーの感情を表情で理解させるBrendan Fraserがとりわけ素晴らしい。
Ty Simpkinsが演じたトーマスは、日本でリメイクするなら北村匠海で決まりだろう。