展覧会『亀元円展「べつの がわから みる」』を鑑賞しての備忘録
galerieHにて、2023年7月9日~22日。
木彫作品8点で構成される、亀元円の個展。
端を繋いだ2本の棒を松葉状("V"を転倒させた形)に蝋で結び付けたものを3つ、2つ、1つと3段に重ねたものが正面奥の壁に掛けられている。他の作品が全て英語で題名が付されている中、唯一《山》と漢字の題名を持つのは、象形文字の「山」と結び付けるためであろう。
《山》を背景に、展示室の床の中央には、頭と前肢・後肢などを曖昧に表わした羊に見える木彫作品が置かれている。《山》と漢字=象形文字とを結び付けると、つい黄初平が石を羊に変えた話や、漢字の「美」の成り立ち(「羊」+「大」)を連想してしまう。だが、「羊」のタイトル《to see from the other side》が示唆する通り、「羊」の反対側に廻って見ると、そこにいるのは馬である。洞のように彫り込まれた「羊」の背面の中央から伸びた部分に馬が浮かんでいる。夏目漱石が「夢十夜」(第六夜)で彫刻は端から「木の中に埋っている」と表現したように、「羊」の樟材の中に馬が眠っていたことを示している。作家はそれを本展ステートメントにおいて「彫刻は私たちの内側(目を瞑ると出てくる暗闇)に形を持たずに存在しています。」と言表する。堀内正和《D氏の骨抜きサイコロ》がサイコロ(の「目」)を立方体、陰・陽の2つの造形を縦に繋ぐことで提示したような、像がどこに存在するのかという問題に取り組んだ作品と言える。作家は、例えば、「古代の洞窟に線刻されたその線は岩の内側と外側のどちらに存在している」のか(本展ステートメント)に頭を悩ませるのだ。また、作家は、実体とその影との関係を問題にする。「羊」は樟材が彫り込まれることで現れた洞窟であり、「羊」は洞の壁面に投影された馬の影(の実体化)であった。影を見せることで、影の実体を想起させるのが、作家の狙いである。別の側を見るために(to see from the other side)裏へ廻るとは、実体、すなわち「原物であり基準であるイデアの存在」に目を向けさせようとするものではないか。
この比喩〔引用者註:哲学者が学ぶべき最大のものとされた「善のイデア」を学び知るためのプロセスを説明するためにプラトンが用いた「洞窟の比喩」〕によれば、人びとは地下の洞窟のなかに囚われ、洞窟の壁だけを見るように頭を拘束されている。その人びとの背後には火が燃えていて、さらにこの火と囚人たちの間には衝立があり、その衝立の上を見せ物の操り人形のように、さまざまな事物が運ばれていく。囚人たちが目にできるのは洞窟の壁に映ったこうした事物の影だけである。そのため彼らは、それを実物と思いこんで暮らしている。
この描写は、イデア論が示すわれわれの日常の知的状態と一致する。感覚知覚から得られる世界のありさまがそのまま物事の真の姿であると信じ、その原物であり基準であるイデアの存在に思い至ることがない。(中畑正志『はじめてのプラトン 批判と変革の哲学』講談社〔講談社現代新書〕/2021/p.190)
《Eyes》は、2つの小さな穴が穿たれた木の板である。水木しげるの描く妖怪「ぬりかべ」の目の辺りだけを切り取ってきたような、どこかユーモラスな印象の作品だ。背後に廻ると、それぞれの目の穴の背後には白い蝋の塊が取り付けられている。目がピンホールカメラのような光学装置であれば、網膜はスクリーンとなり、そこには倒立像が映ることになる。だが作家は、視覚が単に光学的なものではなく、容易に変形してしまう可塑性に富んだ蝋のようなものであると訴えているのではなかろうか。
《Flower》の一面を種のような形の陽刻とし、他面を花ないし葉の印刻とするのも、同様に、泉下のコンスタンティン・ブランクーシが喜びそうな(?)半球状の《Bird》もまた卵の陽刻であり、翼ないし鳥の印刻であるのも、視覚で捉える像に可塑性があることを訴えるのであろう。そして、可塑性の反対側にある実体としてのイデアへと目を向けさせるのである。
《Form 2》は、骨のような形をした木彫作品で、壁に掛けられている。骨はそれが支え、その周囲に拡がっていた肉の存在を想起するよう促す。同時に、"FORM"とは、「Flesh OR Mind」であり、思考の骨組みとなっている心身二元論を表わすものではないか。「べつの がわから みる」とは、常識に囚われず本質へ手を伸ばす作家のモットーなのだ。