可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会 広瀬里美個展『小さな重み』

展覧会『広瀬里美展「小さな重み」』を鑑賞しての備忘録
ギャラリイKにて、2024年7月15日~20日

陶製の人物像《幸せ者》と人の略画を描いた廃材の板を壁に並べた《某人間―重み―》とで構成されるインスタレーションを中心とする、広瀬里美の個展。

《幸せ者》(440mm×670mm×550mm)は陶製の人物像。しゃがみ込んだ前傾姿勢で顔を両手で覆う。頭、肩、背、上腕、膝頭以外の形ははっきりせず、床に接する部分は裾が拡がるよう。表面は塑像の原型を作るように小さな粘土を張り重ねてごつごつとした表情であり(その上表面を墨で塗ってあるためになおさらブロンズ像に見える)、頭髪を表現の無いつるっとした頭部と対照的である。

小さな重みがいつからか存在している。
それはとても小さかったのに少しずつ大きくなって
ドロドロと黒くぼくの内側を圧迫し続ける。

世界の大きさに対してぼくはあまりにも小さい。

ぼくの小さな世界はとても平和だよ。
ほんとうに幸せ者なんだよ。
でもこの重みはぼくから離れてくれない。
(作家の本展ステートメントより)

しゃがむ姿勢とともに床に拡がる裾が下降運動、沈み行く状況をイメージさせる。「小さな重み」が人物に働いている。丸くなり、顔を手で覆うのは、外界を遮断して自らの内部に沈潜することを表わす。狭い閉鎖環境の中で「幸せ者」であろうとしている。だが「小さな重み」により脅かされている。「小さな重み」の内実は詳らかではなく、鑑賞者に委ねられている。
もっとも、会場の明度は低く抑えられ、《幸せ者》と、その人物像が背を向ける壁に人の略画を描いた廃材の板《某人間―重み―》が展示され、インスタレーションを構成している。タイトルからも《某人間―重み―》が「小さな重み」の内実として示されていると言えよう。
《某人間―重み―》は、廃材の木の板に○の頭部の下に胴・腕・脚を5本の直線で表わした棒人間を描いたものを数多く並べ、壁面を覆う作品である(なお、カーテンで仕切った先の小空間に「某人間」シリーズ5点が別途展示される)。棒人間は彫り出したり様々な色のクレヨンで描いたりと多様に表現される。形・サイズ・切れ込み・傷みなど1枚1枚の廃材の板切れの固有性と相俟って、1人1人の個性が打ち出されている。ところが薄暗い空間では、個々の違いがはっきりとは認識されない。密集した棒人間は群衆と化す。それは世間や社会の象徴であろう。《幸せ者》と併せインスタレーションとして解釈すれば、他者の評価が気になるようになって、自己評価だけに基づいていた世界は脅かされる、ということが示されていよう。
ところで、棒や柱の方がより人間を象徴するのにより相応しいとも解されるが何故板なのであろうか(実は、棒に近い廃材も一部用いられている)。それは、スマートフォンとして表現するためではなかろうか。スマートフォンを手にする人たち。スマートフォンは人のアトリビュートである。社会はインターネット空間を通じて認識されているのである。

目の前にこどもがいた。
なんて小さな手をしているのだろう。
いつから君はこの重みを抱えることになるのだろう。
(作家の本展ステートメントより)

「この重み」とはスマートフォンの重さのことではなかろうか。こどもがスマートフォン手にすることを暗示するのだ。そして、いったん手にしたら最後、スマートフォンを手放せなくなり、四六時中、それに釘付けになるだろう。

そんなことを思い浮かべた直後
何よりも重い塊がそのこどもを吹き飛ばす。
(作家の本展ステートメントより)

インターネット空間に、おとなもこどももない。誰もが電脳の海のリヴァイアサンに直面するのである。それこそ「重い塊」である。

ああ今日も平和だった。
ぼくは本当に幸せ者だ。
(作家の本展ステートメントより)

スマートフォンを手に取らなければ(ネット空間に接続しなければ)、安穏な生活が送れるだろうか。